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仙台八幡宮 東北の旅3

2015-10-04 | 気まま旅
江戸時代,国分町通(旧奥州街道)と中央通(旧大町の東西軸)が直交する「芭蕉の辻」が中心。四隅に同じ構造の楼閣が建てられ、城下一の商業地として賑わったと云う。
明治時代になると、芭蕉の辻周辺には銀行などが出来、業務地区化し始め、物販・サービスについては、国分町通りの1本東を南北に並走する東一番丁や、芭蕉の辻より東側の大町沿いが担うようになる。
東北本線が開通すると仙台駅前(西口)の名掛丁などに集積が進み、仙台市電開業後は、芭蕉の辻と仙台駅とを結ぶ南町通りの業務地区化が進んだ。
1941年に、芭蕉の辻の一角に日本銀行仙台支店が置かれ、戦後に復興道路として新規に開通した広幅員の「青葉通り」が、「芭蕉の辻」と仙台駅を
繋ぐ道として金融街・オフィス街として発達した。
復興道路として広幅員化した東二番丁(国道4号)や広瀬通りなども次第に業務地区に組み込まれていった。
市が政令指定都市化したバブル景気期には、市地下鉄南北線開通により都心部は路線沿いに拡大し、官庁街の勾当台公園周辺地区と都心の業務地区が
一体化して、南北に北四番丁駅(勾当台地区北側)から五橋駅(五橋地区)までオフィスビルが立ち並ぶようになった。
2000年前後には、仙台駅東口の宮城野通が「アベニュー」と呼ばれ、IT企業を中心に業務機能の集積が進んだ。
現在は、一番町と仙台駅西口が2つの極となっているが、旧城下町部分(仙台輪中)を中心に面的に広がりを持って複合都心を形成している。

江戸時代、仙台藩の事務処理を行う施設は、仙台輪中の西端に位置する「仙台城二の丸」を中心に、広瀬川の右岸沿い段丘上に集中していた。
戊辰戦争に敗戦すると、仙台城は官軍に占領されてそのまま常備軍が置かれ、仙台鎮台→陸軍第二師団→進駐軍占領→東北大学川内キャンパスと変遷している。広瀬川左岸沿い段丘崖直上の片平丁に集中していた上級家臣などの屋敷も国が利用し、偕行社、裁判所、第二高等中学校、東北帝国大学などが設置され、西公園、仙台高等裁判所・仙台地方裁判所・仙台家庭裁判所、東北大学片平キャンパスなどに利用されている。

                  仙台駅前は、高層ビル街に


                    国立 東北大学


「政宗の四ツ谷用水・下水道」ー八幡宮鳥居近く看板が立っている。
仙台の下水道の歴史は、藩祖伊達政宗公の命によって造られた「四ッ谷用水」。
用水の建設は、北上川改修や新田開発等に名を残した川村孫兵衛重吉が指揮をとったと伝えられ、取水堰やトンネル、掛樋など、
当時としては最高水準の技術を用いたもので、現在も使われいると云う。
広瀬川左岸・郷六に堰を築き、八幡町から北六番丁を通り、宮町東方の梅田川まで水をひき、
上水道、下水道、農業用水、防火用水などの用途を兼ね、街中で支流に分かれ、地下水を潤し、生活、防火、農業、染物、散水に使われる。
水車をまわし、雪捨場にもなり、排水路の役割も果たした。

                   旧四ツ谷用水跡


「大崎 八幡神社」
     神社は、八幡4丁目に鎮座ー仙台駅北西に約3.5kmの丘陵
    

「大崎氏」
陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した
斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。
支流には、最上氏、天童氏などがある。
                   神社ー大鳥居


祭神ー応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。
創建ー1057年、中央には大崎氏の尊崇を集めて「大崎八幡」と称されるようになったと云う。

           小正月の1月14日は、裸参りーどんと祭
    

国宝ー社殿(本殿・石ノ間・拝殿)   桃山様式の極彩色権現造り。
   拝殿素木造り長床がある。
                  伊達正宗が建立。
   

「龍寶寺」
文治年間の1186年、伊達家の初代朝宗公が、伊達家の祈願寺として開かれたお寺。
寺は、常陸の国より 福島県 梁川、山形県 米沢、宮城県 岩出山と、伊達家と共に移動し、1598年頃、初代仙台藩主伊達政宗公の仙台築城に伴って
現在の地に移された。

藩政時代は城下最大の門前町を与えられ、龍寶寺に属していた寺院は約70ヶ寺という大寺院であった。
    

本尊の木造釈迦如来像は、重要文化財に指定。4月8日の「花まつり」1月14日のどんと祭に開帳。
     

仙台市には、面白い町名が多い。
「丁切根(ちょうぎんね)」仙台城下の南の入り口に設けられ「丁切根」とよばれた木戸は、朝6時に開き、夕方6時に閉じられる決まりで、河原町の針生家が木戸番として鍵を預かっていた。
針生家は、幕末には蒟蒻の専売権を許され、仙台の丁切根は、ほかに八幡町、堤町、原町にあったと云う。河原町の南にいまでもその跡があり,昔をしのべると云う。

「町方二十四カ町(まちかたにじゅうよんかちょう)」仙台城下での侍屋敷と町屋敷は、まずその名で区別されていた。侍屋敷には「丁」の字が使われ、足軽や職人、町人の屋敷には「町」(まち)の字が使われた。
江戸時代中期以降、仙台城下には主要な町人町が二十四ほどあり、これを総称して「町方二十四カ町」とよんだ。「町方二十四カ町」には序列があり、町政に際しては重んじられていたようである。序列の理由ははっきりしていない。
町方二十四カ町の序列ー1.大町三四五丁目・2.肴町・3.南町・4.立町・5.柳町・6.荒町・7.国分町・8.本材木町・9.北材木町、、、、、、。

「花壇町」広瀬川沿いにある。正宗は、花が好きであったと云う。この一帯に城に出入りしていた「花栽培」の店が集中していたと云う。

    

「多賀城市」
8世紀に多賀城が築かれた。
多賀城創建時、陸奥国は一時的に石背国・石城国・陸奥国に三分され、分割された陸奥国は、今の宮城県よりやや狭い範囲で、多賀城は
そのほぼ中央。それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、724年に造営なった多賀城に移ったと推定。
分割は数年後に改められ、ふたたび今の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国に戻ったが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。
城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市。
日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置に、城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった
砂押川に橋がかけられ、舟による運送があったと云う。
奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、780年、には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、
再建している。
中世だは、城は平安時代の10世紀半ばまで機能したが、発掘調査ではその後国府にあたるような規模の痕跡が見つかっていない。
多賀国府は南北朝時代まで依然として史料に現われるので、国府は多賀城のそばで中世都市の遺跡がある仙台市宮城野区岩切あたりに移動したと考えられている。1189年、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は側近の伊沢家景と葛西清重を奥州惣奉行に任命した。
伊沢家景は陸奥留守職となり、多賀城の留守所長官として現在の利府町に定住した。
子孫は、留守氏と呼ばれ、代々、東北地方を支配し、室町時代、管領家・斯波氏の一族である大崎氏が奥州探題に任命、現在の大崎市を本拠地として東北地方を支配したと云う。
                  JR仙石線駅
 

次回は、塩釜神社・松島方面へ。

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4 コメント

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なおきちさま  (hiroko)
2015-10-09 06:30:28
仙台は懐かしいですね。
小学生の頃松島へ船で行きましたね。
あのころは宮城地震の後で崩れている石垣など目にしました。
長旅はこれでいけないかもと?
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0koさま (hiroko)
2015-10-09 06:25:28
ご訪問有難うございます。
留守にしていました気が付かず申し訳ありませんでした。仙台は震災以来初めて行きました。
3年間ほど赴任していましたので懐かしく東北の旅をしています。
元気に歩けるうちにと欲張っています。お互い頑張りましょう。
返信する
仙台の旅 (oko)
2015-10-03 12:17:48
いつも詳しく説明頂き学ぶこと多し!です。
今春、私も仙台に参りましたがこんなに沢山は見学しませんでしたのでとても興味深く拝見させて頂きました。
駅前のケヤキ並木が一番美しい頃に又、駅前が整然として街並みが美しいですね。
仙台城の石垣の説明を思い出しました。
震災で崩れた修理後、私たちのバスが初めて通れるようになりました記念の日と伺いました。
その他、宮城県護国神社参拝、閖上地区慰霊、松島湾遊覧~瑞巌寺参拝を行いました。

この後もますますのご活躍の程お祈り申し上げます。
時節柄、ご夫妻様のご健勝をお祈り申し上げます。
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懐かしいですか? (なおきち)
2015-10-03 08:09:37
昔の赴任場所でしたね。懐かしいですか?
仙台に昔船に乗って行ったことを思い出しました。
揺れて揺れて気持ち悪かったのを覚えています。

仙台の牛タンが食べたいです。
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