syuの日記・気まま旅

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国会議事堂と日枝神社

2017-10-20 | syu散歩

1927年の昭和12年「早川徳次」により、浅草ー上野(銀座線一部)を開業し翌年、新橋ー渋谷・昭和16年帝都高速交通営団に引き継がれた。
日本民営鉄道教会に加盟し、戦後ー営団地下鉄民営化され、平成14年東京地下鉄(株)が公布された。
「現在」
2号線 日比谷線ー 北千住駅 - 中目黒駅 20.3 km・ 3号線 銀座線ー 浅草駅 - 渋谷駅 14.3 km・ 4号線 丸ノ内線 本線 池袋駅 - 中野坂上駅 -
荻窪駅 24.2 km、 分岐線 中野坂上駅 - 方南町駅 3.2 km・5号線 東西線 中野駅 - 西船橋駅 30.8 km・ 7号線日比谷選 目黒駅 - 白金高輪駅 - 赤羽岩淵駅 21.3 km・ 8号線 有楽町線 和光市駅 - 小竹向原駅 - 新木場駅 28.3 km・ 9号線 千代田線 本線 綾瀬駅 - 代々木上原駅 21.9 km・支線 綾瀬駅 - 北綾瀬駅 2.1 km・ 11号線 半蔵門線 渋谷駅 - 押上駅 16.8 km ・ 13号線 副都心線 和光市駅 - 小竹向原駅 - 渋谷駅 11.9 km がある。

都営地下鉄線ー大江戸線・浅草線・新宿線・三田線・都電軌道・モノレール・都営バス他・JR山手線・中央線・・・・。と広がっている。



東京メトロ「赤坂見附駅」ー港区に立地する唯一の駅・東京メトロ •G 銀座線 - 駅番号「G 05」とM 丸ノ内線 - 駅番号「M 13」
有楽町線・半蔵門線・南北線が乗り入れる永田町駅(千代田区に立地)とは改札内で連絡しており、同一の駅として扱われる。
そのため、当駅発売の乗車券で永田町駅の改札からの入場も可能で、その逆も可能である。
当駅・永田町駅と、隣接する溜池山王駅・国会議事堂前駅間(銀座線・丸ノ内線・南北線、当駅と永田町駅と同様同一駅扱い)、青山一丁目駅間(銀座線・半蔵門線)、四ツ谷駅間(丸ノ内線・南北線)路線でも乗車することができ、当駅と永田町駅を合わせると、東京メトロの路線が1つの駅に「5路線」乗り入れることになり、これは、最多である。



            国会議事堂付近は、常に警察官が警備し路上にいる。


「山王坂」ー 別名 鹿島坂・千代田区永田町2丁目
衆議院新議員会館の間を西の山王社に向かう坂で、長さー170m(高低差7m,平均斜度3.3度)、傾斜は、やや急な坂 。
坂あたり,明治維新までは ほとんどが山王社の日枝神社 の社地であり,社前に下る坂なので この名が。
鹿島坂 ともよばれ、坂の近くに 明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があった。





「国会開設請願運動」

明治政府に対して、国会の開設を建白書や請願書などによって要求した国民的な運動。
1874年の明治7年、、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平、古沢滋ら8名は、愛国公党の決議として民撰議院設立建白書を左院に提出。
「愛国公党」は下野した参議を中心に結成された日本における最初の政党で、建白書はこの運動の一つの引き金となったが、その主張は、
士族と豪農商層に限っての政治参加を求めたもの、77年、8項目にわたって政府の失政をあげた立志社建白が、京都の行在所に提出され、民権運動の基本的要求である国会開設・地租軽減・条約改正などの国民的課題が初めて掲げられた。
75年、各地方の自由民権結社を結集して結成された愛国社は、その後自然消滅していったが、
78年、再興され、翌年の第3回大会では、豪農層を中心とする各地の政社も参加し、国会開設願望書の提出が決議された。80年の第4回大会には、2府22県、約10万人余の請願委託を受けた114人の総代が集まり、国会期成同盟として新発足し、片岡健吉、河野広中(こうのひろなか)らによって国会開設願望書が太政官に提出された。

一方、こうした「愛国社系政社の潮流」とは別に、この運動のもう一つの原動力となったのは、地租改正反対運動や民会・府県会活動を通して政治的成長を遂げた地方の豪農層主体の「在地民権結社の潮流」県議主導路線などともいわれる。
とくに千葉県の一村議桜井静は、79年、全国の府県会議員に、国会開設の方法を協議する東京集会を開くことを呼びかけた「国会開設懇請議案」は、
各地の活動家に大きな刺激を与えたと云う。
岩手、新潟、長野、茨城、山梨、岡山、広島、福岡などが、いち早く呼応し、署名獲得運動や政社の結成に向かった。その方法は、郡書記、県議、戸長などの村の有力者が先頭にたって、その信望を利用しながら、徹底した説得方式をとるものであったと云う。
「国会開設請願運動」は、「愛国社系」と「非愛国社系」の二つの潮流が合流して一気に盛り上がり、全国へと広がっていった。
1874年から81年の8年間に起草・提出された「建白書は90件、請願書は40件」で、国会期成同盟が結成された80年がピークとなっている。
これらに署名参加した者は、沖縄と宮崎を除く全府県から31万9000人以上を数え、とくに高知、千葉、広島、岡山、神奈川、長野などが目だって多い。この請願の波が、10年後の国会開設を約束した詔勅を引き出す大きな力に。
政府の公約した国会開設の時期が近づいた明治17、自由党解党大会で決議・「国会開設期限短縮建白書」が元老院に提出され、翌85年にかけて、同様の建白書提出の動きが各地で、

        議事堂は1936年の昭和11年完成している。


「国会議事堂」-日本の国政の中心・中央塔(高さ65.5m・間口約200m)
大正9年に着工、向かって左が衆議院(伊藤博文・大隈重信・板垣退助の銅像がある)。
80周年記念事業で「憲法記念館」が昭和47年開館した。国会図書館が昭和23年設立で約1200万冊の数と云う、一般会開。





「山王 日枝神社」
太田道灌が1459年ー城内に勧請し、1659年に現在地に鎮座した。日枝神社のお祭りは、神田明神祭を「天下祭」と云われ、神輿の行列が半蔵門
より練り込み、将軍が上覧したと云う。
                         日枝神社


                          鳥居





「猿が鎮座」
神社の“神の使い”は、狛犬でもキツネでもなく、「猿」。
「日枝神社の神様が山の神様で、山に多く猿が生息している事からお使いと考えられるように、猿の夫婦像は、神様のお使いの動物という意味合い。
日枝神社の猿には「まさる(神猿)」という名前が、その名前から魔が去る、勝る、優るという御利益があるとされている。
サラリーマンが多く、年始三が日で約30万人の参拝者が訪れるという。

      猿は「えん(縁)」とも読めることから、結婚や夫婦円満、子宝を望む女性たちからも支持されている。




                          宝物殿


                          本殿


                          神門


議事堂が完成した昭和11年、に(2.26事件)が、内閣は、海軍岡田啓介から広田内閣に、日独防共協定が成立ー日中戦争へと。