syuの日記・気まま旅

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”汽笛いっせい新橋を・・”変貌する新橋 

2018-09-09 | syu散歩

静岡県掛川~沼津まで掲載してきましたが、「JR/山手線・新駅」が2020年に出来ますので、途中ですが中断し、2回・新橋~泉岳寺までを。

「浅野長矩」 1665-1701 江戸城中で乱心した赤穂藩主・8歳で53500石の領主に。
接待役で指導を受けていた「吉良義央」を、江戸城中・松の廊下」で傷を負わせたことから、「切腹」を命じられ、赤穂浅野家改易処分に。
「田村右京太夫」-一ノ関藩主。田村邸の庭先で、腹を切った、内匠頭。その悲劇を見つめていた桜・銀杏の木の銀杏の一本が残って、これを「お化け銀杏」と呼ばれ、沖合から船頭たちは目標にしていたと云う。お化け銀杏は、大正期の枯れたと云う。
大田道灌が江戸城を築き、「日比谷湾」に港を開いた時は、大手町辺りが中心地、家康が江戸に入り、神田・日本橋を埋め立て町に、明暦の大火で港の中心は、隅田川ー鉄砲洲・築地・芝浦・高輪へと広がり、広重浮世絵には、船泊の光景で佃島であった。
明治に入り、横浜開港され、横浜へ横浜へと移動した。横浜に入った文明は、鉄道で「新橋駅・汐留」に・文明開化は「港区」からと云える。

文明開化の先駆けの「新橋駅ー横浜駅」蒸械が出発・明治5年、明治天皇勅語が。(陸蒸気と呼んだ)
「今般我が国の首線工竣るを告ぐ。朕親を開行して其便利を欣ぶ。
嗚呼、汝百官此の成業を百事維新の初めに起し此鴻利を萬民の永亨の後に恵まんとし。その励精勉力実に嘉尚すべし。
朕我国の富盛を期し、百官萬民の為此を祝す。朕又更に此業を拡張して、此線をして全国に蔦布せしめんを庶幾す。」
「汽笛一声新橋を、、、、」新橋駅=汐留駅(現在の汐留町)で、鉄道記念日10月14日(太陽暦に換算)に。
新橋・汐留ー横浜(現在の桜木町)28.8kmは、主に貨車・コンテナ。明治42年「烏森駅」開業した。が、大正12年の大震災により焼失している。
汐留の江戸初期は、汐入りのアシ沼と云う。後埋め立て海は、堤防で仕切られたので、「汐留」、1624年以降は、竜野藩脇坂淡路守の下屋敷・仙台藩
伊達邸が占めていた。明治5年鉄道用地となった。大震災後は放置され長い間、埋もれていたが、昭和11年鉄道省が、駅を改築するに当たり「碑」立て
「永く奮駅を忘れ去らむとす」している。
「国鉄百年史」
新橋(汐留駅)~横浜間18マイル(29km)10月14日単線・イギリス製長さ24フィート、重量60ポンド(27.2kg)枕木檜・松使用・・。
明治天皇 新橋~横浜両停留場に臨御・式場敬護近衛兵800人輸送の為3往復運転・・・。
新政府の必死の思いが。また、当時の政府は、イギリス国からの借入と、さらに莫大な国費をつぎ込んでいる。

                     変わりゆく新橋・汐留


新橋駅日比谷口広場

C11形蒸気機関車・C11 292は、静態保存。C11 292は、昭和20年、日本車輌株式会社で誕生し108万3975kmを走破した車輌。




汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として、2集1番ー夏なお寒き布引の 滝の響きをあとにして 神戸の里を立ちいずる 山陽線路の汽車の道~治まる御代の天下茶屋 さわがぬ波の難波駅 いさみて出ずる旅人の 心はあとに残れども
6集40番ー幌別輪西打ち過ぎて はや室蘭に着きにけり 青森までは海一つ 海胆は此地の名産ぞ。全374番の歌詞を続けて歌うと1時間30分以上かかる。

                             鉄道唱歌の碑


「ゆりかごめ」
        東京臨海新交通臨海線は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ。


                  平成7年開業・18年有明ー豊洲間延伸


「汐留」は港区北東端、「浜離宮庭園は中央区」と第一京浜・国道15号線に挟まれた地区の東新橋。外堀・汐留川をへだてた旧武家地で、赤坂見附付近を
源とする汐留川は、物資輸送に大きな役割を果たした川で、河口には、問屋・商家・倉庫が軒を連ね、荷揚げ場であった。
明治5年鉄道開業で姿を消した。



平成7年から、都市基盤整備と民間のプロジェクトにより、都市再開発が始まった。平成16年には、13棟の超高層オフィスビルが建ち並び、
4つのホテルや数多くのレストラン、ショップなどが地下通路とペデストリアンデッキでつながる6万人の複合都市として生まれ変わった。
東側には浜離宮恩賜庭園をはさんで東京湾、西側は新橋駅から虎ノ門・神谷町・霞ヶ関の官庁街があり、銀座・築地・臨海副都心にも近く恰好のビジネスロケーションとなった。
六本木ヒルズやお台場と並び、東京の新しい観光名所の一つに。

    平成23年、国際戦略総合特区の一つである東京都提案のアジアヘッドクオーター特区区域に指定。


        古いビルの一角に「たい焼き」の店、行列・そこが新橋。


「新橋」東新橋・新橋・西新橋(田村町)。地名は、江戸時代に汐留川に架かる東海道の芝口橋・新橋の名が由来と云う。
江戸城下の重要な門戸で、城から見れば最も近い市街地・JR新橋駅西口「烏森」は、花街として栄えた。
新橋から浅草間の鉄道馬車は、1882年で交通の中心地でもあった。
戦後新橋駅西口と云えば一番早く「闇市」が開かれた。その、盛り場として飲食歓楽街がさえた。

                     今の盛り場、正面が烏森神社


                     新橋西口通り


進んだ港に育った「新橋芸者」は、進歩的、東京平康等級表で一等柳橋・新橋~四等神楽坂~五等向島・赤坂・・。
新橋駅日比谷口、柳の街が、烏森花柳街、この辺は、サラリーマンは遊日には行けない場所であった。
烏森と云うのは、鳥村・鳥丸などと呼んで「鳥」の多くいる鬱蒼とした森であったと云う。自然破壊である。
大正に出来た「新橋駅」は、ルネッサン式煉瓦三階建てあったと云う。

                     新橋2丁目付近


「烏森神社」
社伝ー天慶3年の940年、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍「藤原秀郷(俵藤太)」が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。
その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げ。
秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したと云う。
江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは、江戸で、一二を争うものであったと云う。
新橋には他に日比谷神社があり、大祭は、日比谷神社と交互に隔年で行われる。

                祭神ー倉稲魂命   大祭ー5月上旬 


     神社の千貫大神輿は、名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られたと云う。


               狭い神社であるが狛犬は大きい


                    10段余の階段上に社殿


                       干支の戌が


「浅野長矩」 1665-1701 赤穂藩士 寛文5ー元禄14。

江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、切腹.
上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託して。
浅野家はお取り潰しに。

          新橋4丁目の日比谷通り沿いに(元禄時代の田村家上屋敷)


          お菓子「切腹最中」の新正堂ビル この付近区画整理で変わっていた。


港区は、都の東・千代田・中央・品川区とともに都心を形成・23区の中央に位置し、昭和22年赤坂・麻布・芝が合併し「港区」に。
竹芝・日の出・芝浦桟橋から「港区」に。
「芝公園」増上寺境内一部にあたる公園で、明治6年に浅草・飛鳥山・上野・深川・とともに東京市制定の「5公園」の一つに指定



「増上寺・大門」
表門である現在の大門は、旧大門の老朽化のため、昭和12年に都によって旧大門の意匠を踏襲し1.5倍の大きさの高麗門、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建


                         昔の参拝風景



「伊能忠敬」 1745-1818 測量家 50歳で隠居後、高橋至時の門下、測量術習得し17年かけて全国測量「大日本沿岸輿地全図」を。
一歩65㎝。  増上寺に記念碑がある。
久しぶりに新橋へいったので静岡を中断して記録します。



               伊能忠敬は、「高輪大木戸」から、測量を。



「増上寺」浄土宗大本山・山号三縁山・1393年聖聡上人開基・徳川家の菩提寺。
2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂。和宮をはじめに夫人たちの霊廟がある。
重文ー二天門・惣門・三解脱門・法然上人伝など多数ある。

                     増上寺の三解脱門・1605年建立


                      今の三解脱門




                        本堂


「東京タワー」芝公園内、総合電波塔ー昭和33年で高さ333m(150mと250m展望台)。
入口に南極越冬隊に参加した「樺太犬」の群像が建つ。

                      本堂と東京タワー


                徳川将軍家墓所(6人の将軍が)と皇女和宮他


                         境内・案内