「泉鏡花」
明治6年、石川県金沢市下新町に生れ、父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れ。
幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場している。
明治16年、母が次女やゑ出産直後に産褥熱のため逝去し(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受けたと云う。
明治17年、父とともに石川郡松任の摩耶夫人像に詣った。このとき以来、鏡花は終生、摩耶信仰を保持し、金沢高等小学校に進学、翌年には、
日本基督一致教会のミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、明治20年、退学、市内の井波他次郎私塾で英語などを講じ、金沢専門学校(後の第四高等学校)進学をめざしての退学で、早くに志を改めたと云う。
明治22年、下宿において尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
その11月に、紅葉の門下に入ることを志して上京し、明治24年、牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活をはじめ、翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼されたと云う。
泉鏡花「婦系図」の舞台・湯島の白梅ー湯島天神鳥居ー

歌手小畑実さんの「湯島の白梅」
湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の影法師~境内出れば 本郷切通し あかぬ別れの中空に
鐘は 墨絵の 上野山。
不忍池からの入り口に梅の古木が

「菅原道真」 貴族・学問の神様 845-903
文章博士・官僚讃岐守ー醍醐天皇時、従二位・右大臣。 左大臣藤原時平と対立し、太宰権師左遷・失意し他界。
梅を愛しー東風吹けばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそーと呼んだ
今でも太宰府天満宮に「飛梅」がある。
祭神ー菅原道真

1355年創建

天王寺(台東区谷中)・目黒不動(目黒)と共に「江戸三富(宝くじ)」




「坂本龍馬」
1835年、高知県高知市・土佐藩士ー坂本八平の次男として生まれ、坂本家は、郷土株をもつ豪商の分家で裕福な家庭。
龍馬は、1862年土佐を脱藩し、その後は志士として活動し、長崎で貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中」(「海援隊」)を結成し、薩長同盟、
大政奉還を成立させ、倒幕及び明治維新に影響を与えた人物。
「岩崎弥太郎」ー実業家。
1834年、現在の高知県安芸市・半農半士であったー岩崎弥次郎の長男として生まれ、幼い頃から文才を発揮し、江戸に遊学していた時、父が酒に酔ってけんかをして投獄されたことを知り、帰郷。
父の冤罪を訴えたことで弥太郎も投獄されている。
しかし、獄中で同房の商人から算術や商法を学びます。
出獄後は、「吉田東洋」の私塾に入門し、そこで「後藤象二郎」に認められ、土佐藩は外国との貿易を行うために長崎に土佐商会を設立しもす。
弥太郎もそこで働くことになります。
「旧岩崎家住宅」ー重文ー
最高裁判所司法研修所内にある。
イギリス人コンドル設計の明治建築

「吉田東洋」 土佐藩藩政家 1816-62
藩主山内容堂が抜擢・一時失脚後安政4年復職し「後藤象二郎・板垣退助など」若者を積極的に登用して改革を進め、土佐の開国論者であった。
土佐勤王党と対立し、暗殺された。
「坂本龍馬」 土佐藩の風雲児 1835-67
大政奉還は後藤象二郎にさらわれた形、それに対し竜馬は「事は十中の八~九まで自分でやりとげ、残りの一~ニを他人に譲り手柄とさせるのが
良いのだ」と笑った言ったと云う・政府の職制案を作ったときも自分の名は名簿からはずしている。
「岩崎弥太郎」 土佐 1834-85 実業家
吉田東洋・後藤象二郎を知り、長崎の土佐商会に勤め、廃藩置県時、土佐藩大坂表の全財産を継承して「九十九商会」・「三菱商会」・「帝国郵便
汽船」・「為替業、保険業ー日本郵船」次々設立した。






地下鉄「湯島駅」北西約300m。

北側の「無縁坂」は、森鴎外の小説「雁」の舞台に。

「明治初期の日本」
江戸時代初期に隔年の参勤交代に伴って、五街道や脇街道などの道路網が整備され、年貢米を商品集積地大阪や消費地江戸に廻送するために東廻り海路と西廻り海路が開拓されて、18世紀初頭には世界で初の米の先物市場が大阪で機能していた。
寺子屋は、明治維新までに1万を超え、読書と習字、あるいは算術が教えられている。
藩士の子弟の養成を目的として設立された藩校も200以上設立され、庶民に門戸が開かれている場合が少なく、明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもあると云う。
開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は、(1596年~1623年)から(1711年~1740年)の頃までの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着し、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていたと云う。
明治維新の1868年、政府は、欧米諸国へのキャッチアップのための環境整備を始動させた。
廃藩置県(1871年)による中央集権化、秩禄処分(1873年)による士農工商制度の解体、地租改正(同年)による政府収入の確保、内務省設置(1873年)による「殖産興業政策」の推進等多岐にわたり、新しい時代の要請に合わせて、国の仕組みを同時に改革するという大裁断であった。
教育面では、学制(1873年)を公布し近代教育制度を構築・その後、教育令(1879年)で義務教育が最低16ヶ月(毎年4ヶ月以上を4年間)、小学校令(1886年)で4年、改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まる。
明治政府の殖産興業政策は、工部省(1870年設置)及び内務省を中心に進められ、富国強兵をキャッチフレーズとして、特に軍事工業に重点が置かれ、旧幕府直営鉱山であった佐渡や生野鉱山の官営化や横須賀などで官営の軍事工場の経営が進められ、官営の模範工場が設立されたが、そのうち富岡製糸場(1872年設立)や新町紡績所(1877年設立)などが名高い。
当時生糸が輸出の中心的存在だったため、生糸の生産に力を入れていたことによるものである。
1890年代に、繊維産業の輸出に占める割合は50%強、製造工業生産額に占める割合は40%強となっており、産業の担い手の役割を務めていたと云う。
殖産興業政策の進展する中、特定の民間事業家が特権的地位を与えられ、政商と呼ばれ後の「財閥」の芽生えとなったと云う。
明治6年、石川県金沢市下新町に生れ、父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れ。
幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場している。
明治16年、母が次女やゑ出産直後に産褥熱のため逝去し(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受けたと云う。
明治17年、父とともに石川郡松任の摩耶夫人像に詣った。このとき以来、鏡花は終生、摩耶信仰を保持し、金沢高等小学校に進学、翌年には、
日本基督一致教会のミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、明治20年、退学、市内の井波他次郎私塾で英語などを講じ、金沢専門学校(後の第四高等学校)進学をめざしての退学で、早くに志を改めたと云う。
明治22年、下宿において尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
その11月に、紅葉の門下に入ることを志して上京し、明治24年、牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活をはじめ、翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼されたと云う。
泉鏡花「婦系図」の舞台・湯島の白梅ー湯島天神鳥居ー

歌手小畑実さんの「湯島の白梅」
湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の影法師~境内出れば 本郷切通し あかぬ別れの中空に
鐘は 墨絵の 上野山。
不忍池からの入り口に梅の古木が

「菅原道真」 貴族・学問の神様 845-903
文章博士・官僚讃岐守ー醍醐天皇時、従二位・右大臣。 左大臣藤原時平と対立し、太宰権師左遷・失意し他界。
梅を愛しー東風吹けばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそーと呼んだ
今でも太宰府天満宮に「飛梅」がある。
祭神ー菅原道真

1355年創建

天王寺(台東区谷中)・目黒不動(目黒)と共に「江戸三富(宝くじ)」




「坂本龍馬」
1835年、高知県高知市・土佐藩士ー坂本八平の次男として生まれ、坂本家は、郷土株をもつ豪商の分家で裕福な家庭。
龍馬は、1862年土佐を脱藩し、その後は志士として活動し、長崎で貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中」(「海援隊」)を結成し、薩長同盟、
大政奉還を成立させ、倒幕及び明治維新に影響を与えた人物。
「岩崎弥太郎」ー実業家。
1834年、現在の高知県安芸市・半農半士であったー岩崎弥次郎の長男として生まれ、幼い頃から文才を発揮し、江戸に遊学していた時、父が酒に酔ってけんかをして投獄されたことを知り、帰郷。
父の冤罪を訴えたことで弥太郎も投獄されている。
しかし、獄中で同房の商人から算術や商法を学びます。
出獄後は、「吉田東洋」の私塾に入門し、そこで「後藤象二郎」に認められ、土佐藩は外国との貿易を行うために長崎に土佐商会を設立しもす。
弥太郎もそこで働くことになります。
「旧岩崎家住宅」ー重文ー
最高裁判所司法研修所内にある。
イギリス人コンドル設計の明治建築

「吉田東洋」 土佐藩藩政家 1816-62
藩主山内容堂が抜擢・一時失脚後安政4年復職し「後藤象二郎・板垣退助など」若者を積極的に登用して改革を進め、土佐の開国論者であった。
土佐勤王党と対立し、暗殺された。
「坂本龍馬」 土佐藩の風雲児 1835-67
大政奉還は後藤象二郎にさらわれた形、それに対し竜馬は「事は十中の八~九まで自分でやりとげ、残りの一~ニを他人に譲り手柄とさせるのが
良いのだ」と笑った言ったと云う・政府の職制案を作ったときも自分の名は名簿からはずしている。
「岩崎弥太郎」 土佐 1834-85 実業家
吉田東洋・後藤象二郎を知り、長崎の土佐商会に勤め、廃藩置県時、土佐藩大坂表の全財産を継承して「九十九商会」・「三菱商会」・「帝国郵便
汽船」・「為替業、保険業ー日本郵船」次々設立した。






地下鉄「湯島駅」北西約300m。

北側の「無縁坂」は、森鴎外の小説「雁」の舞台に。

「明治初期の日本」
江戸時代初期に隔年の参勤交代に伴って、五街道や脇街道などの道路網が整備され、年貢米を商品集積地大阪や消費地江戸に廻送するために東廻り海路と西廻り海路が開拓されて、18世紀初頭には世界で初の米の先物市場が大阪で機能していた。
寺子屋は、明治維新までに1万を超え、読書と習字、あるいは算術が教えられている。
藩士の子弟の養成を目的として設立された藩校も200以上設立され、庶民に門戸が開かれている場合が少なく、明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもあると云う。
開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は、(1596年~1623年)から(1711年~1740年)の頃までの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着し、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていたと云う。
明治維新の1868年、政府は、欧米諸国へのキャッチアップのための環境整備を始動させた。
廃藩置県(1871年)による中央集権化、秩禄処分(1873年)による士農工商制度の解体、地租改正(同年)による政府収入の確保、内務省設置(1873年)による「殖産興業政策」の推進等多岐にわたり、新しい時代の要請に合わせて、国の仕組みを同時に改革するという大裁断であった。
教育面では、学制(1873年)を公布し近代教育制度を構築・その後、教育令(1879年)で義務教育が最低16ヶ月(毎年4ヶ月以上を4年間)、小学校令(1886年)で4年、改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まる。
明治政府の殖産興業政策は、工部省(1870年設置)及び内務省を中心に進められ、富国強兵をキャッチフレーズとして、特に軍事工業に重点が置かれ、旧幕府直営鉱山であった佐渡や生野鉱山の官営化や横須賀などで官営の軍事工場の経営が進められ、官営の模範工場が設立されたが、そのうち富岡製糸場(1872年設立)や新町紡績所(1877年設立)などが名高い。
当時生糸が輸出の中心的存在だったため、生糸の生産に力を入れていたことによるものである。
1890年代に、繊維産業の輸出に占める割合は50%強、製造工業生産額に占める割合は40%強となっており、産業の担い手の役割を務めていたと云う。
殖産興業政策の進展する中、特定の民間事業家が特権的地位を与えられ、政商と呼ばれ後の「財閥」の芽生えとなったと云う。