syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

大晦日の散歩 高井戸~宮前

2014-12-31 | syu散歩
今年も今日で終わります。いつもご訪問ありがとうございます。来年もぜひぜひよろしく!!
暖かい日差しの中今日の散歩Dコースです。(月に2~3回)

新年の立派な門松が飾られています。




三鷹井の頭公園・井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流。
流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず
全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。

神田川




新興住宅街で空き地も多い





京王井の頭線
  

  

高井戸清掃局の煙突


京王井の頭線


富士見が丘駅


富士見が丘商店街


宮前公園


今年オープンした体育館




「与謝野晶子」 1878-1942
明星の同人1901年「与謝野鉄幹」と結婚、「みだれ髪」「源氏物語」全訳。パリ帰国後女子教育と女性地位向上に積極的に発言。





都心にしては静かな散歩道。

少林寺 達磨寺とブルーノ・タウト

2014-12-31 | 気まま旅

「妙義山」は、群馬県南西部、下仁田町で、今回は廻らないが、上毛三山の一つ。白雲山(高さ1104m)金鶏山(856m)御岳(963m裏妙義)に分け、
第三紀火山で古いため火山と言わない。「妙義荒船佐久高原国定公園」に属している。

妙義神社は、よく参拝する神社の一つ、白雲山東麓に鎮座で渡己曾神を祀る古い神社。
後白雲・金洞・金鶏の妙義三山を合祀している。祭神ー日本武尊。

群馬県と云えば、昭和13年中島知久平(近衛内閣鉄道大臣)・福田赳夫・福田康夫・中曽根康弘・小渕恵三と4人の総理大臣が出ている。
大正「内藤鳴雪」76才の時、高浜虚子と共に高崎来遊。大正11年建立碑が「達磨寺境内に」

                      秋の空 出てみれば 何もなし
今日は、達磨寺からスタート
冬の風物詩・小林寺七草大祭「だるま市」。数十万人の参拝者に賑わう


「鳳台院達磨寺・山号ー少林山」
黄檗宗 。本尊ー十一面観音 • 北辰鎮宅霊付尊神 。創建年ー正徳2年? 。「高崎のだるま市」で有名な寺。
建築家ブルーノ・タウトが2年ほど過ごし、助監督時代の黒澤明が脚本化、「達磨寺のドイツ人」の舞台でもある。

明治14年6月14日の火災によって寺院と共に古文書の大半が焼失してしまい、創建などの詳細については不詳。
(田島武夫 1973)によれば、(戦時に供出されてしまった)煩鐘の鐘銘に「正徳2年壬竜猛夏仏生日洞山卅六世少林二世天湫出撰」と記載があったと指摘し、正徳2年には成立していたと考えてよいと云う。

「上野国史」では享保7年に前橋城・酒井雅楽頭忠知の懇請をいれて開山水府公護持の霊符を謹請し鎮護国家・武運長久の祈願所としたとある。
また一説には古くからこの地に観音堂があり、1673年~1681年、この地を訪れた一了が達磨禅師の像を彫って安置したと言う。諸説様々である。

縁起だるまで知られている少林山達磨寺は、前橋藩を守護する寺院であった。


「ドイツ建築家ブルーノ・タウト」
1880年生まれのタウトは、ケーニヒスベルクの建築学校を卒業後、ベルリンのブルーノ・メーリンク、シュトゥットガルトのテオドール・フィッシャーの設計事務所勤務を経て、1909年、ベルリンで建築設計事務所開業。
1910年、ドイツ工作連盟に参加。ライプツィヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる。
1919年に、アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想「アルプス建築や宇宙建築師」(Der Weltbaumeister)を描いた。
1924年から携わったブリッツのジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受け、第1次世界大戦で敗戦国として製品を作ることで賠償金を支払っていたドイツでは、労働者が劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであったと云う。
住宅供給公社ゲハークに就職したタウトは、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924年から1931年の8年間で12000軒の住宅建築に関わった。
1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の教授に就任。

本堂には、北斗七星を神格化した「北辰鎮宅霊符尊」を祀り、開運達磨大師の像を安置している
    

親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道でウラジオストックに、海路で日本の敦賀に上陸した。
祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年、日本を訪れ、そのまま亡命した。

来日の翌日、桂離宮へ案内され、桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。
当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。
その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎の達磨寺境内の洗心亭で過ごした。
群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。
1935年に東京・銀座に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。
また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催。
日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の商人・日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。

上州のからっ風が張り子の達磨乾燥に適し、農閑期の副業として発展
  

1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住。
首都であるアンカラのアンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍した(そのほとんどは現存している)。
1938年に長年患っていた気管支喘息のため死去。
最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇。タウトの遺体はエディルネ門墓地に.

1月6・7日、七草大祭「だるま市」は、9代東嶽和尚発案と聞く。
  

著書ー篠田英雄訳 「日本の家屋と生活」。「タウト 日本の家屋と生活」。1995年ほか篠田英雄訳「ニッポン ヨーロッパ人の眼で観た」 ・「タウト著作集」(全5巻)。
他は、「建築・藝術・社会」、「日本の藝術 ヨーロッパ人の眼で観た」、「日本の建築」。篠田英雄訳 「画帖 桂離宮」
篠田英雄訳「日本 タウトの日記 1933年-1936年」、森儁郎〔トシオ〕訳 「日本文化私観 ヨーロッパ人の眼で見た」
「ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た」、斉藤理訳「新しい住居 つくり手としての女性」、斉藤理訳 「一住宅」 杉本俊多訳「都市の冠」等多い。

                   達磨の置物 
    

桂離宮と日光東照宮を対比させ、日本の伝統美を見出し、「ニッポン」・「日本美の再発見」などを著した。
数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えたと云う。
日向別邸は熱海市に寄贈・「旧日向家熱海別邸地下室」が重要文化財に指定。
(日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された)
高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている。

                  タウト・思惟の径(境内)


ブルーノ・タウトが2年間生活した家「洗心亭」
    

「上野國一社八幡宮」
高崎市八幡町にある神社。
旧社格は郷社。元々は碓氷八幡宮と呼ばれていたと言われ、「八幡八幡宮」と通称されるほか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれている。

                      八幡宮


上野國一社八幡宮
957年に源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建。
源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。
主祭神は品陀和気命、併せて息長足姫命、玉依姫命が祭祀。
                              楼門
    

境内敷地は約9,000坪。
現在の社殿(隋身門、拝殿、本殿)は,
1750ー1757年の再建とされる。
本殿は、天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮。

重要文化財ー3面の算額が県の重要文化財に指定されており、その中には、1810年と、県内で最古。
平成の世に入っても算額の奉納を受け付けていると云う。

舞殿                                   拝殿
  

「観音塚古墳」
八幡宮と隣接、7世紀の「前方後円墳」で1945年(昭和20年)発見された。
墳丘長さ105m・前方部高さ14m・後円部の径70m・高さ12mは、県最大の横穴式石室(長さ15.3m)
出土品ーこの後の考古資料館にて。

「観音山古墳」は、倉賀駅東より綿貫町で同じ7世紀の古墳、長さ98m・高さ10m・の墳丘で周囲二重の濠を持っている。石室12.4mで玄室8.17mは
県内最大と云う。出土遺跡は県立博物館に展示されている。

間違いやすいので観音山古墳も説明しました。ここは、「観音塚古墳」。


「観音塚古墳」
主軸はほぼ東西にとり、前方部が西側、後円部が東側に位置。6世紀末頃の築造とさている。県区域では、最後の前方後円墳と考えられている。
石室の構造で自然石最大重量55tで「群馬の石舞台」と称されている。

                        観音塚古墳
  

巨大な石室は、1945年、昭和20年の終戦まじかで防空壕を掘って見つかったと云う。
数多い副葬品は300点余にのぼり古墳時代当時の文化・技術・生活等最高水準を示したと云う。

                       石室
    

1988年高崎市観音塚考古資料館開館ー月曜・祝日休館
古墳石室内も見学できる。古墳出土品展示は入れ替わるので確認して下さい。体験コーナーで古代ガラス・粘土・織物が。

考古資料館
    

考古資料館は、JR群馬八幡駅下車で、国道18号安中バイバス・国道406線・県道前橋、安中線・環状線の中央にある。
その正方形に、八幡二子古墳・八幡宮・剣崎長瀞西遺跡・「観音塚古墳」・平塚古墳が密集している。
平塚古墳ー全長105m以上、5世紀築造。           八幡二子塚古墳ー全長66m、6世紀前半。

出土ー銅椀[6世紀頃中国・朝鮮から伝来した仏教文化、、、。大刀ー原形をとどめて現存銀装(中には、鶏のトサカのような装飾柄頭・唐草金具も)
馬具ー銀・銅・金銅・鉄・木・鹿角・皮等轡のセットも・花形・葉形など。
銅鏡・装身具ー神獣鏡・五鈴鏡・耳環14点。          須恵器ー5世紀のはじめ頃から製造(硬い黒味おびた肌の器)

鏡は弥生時代伝わり、神仏に奉納している、人々が鏡に何を託してか。
    

次回は、箕輪城・榛名神社へ。