syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

上越新幹線と大清水トンネル

2014-12-23 | 気まま旅

上信越高原国立公園
平成26年 環境省は、新潟南西部・長野北部の妙高・戸隠地域を分離して、国立公園として指定。

面積ー総面積は188,046 haと云う。新潟南西部・長野北部、妙高山・黒姫山・飯縄山・戸隠山・焼山と妙高高原周辺・赤倉周辺および野尻湖とその周辺。
三国山脈南西部、谷川岳・本白根山・白砂山・岩菅山・四阿山・浅間山・烏帽子岳・苗場山と清水峠西部・三国峠・鳥居峠・碓氷峠西部・軽井沢周辺・草津周辺と志賀高原一帯と広範囲。
新潟県は、妙高市・糸魚川市・津南町・「十日町市・南魚沼市・湯沢町」。

越後中里ー土樽駅方面に、(湯沢から2・3つ目の駅)へ。

「両山神社」湯沢土樽に鎮座。神社本庁伊勢神宮
神社庁とは、全国8万神社を包括する神社本庁の地方機関で、各都道府県に置かれている。
神社本庁は、「伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の弥栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する」との理念の下に運営。
神社本庁は伊勢の神宮を本宗と仰ぎ、奉賛の誠を捧げ、
新潟県神社庁は、宗教法人。神社本庁が包括する4700社の神社によって組織されており、神宮大麻の頒布をはじめとする伊勢の神宮への奉賛活動、
神職の養成・任免事務、神職・総代をはじめ神社関係者の研修や大会の実施、功労者の顕彰、神社神道の広報など、活動。

両山神社・手水舎                  鳥居                    拝殿
    

「上杉謙信」 1530-78 越後国大名、長尾為景の末っ子、春日城で生まれる。武田信玄数度決戦、関東平定目論み、北条氏と抗争、関東遠征時急死。
上杉謙信手植えの松跡・三代目 (立て看板より抜粋)湯沢町指定文化財
戦国の武将「上杉謙信公」が植えられた松という、 天文年間の頃、ここを通る道は、越後より関東方面への軍事及び通商道路として利用され
三国峠を越える三国街道、清水峠を越える清水越えと共に栄えた所。
松は、道しるべの一つとして植えられたもので樹齢400年。松は昔2本の夫婦松であったと云う。
伊勢湾台風の折、1本がたおれ、 足元にあるこの碑は大正9年に郷土の漢字学者岡部東雲師が
「武装して山道を謙信公が通った草木を伏すいきおいであった。これを永く記念するものは古くて威厳のある2本の松である。」と読みたてられた。

「小坂の庚申塚」
庚申塔・庚申塚は、中国より伝来した道教に由来 する「庚申信仰に基づいて建てられた石塔」。
    

庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期頃からで,近世を通して多数の庚申塔が建てられたと云う。
青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流に、その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加 した。

高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転。現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れと。
田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を。

                        手植えの松跡に数ある庚申塔の塚
  

「荒戸城(荒砥城)」跡。
構造ー山城 ・築城主ー上杉景勝 ・築城年ー1578年(天正6年)・城主ー深沢氏、登坂氏、富里氏、栗林氏
廃城年ー1598年(景勝の会津移封による)。
遺構ー本丸跡・二の丸跡・三の丸跡 (曲輪・土塁・虎口・馬出し・堀切・堅堀・横堀)・上杉軍道

神立温泉、国道17号線の芝原トンネル付近

六日町坂戸城の出城「荒戸城」跡          後北条軍が


歴史ー1578年(天正6年)「御館の乱」の際に、北条氏の侵入を阻止するために上杉景勝が深沢利重・登坂与衛門尉らに命じて築城。
その年 8月、北条勢、荒戸城を攻略し落城している。
1579年、景勝荒戸城を奪還する。1581年、景勝は、樋口与三右衛門兼重・冨里三郎左衛門らを城将に命じ、1598年 - 景勝、会津移封により廃城。

荒戸城入口               熊出没注意の立て看板あり
  

神立字袖山~大字三俣字下峠,標高-789m。
樋口主水助(直江兼続の叔父、湯沢が知行地で居城跡が主水公園、主水山大岳寺に、荒戸城で戦死した樋口主水助ゆかりの寺院と云う。

城の見取り図                    山から越後中里方面が
  

JR上越線は、越後湯沢駅―岩原駅ー越後中里駅ー土樽駅。関越自動車道も鉄道に沿っている。
土樽蕗は、魚野川上流、(新潟と群馬の県境近く谷川岳付近を源頭に魚沼地方を流れ、長岡市内で信濃川(千曲川)に合流する流程の長い大渓流)。
フライフィッシングでは本流フィールドの中流域が知られ、渓流らしい渓相になってくる。
上流部といってもこのあたりはまだ里川の雰囲気、河原が広く開けた瀬が中心。

            向かいに見えるのが上越線の高架


土樽の「毛渡沢陸橋」
湯沢町と清水トンネルの間にある、レンガ造りの鉄道橋。
昭和6年に完成した当時の面影を残している稀少な橋で、全国「美しい鉄橋ベスト3」にも選定。

現在は、上越線上りルートとして利用されており、西側にある下りルートの鉄橋の橋脚はコンクリート製。



土樽ー毛渡沢陸橋


上り・下りの陸橋下


「谷川岳のトンネル」
JR東日本の上越線(清水トンネル)・上越新幹線(大清水トンネル)・東日本高速道路 関越自動車道(関越トンネル)



                  谷川岳の湧水


            関越自動車道群馬県より関越トンネル付近


我が国の鉄道は、山地が多く、勾配とトンネルの戦いであったと云う。特に、群馬水上ー新潟南魚沼「清水トンネル」は、朝日が岳1945m7つ小屋山
1675mは、清水峠は近道として使われていたが勾配が急で、古来の「三國峠」を利用。
1883年の明治18年新道が完成し再び活気、鉄道開通が1893年で、現在の国道291号線である。地は茂倉岳・高さ1448m。
日本経済成長と伴い鉄道輸送力向上の要求が強まっていく。
東京を結ぶ鉄道は、長野・直江津の信越線ルート、それが開通したのが、1904年に迂回路、特に碓氷峠越えは、アプト式ラックレール
「上下する区間」隘路打開の為、上越線・清水トンネル工事が始まった。1931年の昭和6年我が国最長鉄道トンネル・1964年複線化の為
「清水トンネル・長さ13500m」が開業し、「土合駅は下りはトンネルの中であったと云う。階段約500段下ると云う。

上越新幹線は、1982年(大清水トンネル長さ22,228m複線型で、高さ539m。
青函トンネル完成1988年までは、世界最長であった。
1985年の関越自動車道は、長さ10926m・巾7mが開業。(日本最長)

日本最長の大清水トンネル難工事


トンネルは、JR上越線土合(どあい)駅と土樽(つちたる)駅の間にある全長9,702mの山岳トンネル。
名峰そして魔の山としても知られる谷川岳を盟主とする谷川連峰の真下を貫いている。
1922年(大正11年)から工事が始まり、工期約9年、
1931年(昭和6年)に完成、上越線水上~越後湯沢間が開業した。
上越線がここに全通し、日本一、世界でも第9位の長さを誇った。
トンネルの名は、徒歩時代に上越国境越えに利用された近くの「清水峠」から。

トンネル開通祝、関係者の感激はヒトシオであったであろう


スキー場
湯沢高原ゲレンデ・布場ゲレンデ・布場ファミリーゲレンデの3つのエリアから構成
布場ゲレンデは、南魚沼郡最古のスキー場。1919年、布場で南魚沼郡の学校教員等を集めて講習会が開かれたのがきっかけで、スキー場として整備が始まる。年々、利用者は増加し、1927年には山小屋風のスキー小屋が、1929年にはスキー客相手の出店も見られるようになったと云う。
1931年には、上越線の開業に伴い関東方面からのスキー客が増加。
食堂や土産物屋、旅館等の施設が充実されていく。

当時、どこのスキー場も、若者で大混雑した。


犬っこまつりは、約400年もの長い間続いたといわれる湯沢地方の民俗行事。
白昼堂々と人家を襲う「白討(はくとう)」という大盗賊がいましたが、湯沢の殿様がこれら一味を退治し、再びこのような悪党が現れないようにと、
米の粉で小さな犬っこや鶴亀を作らせ、旧小正月の晩に、これを家の入口や窓々にお供えして祈念させたのが、この犬っこまつりの始まりと。

                        雪国の子供達


              「はくたか」は、北越急行ほくほく線で直江津方面へ


          上越在来線で上野ー湯沢は4時間、上越新幹線で早いので77分


上越新幹線とトンネル
群馬県から新潟県にかけての区間(高崎 - 長岡間)は三国山脈を通過するため、大部分がトンネル。
世界有数の豪雪地帯である新潟県内を中心にスプリンクラーによる融雪設備を備えているほか、新潟県内の駅では線路・プラットホーム全体が屋根で覆われているなど、雪害対策が入念に施されていると云う。
平野部(関東平野、越後平野)では、大部分が高架上を走る。

次々トンネルが開通していく


今回で新潟南魚沼は、終了。群馬前橋・高崎に。

上善如水 越後湯沢

2014-12-21 | 気まま旅
湯沢町は、群馬・長野に接し、「温泉の湧く沢」が町名。
中世までは、温泉の他湯沢・三保・二居・浅貝と江戸ー新潟を結ぶ「三國街道」の重要宿場町として発展している。大正に入り「スキー場」が開設
1931年の昭和6年早くに「上越線」が全面開通して、温泉静養・スキーなど観光で栄えている。上信越高原国立公園に属す。
1980年上越新幹線・関節自動車道が開通し東京2時間以内で結ばれている。「東京都湯沢町」と云う人もいる。
近くは、赤湯温泉・貝掛温泉・魚野川・登山・17のスキー場・高山植物と川端康成の書「雪国」の関係資料・旨い酒とコシヒカリが楽しめる。

                  越後湯沢駅東口


地酒「白瀧」は、湯沢駅東口。
1855年(安政2年)の創業の酒蔵。銘柄、上善如水(じょうぜんみずのごとし)、湊屋藤助・(創業者)・魚沼・白瀧・真吾の一本(杜氏山口真吾)

                源泉は、谷川岳魚野川


日本特有の製法で造られる清酒。
酒税法の定義は、アルコール分が22度未満、
1.米、米こうじ及び水を原料として発酵させて、こしたもの
2.米、米こうじ、水及び清酒かすその他政令で定めた物品を原料として発酵させ、こしたもの
3.清酒に清酒かすを加えて、こしたものである。

80%を占める「水」・名水あるところに名酒ありといわれる由縁。
日本全国の名水の地に、旨い、日本酒の蔵がある。
                        白瀧酒造


「上善如水」
老子、水に「最上の善」というものを見出してい たと云う。
老子が生きた時代(紀元前 6世紀~紀元前4世紀)の争いが絶えずの中国、上善」とは、最も理想的な生き方を願うならば、
水のあり方 に学べという。「水」には学ぶことができる三つの特徴。
一つは、 その柔軟な性質です。四角な器に入れれば、 四角な形になり、丸い器に入れれば、丸く ...。

「上善如水と 黒田官兵衛」
秀吉の軍師 として活躍、(1546-1604)黒田孝高、名を官兵衛、晩年剃髪して「黒田如水」と号している。

                    歴史ある蔵元
    

「湯沢高原ロープウェイ」
上越新幹線の大清水トンネル工事から出た岩石を造成して造られた”岩のお花畑”。
高山の自然を再現し、大小の岩の中には高所でしか見られない珍しい花々 が咲いている。
コマクサ. ヒマラヤの青いケシ等が。
アルプスの里へはロープウェイスで、世界最大級の166人乗りと云う。約7分。

アルプスの里には、約1,000種もの高山植物と天然記念物が生息、アスレチック・ヤギ牧場・湿生・水辺、林植物園・百番観音・トレッキングコース
リフトで大峰山(1170m)山頂~パノラマコース2時間強で八木沢・栄太郎峠と楽しめる。

標高1172mの大峰山の北側斜面に造成された高山植物園
    

ロックガーデン、湿生園あやめヶ池、ゴロネの原などと、ニツコウキスゲの大群落園とで、あわせて6万平方mの広さ.
    

800種類の自生種のほか約200種類の高山性植物が植栽され、ブナ林を散策できるミニトレッキング.
    

706mを一気に滑りおりるサマーボブスレーやマウンテンゴーカート、ジップラインアドベンチャーなど子供達の遊びの施設。
夏の大ユリ園と紅葉の時期が人気・やまびこリフトからの眺めも。今日は曇り空


       山々の眺め,高山植物が数多くある。高山植物の散歩でした。


       キレンゲショウウマ・ヒダカミセバヤ・イワシャジンの花が、終わった紫陽花。


           林床植物クリンソウ・ミスミソウ等が


       巻機山(1967m)・金城山(1387m)・中ノ岳・八海山などが、


ロープウエイは、標高370mの山麓駅から、870mの山頂駅へ、全長1,300m・高低差500m・秒速5mで運行と云う
  
  
「曹洞宗 山号方丈山・瑞祥庵」
本尊 釈迦如来。上田三十三観音霊場 第十三番札所
1522年創建と伝わる。上田三十三観音霊場は、現在、不明。
山門・仁王像は、石川雲蝶作

酒と博打を愛し幕末から昭和初期に活躍した名彫刻師「石川雲蝶」が手がけた、造形美ゆたかな傑作。
魚沼地方、長岡地方には石川雲蝶の作品が多く残されている。
永林寺、西福寺開山堂など魚沼地方の「曹洞宗のお寺」に大作が。
寺の住職との賭けに負けて、ただ同然で作品を造っていたとも云う。

    

本名は石川安兵衛、30代前半に、「良い酒とノミを終生与える」という条件で、越後入りし、多くの作品を残した。
無類の酒好きで、女性も大好き。賭けに負けて仕事を引き受けたりするなど破天荒な人柄、ノミを握れば神業的な作品を手掛けたという。
雲蝶の作品は、重厚感と迫力と、繊細さと鮮やかな彩色。その美しさに魅せられ、思わず作品の前に立ち止まってしまうと云う。
今日も遠足で大勢のしょうが性が見学していた。

雲蝶は「日本のミケランジェロ」とも称され、作品は木彫りにとどまらず、石の彫刻や襖絵や漆喰、障子など、ダイナミックな世界観が表現されており、150年を経てなお人々を魅了していると云う。



「鳥追い」
正月15日、各家からだされた注連縄や正月かざりをもって雪ん洞の上に積み重ね、火をつけて燃やす、冬の行事の一つ。
「鳥追いの歌」子供達がみんなで歌いながら、雪の上を歩きます。(湯沢町の民俗)

                  オラが背戸の早稲田の稲を何鳥がまくらった。
                  すずめ鳥がまくらった。
                  すずめすわどり立ち上がりゃホーイ、ホイ。
                  その鳥どこから追ってきた。
                  しなのの国から追ってきた。
                  しなのの鳥も 唐の鳥も立ち上がりゃホーイ、ホイ。

    

「越後杜氏」
江戸時代・1754年の勝手造り令以降、日本酒の製法が四季醸造が寒造りへと移行。
米の収穫が終わると冬は積雪が深くて裏作の麦もできず、海も荒れて出漁できない越後の村から、農民が冬場の醸造のために関八州や尾張へと出稼ぎに行ったのが発祥で、多くの人手を欲している造り酒屋と、農閑期の現金収入を得たい農民とのあいだで利害が一致したことが、杜氏集団の形成に寄与した

越後杜氏たちを束ねる近代的な組織が正式に結成されたのは昭和33年頃、当時の杜氏登録者数は900名を上回っていたと云う。
越後杜氏は新潟県内の地域ごとに大きく次の三つの支流派に分かれる。
三島杜氏ー新潟県三島郡や長岡市などを拠点とする流派。
支流派に分かれ、 野積杜氏、旧寺泊町野積を拠点とする。宮尾登美子の小説『藏』に出てくるのはこの野積杜氏。
越路杜氏ー旧長岡市、旧越路町、塚山、岩塚、来迎寺を拠点とする。日本酒消費伸長期にあった昭和36年(1961年)の記録によれば、越後杜氏の総数約1000名のなかで312名が越路杜氏であり、新潟県内はもちろんのこと、活躍の範囲は東北、北陸、関東、東海、関西、四国にまで及んでいる。
三島杜氏を一つの支流と考えず、
野積杜氏、越路杜氏、刈羽杜氏、頸城杜氏を以って「越後杜氏・四大流派」。

次回も、湯沢町を。

味噌なめたかーの関興寺から湯沢へ

2014-12-18 | 気まま旅

六日町の「雲洞庵」-雲洞庵の土踏んだかーは、土踏んできた。今日は、「関興寺」-味噌なめたかーを尋ねる。

「上越線の父・岡村貢」(石打駅に銅像あり)
鉄道敷設の動きは県内だけにとどまらないず、発展を続ける首都圏とを結ぶ鉄道は、当時「裏日本」ともいわれた新潟にとっては悲願。
魚沼郡塩沢組下一日市村(現南魚沼市塩沢)に生まれた岡村貢は、長岡と群馬県高崎を結ぶ「上越線」の必要性を早くから訴え続け、従来の三国街道の
車馬運送や舟運だけに頼ってはいけないと、私費を投じて測量を実施している。
明治15年の1882、には東京に「上越鉄道会社設立事務所」を開設し、さらに明治27年の衆議院議員選挙に出馬し、国政の場からも上越鉄道の実現に、
しかし願いはかなわず、ついには南魚沼郡随一ともいわれた彼の資産も底をついてしまう。
三国山脈をつら抜き、2本のレールを敷設しようという岡村の夢はついえたかのように見えた。
しかし彼の思いは若い魚沼の政治家らに引き継がれ、大正7年の1918、政府は「群馬県下高崎ヨリ新潟県下長岡ニ至ル鉄道」の敷設を決定。
建設がスタートした。工事は急ピッチで進められ、大正9年の1920、には新潟側の宮内―東小千谷が完工、長岡市で開通式が行われたと云う。
85歳になっていた岡村は来賓として迎えられ、人力車で参列。祝辞を述べ、昭和6年、上越線は全通する。岡村が主唱してから49年後。


                    近代的湯沢駅西口正面


「温泉通り商店街(県道462号線)」 JR越後湯沢駅西口前より北方向、 JR上越線の西側に並行して伸びる商店街。

          中央にある居酒屋「あさくさ」の釜めし(昼食)1100円
  

            東改札口構内に、等身大の湯沢芸者「駒子」の人形が立っている。


「主水(もんど)公園」ー樋口主水助は、直江兼続の叔父。

上田長尾家出身の養子・上杉景勝と、小田原北条家からの養子・景虎との上杉謙信の跡目相続争い「御館の乱」で。
景勝側につき活躍した「樋口主水助」が、このあたりに屋敷を構えていたと言われている。

トンネルを抜けると雪国であった夜の底が白くなる・・・川端康成直筆の「雪国の碑」が設置されている。
    

「薬照寺」
県南魚沼市君沢にある真言宗智山派の寺院。山号は瑠璃光山。本尊は薬師如来。
越後四国八十八箇所霊場第八十八番札所、越後薬師札所一番札所、魚沼観音札所二十二番札所。

1045年、善寿上人の創立といわれ、また、寺伝は、安永9年の1780年。
参詣に来た人の蝋燭の火をくわえた鳥が、本堂の茅葺屋根にそれを落とし、火災となり焼失している。
1783年に現存の本堂に建立。
1945年、ビルマのバー・モウが日本に亡命、第77世住職土田覚常により当寺に匿われたと云う。12月に自ら連合国の占領軍のイギリス軍・フィッゲス中佐に出頭し、翌年特赦されビルマに帰国したと云う。(宝物殿に展示)

ビルマ元首バー・モウ氏は、ビルマの独立に半生を捧げ、日本軍の協力で独立、初代国家主席、昭和21年まで身を薬照寺に。

    

大桂、高さ30m・幹回り13.5m。春、夏、秋と色を変え、晩秋の落ち葉終わると雪降ると云う。
70世住職「大崎行智」は、幕末~明治にかけ、一大学徳僧、全国に名を馳せている。
松久作「長生きぽっくり観音像」が本堂に、

大桂 (県天然記念物)樹齢2000年、安永9年の火災の時被災、主幹は本堂の縁側の材料に、良い香りの桂の葉を線香に加工し、仏前で焚いていた。
    

宝物殿ー海を越え伝えられた文化の形、絵画・彫刻・陶磁器・中国古鏡・チベット法具など、他では見られない宝物が展示(有料)
主な収蔵作家ー絵画、中川一政・竹久夢二等、彫刻、高村光雲・左甚五郎等、書物、掛け軸、豊臣秀吉・上杉景勝・伊達正宗・正岡子規等。

本尊に薬師如来・護摩堂に五大尊十二天尊・福授堂に三面大黒(大黒・毘沙門・弁財天)等が
    

「関興寺」-味噌なめたかー
応永17年の1410年、上杉憲顕の子、「覚翁祖伝」の開基。
最初は、関興庵と称し、上田長尾氏や上杉氏の庇護を受け栄える。
1512年、に兵火に遭い伽藍焼失、翌年再建するも、1578年「御館の乱」により焼失。1586年、上杉景勝により再建される。
再び、1594年、火災となり、以来寺は衰退し、1600年、上杉景勝が出羽国米沢に移封されると同地に移っている。
1629年、またも火災に見舞われ、寺は衰退の一途をたどる。
寛文年間、現在の地に移り、関興寺と改め再興。

臨済宗円覚寺派の寺院。本尊は釈迦牟尼仏。
    

「雲洞庵の土踏んだかと関興寺の味噌舐めたか」
御館の乱の折り、住職「雨天是鑑」は、上杉氏寄進の大般若経600巻を味噌桶の中に埋めるよう修行僧に指示し、戦火から経文を守った。
よって、「味噌舐めたか」の言葉が生まれたと云う。

「臥龍の庭」
本堂の前に、岩をあしらった枯山水の石庭があり、岩を龍に見立てて、龍が寝ている姿を現していると云う。枯山水の庭園は禅寺の特徴。


「経蔵」
六角輪蔵と呼ばれる一切経が収蔵された回転式の書架をもつ、県内でも数少ない珍しい構造物。
1798年に造られたもので、既に建造から200年以上経っている。内部には1000以上の経文が収蔵されていて、回転させることで功徳を得ることができると言われている。

    

「南方稲荷大明神」は、寺の境内、裏山の奥。
御の乱のおり、景勝軍に300余人を率いて加勢し、勝利へと導いた「渡邊藤兵衛」の話、
渡邊氏は、八方捜索したにもかかわらず、とうとう見つからず、そのとき、稲荷の祠の前に粗末な武具が脱ぎ捨ててあり、人々は、かの武者「渡邊氏」
は、稲荷権現の化身であったのではないかと噂しました。
景勝公は、祠が城の南に位置することから、公自ら「南方稲荷尊天」と、その名を改め、社殿を建立し篤く尊崇されたという。

    

関興寺の山門。300年以上前に建てられ、関興寺に現存する最も古い建造物。


「池と滝」
総門を入ってすぐの右手側に大きな池がある。この池は、寺の開祖、「普覚円光禅師」の戒名である「白崖宝生」
和尚に因み「白崖池」と呼ばれていると云う。
白崖池には、「登龍の滝」という滝が注いでいる、登龍の滝の上は、臥龍の庭を通り、本堂の裏にある「棲龍池」に、棲龍池には「昇龍の滝」が。
これらの池と滝は、鯉が滝を登ると龍になるという故事に因んでつくられ、白崖池に棲む鯉が、登龍の滝を登って龍になり、さらに昇龍の滝を登った
龍が、天龍や飛龍として空を舞うことで悟りの境地に近づいていく様子を表していると云う。

「総門」
安房勝山藩の酒井家の門として200年以上前に建設され、群馬県箕郷町(現、高崎市)の文化財だったものを、持ち主の好意により寄付・移築されたもの。門の両側には門番の詰め所があるなど、武家屋敷らしい造りになっている。もともとは、瓦葺き、南魚沼の降雪状況からトタンに葺き直してある。


次回は、湯沢の町。

塩沢宿 「北越雪譜」鈴木牧之生誕地

2014-12-17 | 気まま旅

「三国街道」
江戸時代・参勤交代に利用され、重要視された。
長岡藩、与板藩、村松藩などの諸大名や佐渡奉行、新潟港巡検の関八州取締出役などがこの街道を利用。
当時の宿場には、渋川や湯沢をはじめ「三国峠越えの三宿」と称せられた三俣、二居、浅貝などがあった。
1885年(明治18年)三国峠の代替ルートとして、清水峠が馬車道として整備されたが、瞬く間にがけ崩れと雪崩の頻発により放棄され、
しかし、1902年に鉄道(信越本線)が開通してからは、交通面は鉄道に依存し宿場町は衰微していく。
長岡から湯沢にかけては道も平坦で農耕地もあったため、ある程度の地方的交通需要があったと云う。
三国峠を越える部分の交通量は極めて少ないものであった。
1953年(昭和28年)、自動車の普及とともに長距離の貨物輸送の需要が増大、関東 - 越後間の自動車交通が信越線沿いに迂回する不便を解消するため、県道であった三国街道の国道昇格運動が起こり昇格とともに大規模な改修工事が開始、現在三国街道の大部分が国道17号に。
関越自動車道・上越線・上越新幹線と共に関東~新潟間の大動脈である。

「堀 秀治」は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
        越後福嶋藩の初代藩主、堀秀政の長男。
          1600年の領主は、堀秀治の家臣の井口家(佐渡島)が,「塩沢」に移り住んでいる。

                 浦佐ー六日町ー十日町ーつむぎの里塩沢町へ                  


魚沼丘陵
信濃川ー魚野川の間の東西約15km・南北約32km、標高は高い南西部の1100mから徐々に高度を下げている。北東部で300mと云う。
緩やかな西斜面の信濃川寄りには日本を代表する大きな河成段丘が形成され、そこに畑が作られている。
急傾斜の東斜面は、スキー場として人気がある。

「JR上越線・塩沢駅」
窓口の営業時間は、午前7時10分から午後5時30分まで、本数少ないので注意。
構内の床には雪のマークが張り付けられ、これは、付近で最大積雪深3.7メートルを記録した豪雪地帯であることに由来していると云う。

                 稲刈りはほぼ終了、冬支度に
  

「鈴木牧之記念館」
「北越雪譜」の著者「鈴木牧之」1770-1842年の記念館。
文献・雪国の民具類・行の研究資料・・・雪の文化館ともいえる。

                  そっと置く ものに音あり よるの雪  「鈴木牧之」
                   
                     鈴木牧之記念館


記念館、駅に近い、碑文は自筆文字を刻んだと云う。
牧野牧之、雪国の生活史を活写した文人。
塩沢の商家に生まれ、傾きかけた実家を立て直す、俳諧・書画に親しみ、19歳で江戸に出て、雪の無い世界を見て、雪国の苦労を紹介しようと、
40数年がかりで「北越雪譜」を出版し好評を博した。
塩沢は,コシヒカリの原産地のひとつと、日本を代表する豪雪地帯。その豪雪地帯で人間の生活がどういうふうに宿命をうけているのかを、
「鈴木牧之」は、綴った。加えて興味深い民俗習俗行事にも触れ、それが天保6年に初編が出た。
 
北越雪譜の碑ー 昭和44年牧之生誕200年祭記念建立、「北越雪譜」中の文で、この土地の特産である縮のことを書いたもの。


牧之氏は、学者でもなく武士でもない、三国街道に沿った百姓出身で、塩沢縮の仲買・質屋を営む商人であったと云う。
麻織物の縮は、武家の衣服として場が多かったと云う。塩沢地域は、その生産地として発展していた。

                 新潟の冬は休まずつむぎ織


現在は、その伝統を受けて綿織物「紬」の産地として売られている。

                     長い冬がそこまで                       


牧之の父は、俳句を趣味にし、牧之も俳句・和歌に親しみ、書・絵、、、と広げ鈴木家の家風であったようである。また、全国的に広く文人と交際している。山東京伝・曲亭馬琴・十返舎一九など。
                      鈴木牧之像
    

「雪譜」は、40年と云う。当時のこととて、その努力・忍耐・勤勉さと人柄が判る。

                          館内
  

牧之は、旅行を好み、他所の風土との格差・差異に興味を持ったと云う。「雪譜」「秋山紀行」となっていると云う。
長恩寺境内に句碑がある。
                          館内
  

豪雪の雪害の悩みは、今も同じ、が、山斜面は、多くはスキー場として開発され、除雪も早く環境変化はある。
豪雪地帯としては変わっていない。
                          館内
  

越後の雪、雪国の暮らし・不思議・自然・生き物・禍・祭り、、、25話、挿絵55図、雪国の本当の姿などを7冊の書物にした
江戸時代のベストセラー「北越雪譜」民俗学的にも高い評価を受けている。

                          館内
  

千年の昔から伝わる塩沢の織物伝統工芸が、「つむぎ記念館」で体験と工程など見られる。1階は、展示販売場で2階が織工房になっている。(無料)

いざり機                      館内
  

                  我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽き事かあらん。
                  雪の為に力を尽くし財を費し千辛万苦する事、
                  下に説く所を視ておもひはかるべし。     「北越雪譜」より

                              館内
  

牧之の時代に生きた越後の人々の素朴でひたむきな暮らしぶりを記念館で伝わってきた。(入館料¥500)

                          館内


塩沢町の中心街は旧三国街道(日本海側と江戸を結ぶ輸送路)沿いの宿場町として栄え、300年。
歴史と文化を復興させようと1998年より地元住民が「塩沢らしさ」とは何かを議論し、「雪国の歴史と文化の街」に。
県の事業認可を経て2003年より市、県、国が一体となって街づくりを進め、2009年に三国街道塩沢宿「牧之通り」が完成。

「牧之通り」とは、江戸時代の雪の書「北越雪譜」を書いた鈴木牧之にちなんで名付けられた。
建物の公共空間から私的空間までが一体的に整備。

牧之通り・ハーブ通り・つむぎ通り等がある


「住吉神社」
住吉と云えば筑前・大阪の住吉大社等、関係は判らない。

鈴木記念館の裏に「大雲寺」牧之が手習いなど教育した寺があると云う。良く解らなかった。(民家の庭になっていた)


 「長恩寺」浄土宗の寺。
境内に経蔵は、元「鈴木牧之記念館」であったと云う。県指定天然記念物「オハツキ銀杏」の神木樹齢400年と云う。

                       長恩寺仁王像


「塩沢のお祭り」
住吉神社を中心に踊り屋台・お神輿・神楽などのも催しがある。住吉神社の歴史は、1532年、魚の川の洪水の時に御神体が塩沢村に流れ着いて、
百姓が拾い上げて、諏訪神社ー現在の長恩寺に鎮座。
後に、1645年、住吉様御神体を六分区の大運寺(現在の住吉神社前)に移して、1667年に、社殿を造り、1770年に前の住吉神社社殿が造られ、明治5年に石垣・石橋が造られて現在に至ると云う。

住吉神社は「農耕の神」「海の神」として信仰の強い神様です。古の時代より稲作に励んできたこの地の者にとっては心の拠り所となっている。住吉神社では元禄2年(1689年)より村氏神として祭始まり、陰暦6月15日(現在の7月15日)大祭と定めた。
大祭は、一年に一度「与丁(神輿を担ぐ人)、つまりその年の数えて42歳の厄年の男)が御神輿(享保8年作で寛政元年(1789)年に京都栄天神から購入した御神輿、現在渡御で着要する半纏の赤い鉢巻をして京都から担いで来てた。)を神社から出して、「渡御」お供を従えたて町中を練り歩く)する歴史と伝統のあるお祭りです。14日には宵晩(前夜祭)が行われ。、子供たちが舞踊を行う「踊り屋台」に笛太鼓で囃子を奏で、歴史と文化を感じる大祭です
                      長恩寺の金剛力士 楼門


「住吉神社」は、「農耕の神」「海の神」として信仰の強い神様。
古の時代より稲作に励んできたこの地の者にとっては心の拠り所となっていると云う。
住吉神社では、1689年より村氏神として祭始まり、陰暦6月15日(現在の7月15日)大祭と定めた。

大祭は、一年に一度「与丁(神輿を担ぐ人)、つまりその年の数えて42歳の厄年の男)が御神輿(享保8年作で寛政元年・1789年に京都栄天神から購入した御神輿、現在渡御で着要する半纏の赤い鉢巻をして京都から担いで来てた。
神社から出して、「渡御」お供を従えたて町中を練り歩く歴史と伝統のあるお祭りと云う。

                         長恩寺本殿


三國街道・牧之通り沿いには、鈴木屋本家・岩木屋跡・徳昌寺・平等寺・熊野神社と続いている。
鈴木屋本家は、牧之の父、平野家は、牧之の子、弥八の婿入り先(青木酒造・鶴齢)、、。(町は、徒歩2時間程度)

                      熊野神社拝殿


江戸後期の文人「鈴木牧之」が生涯を過ごした塩沢の地。
いま、雁木と切妻屋根が続く雪国ならではの町並みと江戸時代の宿場町に、
「街道塩沢宿ひな雪見かざり」等、牧之通りを中心とした家で、ひな人形を見ることができると云う。

                      徳昌寺本堂


次回は、南魚沼市君沢、石打方面へ。