syuの日記・気まま旅

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武田勝頼の新府城

2015-11-04 | 気まま旅
行ってみたいと思っていた勝頼最後の新府城城跡へ行くことが出来ました。中央高速韮崎インターから15分くらいのところです。
ああここで戦おうとして叶わず岩殿城へ落のび最期を迎えたのだと、車も無い時代に難儀なことであったろうと思いを馳せました。

1562年,武田晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする。
「四郎勝頼・武田勝頼」が諏訪氏を継承し、同時に高遠城主となる。
城主であった秋山は飯田城代に、「軍鑑」によれば入城に際して改築が行われ、武田勝頼衆が預けられ親族衆に加えられたという。
武田勝頼は、1570年、に武田氏の正嫡であった義信が廃嫡される「義信事件」が起こると後継的立場となり、信玄により本拠の「躑躅ヶ崎館」に
呼び戻され、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となって、勝頼の嫡子「信勝」の誕生と、信玄の父信虎の死去は、いずれも高遠城でのことである。

信玄後期から勝頼期にかけて武田氏は、領国を接する織田・徳川氏と対立、
高遠城は、対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点、武田氏は、「長篠の戦い」における敗退を契機に領国の動揺を招き、勝頼は、1581年 に領国維持のため

「新府城・山梨県韮崎市」への府中移転と同時に、異母弟の仁科盛信(信盛)を高遠城主を兼任させた。

1582年の天正10年、武田勝頼は、内通した木曾氏攻めを行い、盛信は大将として出陣し、副将として信濃佐久郡内山城代の小山田昌成(二代目備中守)・大学助兄弟が入っている。
織田信長は、本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始、長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。
高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、武田盛信は、信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕し、盛信や昌成・大学助兄弟らは戦死し、
高遠城は落城。城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡していく。

「新府城」
城郭構造ー連郭式平山城 ・天守なし・築城主ー武田勝頼・1582年(天正10年)ー廃城年・1590年(天正18年)

遺構ー土塁、堀(国史跡、指定文化財)


「発掘作業や間伐など整備」
甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。
また、陶磁器類も出土している。支城として白山城・能見城がある。
武田勝頼期の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられる。
具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせる。
横矢を掛け敵兵を攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を無力化できる。
同様な構造の代表的な城に遠江では諏訪原城・小山城、信濃では大島城がある。
ただし、新府城の場合は現在遺構とされる城跡ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、規模の大きさは群を抜く。
また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられるような構造となっており防塁が多数配置されている。
(ただし、これら北側防塁は天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説あり)。

 数千から万単位の兵力による運用が前提で、徳川家康の北条氏直の軍に対する本陣として使用。


新府城が位置する韮崎は盆地北西端に位置。
戦国期に拡大した武田領国においては中枢に位置し、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。
七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し
釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。



1581年、家臣の真田昌幸へ普請を命じたものとされる「長国寺殿御事跡稿、真田宝物館所蔵文書」
1575年、の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で織田・徳川連合軍に武田方が敗北した後、勝頼は領国支配を強化し、河内地方から織田・徳川領国と接する
駿河を領する穴山信君(梅雪)が織田軍の侵攻に備えて七里岩台地上への新たな築城を進言したという。

書状は、「長国寺殿御事跡稿」は、近年原本が発見された。
宛所が欠如しており、「長国寺殿御事跡稿」では宛名を出浦氏と推測され、書状を根拠に新府城の普請奉行を昌幸とする説もあるが、
一方でこの書状では、真田昌幸は勝頼の命により麾下の諸将に人夫動員を通達したものに過ぎず、昌幸が普請奉行であったとする見方を慎重視する
説もある。

新府築城は、天正9年の1581年、から開始され、年末には勝頼が「躑躅ヶ崎館」から新府城へ移住している。
1582年、信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田・徳川連合軍に阻まれて帰国。
織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける。
勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で
信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡する。
同年6月には京都で信長が横死し(本能寺の変)、武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏の争奪戦(天正壬午の乱)が起こると戦略上の重要拠点となるが、後北条氏が滅亡すると廃城となった。





本丸跡


南アルプス 甲斐駒




「気まま旅」2015-9-21~9-26(甲斐大和駅~勝沼大善寺)掲載分もどうぞ。