syuの日記・気まま旅

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八王子 平山城

2015-05-27 | 気まま旅

京王線「平山城公園」駅下車、都南西部・多摩川の沖積低地と日野台地と多摩川丘陵で、もと、神奈川県南多摩郡日野宿村で、奈良時代に「烽火台」
の有った飛日野・武蔵七党の一つ「日奉氏・日野宮権現」から「日野市」の市名が。
近くは、「高幡不動尊ー真言宗の寺」「百花園ー文人が愛した名勝」「自然を生かしたー多摩動物公園」が知られている。

駅前駐車場に「平山武者所季重」の居館」の碑が建っていた。


平安時代・鎌倉時代の武士と「西党ー武蔵国の人物」
平安時代、武蔵国は、駿馬の産地であり、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。
武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。
保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍。
各党は、婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。

平山城址は、館跡の丘陵一帯で現在は、住宅と東京薬科大学と城跡公園、武蔵野森林地帯。


鎌倉時代、武蔵武士は、御家人として鎌倉幕府を支えた。
武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だったと云う。
「吾妻鏡」に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。
「六条八幡宮造営注文」でも、469人中84人と圧倒的に多く、日本全国に拡大移住していった。
承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。

広い公園内は、迷路のように遊歩道、桜道・六国の道・クヌギの道などと広場。中央広場に小さく「季重神社」が。
  

「平山季重」平安時代末期 - 鎌倉時代初期 ・1140?ー1212年? ー別名・平山武者所 ー建暦2年・1212年に病没とされるが詳細は不明。
官位ー右衛門尉。氏族ー日奉氏・父母 平山直季・子 友、重村、季武 ・武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将。
多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山)を領し、院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。

    

武蔵国平山(平山城址公園駅付近)で生まれ、1156年、の「保元の乱」で源義朝に従い、1159年、「平治の乱」では義朝の長男源義平に従い、
待賢門での戦闘で「平重盛」の軍勢500騎に17騎で戦いを挑んでいる。
義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごし、治承4年の1180年、に伊豆国に流罪となっていた義朝の遺児源頼朝が挙兵すると
それに従い、その弟源義経に従って富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍している。
特に佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げたと云う。

            平山城址公園から見た駅前住宅街


1184年、季重は源義経率いる木曾義仲追討軍に従い上洛。
宇治川の戦いで根井行親、楯親忠を撃破して京都へ、同年の一ノ谷の戦いでは源義経に従って、奇襲部隊に参加。
同僚の熊谷直実とともに「一ノ谷の平家軍」に突入して、勝利のきっかけを作った。
翌元暦2年の1185年、の「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」でも常に先陣を切って、勇猛果敢に戦ったとある。
戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが無断での任官であったため、これが源頼朝の怒りを買った。
「吾妻鏡」に他の無断任官者と共に「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と頼朝に罵られた記述が残っている。
この頃に、筑前国三笠郡原田荘の地頭職を得ている。

鎌倉幕府の元老として取り立てられた。建久3年の1192年、の源実朝誕生の際、鳴弦の大役を務めている。


平山氏は,日奉宗頼を始祖とする武蔵国西党の一族であり、宗頼は京都から武蔵府中に国司として赴任。
任期終了後も帰国せず土着した。平安時代中期の平将門の乱が起こった頃に武士団としての活動が始まったと云う.
    

南北朝時代以降、武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。
「太平記」では、平一揆や白旗一揆が知られ、その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。
国人達は、武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。

「西党」-多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。
「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。
一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。

    

「季重神社」
昔は日奉明神社と呼ばれ、今でも日奉神社とも言う。
平山季重が祀られているという説のほかに、平山季重が先祖の日奉家の霊を祀ったという説が残る。

鎌倉幕府成立後、大悲願寺や小宮神社(現あきる野市)、 宝蔵寺(現檜原村)を創建。源義経に非常に近い人物だが、平山氏の存続に成功している。
子孫は執権北条氏の粛清をくぐり抜け、戦国時代に後北条氏に従っている。
1590年の小田原征伐で、平山氏重は檜原城に籠城するも落城、平山氏一族は滅亡し、残った一族も没落する。
しかし現在でも平山氏の子孫を称する人々が多摩地区に多く暮らしていると云う。

2006年夏には日野市において「平山季重フェスタ」が開催された。翌2007年からは開催時期を4月上旬に「平山季重まつり」.
    

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