雫石川・中津川・北上川が合流する「水と杜の城下町・盛岡」
岩手県の県庁所在地、南部藩20万石の城下町、東北地方北部の交通卯・観光拠点、歴史的文化都市で、「盛る岡・盛岡市」まで来た。
北西に南部冨士・岩手冨士のー「岩手山」、北東に姫神山、南西に南昌山、に囲まれ、南方に豊かな「北上平野が開ける。
1597年「南部利直」が城を築き~1618年頃には、城下町の骨格でき、家臣団が「三戸・青森」から移った。
城下には、二重の囲郭を築いている。侍町・町人町・寺屋敷町は内側に配置され、商店街は城の北側・南方に新山河岸・東側呉服・紺屋等の町方、、。
現在、中心部の道路網は城下当時の形態をとどめていると云う。
東北新幹線・本線・盛岡IC・南IC・国道4号線・46号・106号・396号・455号 北上川

「岩手山」
県八幡平市、滝沢市、雫石町にまたがる。西に姥倉山、大松倉山が続くものの、奥羽山脈の主稜からは離れており、独立峰に近い。
東の盛岡側から見る姿は富士山のように長い裾野を引く整った形で、「表岩手」と呼ばれ、南の雫石町や北の八幡平市松尾方面から見ると、
外輪山の連なりが凹凸をなし、「裏岩手」と呼ばれる。
山域は、昭和31年、に十和田八幡平国立公園に指定、山頂には一等三角点「岩手山」(重点整備点)が設置。
別名に、「巌鷲山」がある、本来「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛。
春、表岩手山には雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため、これが山名の由来になったとも伝えられる。
静岡県側から見た富士山に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれる。
古名に「霧山岳」「大勝寺山」。俗称に「お山」。「子富士」とペアで「親富士」と表現することもあると云う。
古来から信仰の山で、山頂外輪を取り囲むように石仏、山麓の滝沢村・盛岡市に岩手山神社が祭られる。
「前九年の役」以後、巌鷲山大権現大宮司として伊豆国出身の「栗谷川(厨川、工藤)家」が代々祭事を務めることとされていたが、後に祭祀権をめぐり攻防があった。
標高ー2037.95m 成層火山(奥州山脈) 常時観測火山

「新渡戸稲造」 1862-1933 国際連盟事務局次長 教育者・農業・思想家 盛岡生まれ
1877年札幌農学校、内村鑑三らと共にキリスト教入信、1884年私費でアメリカ留学・ドイツ大学で農政学・経営学を学ぶ。
札幌農学校の教授・第一高等学校校長・東京帝大教授ー国際文化交流を志す「武士道」英文。
国際連盟事務局次長としてジュネーブ活躍した。
女子教育で東京女子大創立に参画し初代学長に。肖像が5千円札となった。

小さいとき髪をといてくれるのも、ほかの人がすると痛いが、母親だと痛くなかった。
ここに自然な無理のない母の愛がある。
学べどもなお学べども学べども学び足りぬは学びなりけり。
自分が生まれてきたときより死に至るまで、周囲の人が少しなりともよくなれば、
それで生まれた甲斐があるというものだ。
強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。(武士道より)

「原 敬」 1856-1921 初の政党内閣を組織した。「平民宰相」-南部藩重臣の子ー
苦学、司法省法律学校中退、報知新聞記者を経て外務省、「井上馨・陸奥宗光」に見込まれて次官に、朝鮮駐在公使で退官。
毎日新聞社長で、経営手腕発揮する。
1900年立憲政友会創立に参画、北浜銀行・古川鉱業・財界に勢力を築く。第4次伊藤博文内閣逓信大臣・西園寺公望内閣内務大臣
1918年政党内閣を組織ー腐敗事件が暴露され暗殺。
東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件。

「金田一京助」 1882-1971 言語・民俗学者 盛岡生まれ アイヌ語研究ー金田一学と称されているー
東京帝国大学の教授で恩師「上田万年」の勧めで樺太アイヌの言語の研究を。
当時はアイヌ語の研究者がほとんどいない時代で、言語学の聞き取り調査では最も重要な言葉の一つである「ここは何処?」ですら何と言うのか
よく分らない有様だった。
金田一は思案の末、訳の分からない絵を描いた紙をアイヌの子供たちに見せ、その反応から「何?」という言葉を聞き出すことに成功。
ここから膨大な樺太アイヌ語の単語を一つひとつ聞き取り調査で記録するという地道な事業が始まったと云う。
生涯に渡り貧しい生活に耐えながら、金田一はアイヌ語の研究に一生を捧げた。
第二次世界大戦後はアイヌの同化政策に協力したとして批判を受けたと云う。
最近になり再評価が進み、孫に当たる金田一秀穂は、京助がいなければアイヌ語は残らなかったかもしれないと語っている。
当時はアイヌ民族は和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、金田一は「アイヌは偉大な民族だ、
「アイヌ文化は、決して劣ったものなどではない」と真摯に接した。一方で次のようにも書いている。
「しかしまた、それはそれとして、同学の人たちがみんな、りっぱな西洋文学へ入っていったり、西洋の哲学とか、日本の哲学とか、そういう高い思想をたどって、自分自身をつくりあげているとき、自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。
考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました。」
「金田一京助ー 私の歩いてきた道」より

「上・中・下の橋」
上の橋は、南部家第27代当主(第2代藩主)「南部利直」によって、盛岡城築城にあわせて中津川にかけられた橋。
中の橋は、「下の橋」のうちの一つで、1609年と3橋の中では一番歴史が古い。青銅製の擬宝珠が取り付けられたのは、1336年後
村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許された故事によると伝えられている。
元々は南部氏の居城であった三戸城下の川の橋にあったが、盛岡城築城の際に鋳直されて取り付けられた。
何度も橋の流出という災難にあったにもかかわらず、現在慶長14年銘のものが8個、慶長16年銘のものが10個、合計18個の擬宝珠が取り付けられ
昭和20年に国の重要美術品に指定。(重要美術品がそのまま橋に取り付けられているのは大変珍しいという)
「下の橋」
1612の慶長17年、に架けられた。
上の橋や中の橋同様、何度も洪水による橋の流出に見舞われた。
下の橋の擬宝珠は、明治43年の洪水で流されて、洋式橋に掛け替えられた中の橋のものを移築したものであり、もともと下の橋には擬宝珠がなかった。
現在の下の橋は、大正元年に架けられたもの。

「ちやんがちやがうまこ」の詩情の地ー宮 澤 賢 治ー
夜明げには まだ間あるのに 下のはし ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。
ほんのぴゃこ 夜明げがゞった雲のいろ ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。
いしょけめに ちゃがちゃがうまこはせでげば 夜明げの為が 泣くだぁぃよな氣もす。
下のはし ちゃがちゃがうまこ見さ出はた みんなのながさ おどともまざり。
賢治、1896ー1933、現花巻市で生まれ、 盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)、青春時代を盛岡で過ごしている。
大正6年、賢治が高等農林3年生の時、盛岡中学校に入学することになった弟とともに下の橋のたもとの玉井家に下宿、当時をしのぶ井戸だけが残され、
「下の橋」-南部氏が盛岡に城を築き、城下町をつくったとき、河南地区を結ぶ重要な「はし」としてつくられ、
欄干には歴史を感じさせる擬宝珠がついている。この橋が、盛岡の初夏の風物詩チャグチャグ馬コの馬が渡る道筋で、賢治の方言短歌が。
賢治が使っていた井戸が、今は空き地

賢治は、弟青六と飲んでいた「賢治清水」現在も健在。
ちゃんがちゃがうまっこの詩碑が

1914年の大正3年、18歳、
賢治は、肥厚性鼻炎手術のために岩手病院、(現在の岩手医科大学附属病院)入院。
詩は晩年、入院当時のことを回想して書かれたものですが、実はこの岩手病院には、賢治にとって忘れられない思い出があると云う。
それは、入院した賢治は、岩手病院の看護婦「高橋ミネ」さんに恋をする。
賢治の初恋と云う。(賢治研究者の間でも知られていますが、恋の相手のミネさんの人となりについては、わずかな情報しかないと云う)

「まちづくり」
県都として政治・経済などの中心的役割を担い,今日では商業・業務などの都市機能が集積する近代的な都市として発達し,まちの姿も大きく変貌。
明治時代に城郭は取り壊されたものの,まちづくりの中心には常にお城があり,地域の人々の手で磨かれてきた城下町盛岡ならではの魅力が多くの
人々の心を引き付けている。
城下盛岡町名由来記(改訂版)ー旧町名については,市内27カ所に各町名の由来を記した説明板を設置・管理を行っていると云う。
1598年盛岡城築城ー城中心の城下町

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
「石川啄木」-作品を書いた当時の啄木は、家族4人(妻、娘、父、母)を養うために、病弱な体に鞭打って、働きに働いた。
こうした無理もたたって啄木は、わずか26歳でこの世を去った。
啄木は、この作品をー明治43の1910年7月26日に詠んだと言われ、前年、東京朝日新聞に校正係として入社し、月給による生活を始め、家族を函館から東京へ呼び寄せた。しかし母と妻・節子の折り合いが悪く、家庭の雰囲気は悪かったようだ。
新聞社から給料を得てはいても、暮らしは楽ではなかった。
啄木は、会社や金田一京助をはじめとする友人らから借金を繰り返して、なんとかやりくりしていたが、生活を切り詰めてつつましく暮らしていたというわけではなく、むしろ遊興に貴重な金を浪費していた。金田一などは、啄木のためを思い、大切にしていた蔵書を売り払って、金作していたにもかかわらず、当人はそうしたまとまった金を手に入れると、浅草に度々足を運んでは、プロの女性との一夜を楽しんでいたと云う。
啄木は、校正の仕事のかたわら、歌集「一握の砂」出版の準備や「二葉亭四迷全集」の校正、新聞歌壇の選者などを手がけるほか、いくつもの新聞などに作品を発表している。
石川啄木新婚の家

啄木 1886-1912 国民的詩人・歌人 盛岡中学時代に文芸雑誌「明星」愛読し、上京するが失敗、北海道で新聞記者などを送っている。
1905年ー詩集「あこがれ」出版、翌年朝日新聞校正係就職するが貧乏と病気に苦しむ。
社会主義に感心を深め「一握の砂ー流浪と望郷の思いを」・多くの人に愛唱されている。が、病床で再起できなかった。
没後「悲しき玩具」刊行

盛岡は、文学と彫刻の町とも云う。
文学碑が多い。中でも「石川啄木」ー家・望郷の丘。「宮沢賢治」ー童話「注文の多い料理店」・記念碑。「立原道造」「山口青邨」等
彫刻は、「船越保武」作が多い。
又、盛岡は交通結節点としてよく整備されている。

伝統的特産物は、南部鉄器・紫根染、古代染・南部せんべい・わんこそば。
無形民俗文化財は、さんさ踊り・舟っこ流し・裸参りなど。
西部に繋温泉

次回は、盛岡城へ。
岩手県の県庁所在地、南部藩20万石の城下町、東北地方北部の交通卯・観光拠点、歴史的文化都市で、「盛る岡・盛岡市」まで来た。
北西に南部冨士・岩手冨士のー「岩手山」、北東に姫神山、南西に南昌山、に囲まれ、南方に豊かな「北上平野が開ける。
1597年「南部利直」が城を築き~1618年頃には、城下町の骨格でき、家臣団が「三戸・青森」から移った。
城下には、二重の囲郭を築いている。侍町・町人町・寺屋敷町は内側に配置され、商店街は城の北側・南方に新山河岸・東側呉服・紺屋等の町方、、。
現在、中心部の道路網は城下当時の形態をとどめていると云う。
東北新幹線・本線・盛岡IC・南IC・国道4号線・46号・106号・396号・455号 北上川



「岩手山」
県八幡平市、滝沢市、雫石町にまたがる。西に姥倉山、大松倉山が続くものの、奥羽山脈の主稜からは離れており、独立峰に近い。
東の盛岡側から見る姿は富士山のように長い裾野を引く整った形で、「表岩手」と呼ばれ、南の雫石町や北の八幡平市松尾方面から見ると、
外輪山の連なりが凹凸をなし、「裏岩手」と呼ばれる。
山域は、昭和31年、に十和田八幡平国立公園に指定、山頂には一等三角点「岩手山」(重点整備点)が設置。
別名に、「巌鷲山」がある、本来「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛。
春、表岩手山には雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため、これが山名の由来になったとも伝えられる。
静岡県側から見た富士山に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれる。
古名に「霧山岳」「大勝寺山」。俗称に「お山」。「子富士」とペアで「親富士」と表現することもあると云う。
古来から信仰の山で、山頂外輪を取り囲むように石仏、山麓の滝沢村・盛岡市に岩手山神社が祭られる。
「前九年の役」以後、巌鷲山大権現大宮司として伊豆国出身の「栗谷川(厨川、工藤)家」が代々祭事を務めることとされていたが、後に祭祀権をめぐり攻防があった。
標高ー2037.95m 成層火山(奥州山脈) 常時観測火山



「新渡戸稲造」 1862-1933 国際連盟事務局次長 教育者・農業・思想家 盛岡生まれ
1877年札幌農学校、内村鑑三らと共にキリスト教入信、1884年私費でアメリカ留学・ドイツ大学で農政学・経営学を学ぶ。
札幌農学校の教授・第一高等学校校長・東京帝大教授ー国際文化交流を志す「武士道」英文。
国際連盟事務局次長としてジュネーブ活躍した。
女子教育で東京女子大創立に参画し初代学長に。肖像が5千円札となった。

小さいとき髪をといてくれるのも、ほかの人がすると痛いが、母親だと痛くなかった。
ここに自然な無理のない母の愛がある。
学べどもなお学べども学べども学び足りぬは学びなりけり。
自分が生まれてきたときより死に至るまで、周囲の人が少しなりともよくなれば、
それで生まれた甲斐があるというものだ。
強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。(武士道より)



「原 敬」 1856-1921 初の政党内閣を組織した。「平民宰相」-南部藩重臣の子ー
苦学、司法省法律学校中退、報知新聞記者を経て外務省、「井上馨・陸奥宗光」に見込まれて次官に、朝鮮駐在公使で退官。
毎日新聞社長で、経営手腕発揮する。
1900年立憲政友会創立に参画、北浜銀行・古川鉱業・財界に勢力を築く。第4次伊藤博文内閣逓信大臣・西園寺公望内閣内務大臣
1918年政党内閣を組織ー腐敗事件が暴露され暗殺。
東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件。

「金田一京助」 1882-1971 言語・民俗学者 盛岡生まれ アイヌ語研究ー金田一学と称されているー
東京帝国大学の教授で恩師「上田万年」の勧めで樺太アイヌの言語の研究を。
当時はアイヌ語の研究者がほとんどいない時代で、言語学の聞き取り調査では最も重要な言葉の一つである「ここは何処?」ですら何と言うのか
よく分らない有様だった。
金田一は思案の末、訳の分からない絵を描いた紙をアイヌの子供たちに見せ、その反応から「何?」という言葉を聞き出すことに成功。
ここから膨大な樺太アイヌ語の単語を一つひとつ聞き取り調査で記録するという地道な事業が始まったと云う。
生涯に渡り貧しい生活に耐えながら、金田一はアイヌ語の研究に一生を捧げた。
第二次世界大戦後はアイヌの同化政策に協力したとして批判を受けたと云う。
最近になり再評価が進み、孫に当たる金田一秀穂は、京助がいなければアイヌ語は残らなかったかもしれないと語っている。
当時はアイヌ民族は和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、金田一は「アイヌは偉大な民族だ、
「アイヌ文化は、決して劣ったものなどではない」と真摯に接した。一方で次のようにも書いている。
「しかしまた、それはそれとして、同学の人たちがみんな、りっぱな西洋文学へ入っていったり、西洋の哲学とか、日本の哲学とか、そういう高い思想をたどって、自分自身をつくりあげているとき、自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。
考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました。」
「金田一京助ー 私の歩いてきた道」より

「上・中・下の橋」
上の橋は、南部家第27代当主(第2代藩主)「南部利直」によって、盛岡城築城にあわせて中津川にかけられた橋。
中の橋は、「下の橋」のうちの一つで、1609年と3橋の中では一番歴史が古い。青銅製の擬宝珠が取り付けられたのは、1336年後
村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許された故事によると伝えられている。
元々は南部氏の居城であった三戸城下の川の橋にあったが、盛岡城築城の際に鋳直されて取り付けられた。
何度も橋の流出という災難にあったにもかかわらず、現在慶長14年銘のものが8個、慶長16年銘のものが10個、合計18個の擬宝珠が取り付けられ
昭和20年に国の重要美術品に指定。(重要美術品がそのまま橋に取り付けられているのは大変珍しいという)
「下の橋」
1612の慶長17年、に架けられた。
上の橋や中の橋同様、何度も洪水による橋の流出に見舞われた。
下の橋の擬宝珠は、明治43年の洪水で流されて、洋式橋に掛け替えられた中の橋のものを移築したものであり、もともと下の橋には擬宝珠がなかった。
現在の下の橋は、大正元年に架けられたもの。



「ちやんがちやがうまこ」の詩情の地ー宮 澤 賢 治ー
夜明げには まだ間あるのに 下のはし ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。
ほんのぴゃこ 夜明げがゞった雲のいろ ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。
いしょけめに ちゃがちゃがうまこはせでげば 夜明げの為が 泣くだぁぃよな氣もす。
下のはし ちゃがちゃがうまこ見さ出はた みんなのながさ おどともまざり。
賢治、1896ー1933、現花巻市で生まれ、 盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)、青春時代を盛岡で過ごしている。
大正6年、賢治が高等農林3年生の時、盛岡中学校に入学することになった弟とともに下の橋のたもとの玉井家に下宿、当時をしのぶ井戸だけが残され、
「下の橋」-南部氏が盛岡に城を築き、城下町をつくったとき、河南地区を結ぶ重要な「はし」としてつくられ、
欄干には歴史を感じさせる擬宝珠がついている。この橋が、盛岡の初夏の風物詩チャグチャグ馬コの馬が渡る道筋で、賢治の方言短歌が。
賢治が使っていた井戸が、今は空き地



賢治は、弟青六と飲んでいた「賢治清水」現在も健在。
ちゃんがちゃがうまっこの詩碑が



1914年の大正3年、18歳、
賢治は、肥厚性鼻炎手術のために岩手病院、(現在の岩手医科大学附属病院)入院。
詩は晩年、入院当時のことを回想して書かれたものですが、実はこの岩手病院には、賢治にとって忘れられない思い出があると云う。
それは、入院した賢治は、岩手病院の看護婦「高橋ミネ」さんに恋をする。
賢治の初恋と云う。(賢治研究者の間でも知られていますが、恋の相手のミネさんの人となりについては、わずかな情報しかないと云う)



「まちづくり」
県都として政治・経済などの中心的役割を担い,今日では商業・業務などの都市機能が集積する近代的な都市として発達し,まちの姿も大きく変貌。
明治時代に城郭は取り壊されたものの,まちづくりの中心には常にお城があり,地域の人々の手で磨かれてきた城下町盛岡ならではの魅力が多くの
人々の心を引き付けている。
城下盛岡町名由来記(改訂版)ー旧町名については,市内27カ所に各町名の由来を記した説明板を設置・管理を行っていると云う。
1598年盛岡城築城ー城中心の城下町



はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
「石川啄木」-作品を書いた当時の啄木は、家族4人(妻、娘、父、母)を養うために、病弱な体に鞭打って、働きに働いた。
こうした無理もたたって啄木は、わずか26歳でこの世を去った。
啄木は、この作品をー明治43の1910年7月26日に詠んだと言われ、前年、東京朝日新聞に校正係として入社し、月給による生活を始め、家族を函館から東京へ呼び寄せた。しかし母と妻・節子の折り合いが悪く、家庭の雰囲気は悪かったようだ。
新聞社から給料を得てはいても、暮らしは楽ではなかった。
啄木は、会社や金田一京助をはじめとする友人らから借金を繰り返して、なんとかやりくりしていたが、生活を切り詰めてつつましく暮らしていたというわけではなく、むしろ遊興に貴重な金を浪費していた。金田一などは、啄木のためを思い、大切にしていた蔵書を売り払って、金作していたにもかかわらず、当人はそうしたまとまった金を手に入れると、浅草に度々足を運んでは、プロの女性との一夜を楽しんでいたと云う。
啄木は、校正の仕事のかたわら、歌集「一握の砂」出版の準備や「二葉亭四迷全集」の校正、新聞歌壇の選者などを手がけるほか、いくつもの新聞などに作品を発表している。
石川啄木新婚の家



啄木 1886-1912 国民的詩人・歌人 盛岡中学時代に文芸雑誌「明星」愛読し、上京するが失敗、北海道で新聞記者などを送っている。
1905年ー詩集「あこがれ」出版、翌年朝日新聞校正係就職するが貧乏と病気に苦しむ。
社会主義に感心を深め「一握の砂ー流浪と望郷の思いを」・多くの人に愛唱されている。が、病床で再起できなかった。
没後「悲しき玩具」刊行


盛岡は、文学と彫刻の町とも云う。
文学碑が多い。中でも「石川啄木」ー家・望郷の丘。「宮沢賢治」ー童話「注文の多い料理店」・記念碑。「立原道造」「山口青邨」等
彫刻は、「船越保武」作が多い。
又、盛岡は交通結節点としてよく整備されている。



伝統的特産物は、南部鉄器・紫根染、古代染・南部せんべい・わんこそば。
無形民俗文化財は、さんさ踊り・舟っこ流し・裸参りなど。
西部に繋温泉

次回は、盛岡城へ。