「甲州裏街道・滝山街道」
国道411号。八王子市からーあきる野ー青梅ー西多摩ー奥多摩ー山梨県北都留ー甲州ー終点甲府、全長118.7KM、山梨県甲府市に至る一般国道である。
八王子 - 甲府間を通る国道20号(甲州街道)に対し、途中の青梅市から、甲州裏街道と呼ばれる。
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都南西多摩地区の中心、市名は、城山に牛頭天王の8人の王子を祀った「八王子権現・八王子城・守護神」に由来する。(次回は、八王子城址へ)
多摩川の支流「浅川」に沿う八王子盆地の段丘上、その北、加住丘陵・南は多摩丘陵・南西部が高尾山・その北に景信山・陣馬山などで自然公園に。
「大石 定重」1467ー1527
戦国時代の武将。大石氏は武蔵国の国衆で、山内上杉氏の有力宿老。
定重は、遠江守家の五代目、父は大石憲儀。母は矢野範泰の娘で、定重は庶子。
伯父に四代目の源左衛門尉、子に六代目の道俊(顕重か)・遠江守・信濃守がいる。高月城ー滝山城城主となる。
武蔵国守護代。
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室町時代初期、
「大石為重」は、初代関東管領の上杉憲顕に仕え、男子がなく、1334年に、縁戚関係にある木曾義仲の血筋を引くとされる「大石信重」(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。
大石信重は、1351年、挙兵した南朝方の「新田義宗」との笛吹峠の合戦で先陣を勤め、戦功として、1356年、武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。
また、「武蔵国目代職」にも任じられた。1384年、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城。
応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めている。
1458年、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から「滝川城・本拠地」を移したと云う。
15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集「梅花無尽蔵」巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。
1521年、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転したとある。
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1546年,関東に進出した後北条氏の「北条氏康」が河越夜戦で大勝。
その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は武蔵国から排除され、越後国の長尾景虎を頼って没落する。
主家上杉氏の没落により、大石定久は、北条氏康の三男・氏照を娘・「比佐」の婿に迎えて、自らは戸倉に隠居。
領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏は、ほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったという。
小田原征伐により後北条氏が没落すると・
大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えている。
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城郭構造は、連郭式山城 (天守構造なし)
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築城主ー大石定重(築城年、大永元年・1521年)・主な改修者ー北条氏照 。廃城・永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃
遺構は、土塁、堀、井戸。
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1569年、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、
これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。
しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。
「なお、近年、1561年、春に上杉謙信が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した形跡があるのに合戦が起きていないこと、
同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、同年当時滝山城はまだ存在していないとした説もある。
小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた「発給文書」が
出された1567年9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする説もある。」
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現在、都立滝山公園。
滝川城は、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったとある。
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現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、国の史跡に指定されている。
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「北条氏康」 1515-1571 北条家を発展に導いた名将・小田原北条三代目・氏綱の長男
扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越で破り、古河公方を傀儡年、関東の南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争・同盟を繰り返し領土拡大。
税制改革・検地を推進していく、「河越城では、上杉・古河連合軍8万に囲まれ、8千を率いて援軍の向かうが、その都度退却している。
日本三大夜戦「河越の奇襲夜戦」で、北条氏関東支配を決定的にした。
遺言に、上杉謙信頼りにならず、武田信玄と同盟を結べ、、、遺言している。
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多摩川を見下ろす加住丘陵上、戦国時代の山城の遺構がよく残されている。
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城跡一帯は、「滝山都立自然公園」桜の名所・面積約81万m2ある。
「引き橋」
中の丸の木橋が、深い堀の上に架かっているこの橋は、本丸と中の丸を結ぶ引き橋であるが、当時はもう少し下に架けられて、全長も短かく、
引き橋は、曳橋とも書き、戦の時には橋を曳けるようにしている。
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本丸・中の丸・二の丸・空堀などから、上杉謙信・武田信玄猛攻を受け、特に信玄・勝頼父子の1569年10月の戦いは、熾烈を極めたと云う。
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後の北条氏照時代に、攻撃に備えるため、南西約9kmに、次回掲載する「八王子城」を築城移転している。
「金比羅社再建之碑」
由来は、1781年〜、に滝村が造営したと武蔵風土記に記載されている。
江戸時代から本丸一帯は麓の滝村に年貢の免税地として受け継がれており、水田の米、豊富な薪炭、川魚を産物として豊かな村は栄え、多摩川の漁場で捕れた鮎は将軍へ献上されていました。農閑期には多摩川と秋川が合流する地の利を生かし、江戸の繁栄に伴う需要増から森林材の中継地として材木筏を組み、物資を乗せて多摩川を下り、江戸への輸送を村ぐるみの生業としていました。
村人たちは水運の安全と事業の繁栄を願って、多摩川を一望できるこの場所に海運(開運)の神様として名高い金比羅様を祀った。
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天主閣・高い石垣も無い、典型的な中世城郭の縄張りの「滝山城」
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木立の深い城址でした。城下には、横山・八日市・八幡の三宿が城下町をかたちづくっている。この辺りを「元八王子」と呼ばれている。
「中の丸の説明板」
八王子市の城館跡の地図が、
滝山城趾、高月城趾、戸吹城趾(根小屋城趾)、浄福寺城趾、小田野城趾、伝由井氏館、八王子城趾、廿里(とどり)砦、出羽山、初沢城趾(椚田城趾)、片倉城趾、平山城趾、伝由木氏館、伝大石信濃守屋敷。14箇所。
八王子地域は、城の街であった。
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次回は、ここから約9km離れて築城された「八王子城址」へ。