syuの日記・気まま旅

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花巻と宮沢賢治 東北の旅12

2015-11-17 | 気まま旅
宮沢賢治(1896-1933)は、花巻市の質屋古着商政次郎の長男として生まれ、この地で逝った。
盛岡高等農林学校(現、岩手大学)農芸化学科を1918年卒業、37歳ま で病死するまで詩歌・童謡・小説の執筆に注ぎ、農学校教師として
「農民芸術」を講義、農村復興実践活動を行い、青春の魂を燃焼し、大乗仏教の思想を貫かれた。
花巻農学校への就職・羅須地人協会の旗揚げ・砕石工場技師への道も、父母の後ろ楯があったと云う。
妹トシ子、弟清六にも力を借りている。妹には、清書・校正役を勤め、賢治の片腕として蔭で助けている。その妹とが逝った衝撃は大きく、
賢治の創作活動は一時絶える。
賢治の「心象スケッチ」手法は、日本近代詩に独自の位置を占めたと云う。
大正13年ー春と修羅(自費出版)・童話集注文の多い料理店、この頃から、高村光太郎・草野心平らと交流が始まっている。
代表作ー「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」は、生前末発表の童話であった。
「雨ニモマケズ、、、、」は死後、トランクの中から発見された手帳に記されていたメモの一つと云う。

花巻市は、県中部、北上川流域の町、北上川に花が散って渦を巻いて流れるーから「花巻」の地名など諸説がある。
奥州街道の宿場町で、北上川舟運の河港として栄えた。

SL銀河は、JR東日本が平成26年、から釜石線で運行しているジョイフルトレインを云う。
    

「SL銀河アーカイブ」
運行区間ー釜石線(花巻駅 - 釜石駅間)で、2日で1往復、すなわち1日の内、釜石行きか花巻行きかのどちらかの方面へ行く運行内容とされている。
原則は、釜石行きが土曜日、花巻行きが日曜日に運行とされ、2014年は、釜石行きと花巻行きがそれぞれ40日ずつ、ほぼ毎週運行され、
合計年80日程度の運行。停車駅ー花巻駅 - 新花巻駅 - 土沢駅 - 宮守駅 - 遠野駅 - 上有住駅 - 陸中大橋駅 - 釜石駅
遠野駅では給水・灰捨て作業を行うため、1時間以上停車すると云う。

                北上川と花の渦の町「花巻」
    

「銀河鉄道の夜」
、、、、銀河を仰いでいるうち眠ってしまい、 気づくと、星座から星座へと宇宙を旅をする銀河鉄道に乗っていて向かいの座席にはカムバネルラが
、、、。
      子供達に人気の「SL銀河アーカイブ」は、花巻ー釜石間


「花巻まつり」-9月中旬ー
風流山車・神輿・鹿踊・神楽権現舞・花巻ばやし踊り。
十数団体が参加し、花巻ばやしの音色にあわせて市内を練り歩き、夜のパレード・ 子供神輿から大人神輿まで約120基が参加する。
その迫力と熱気を体感出来る。
酒樽をのせて担ぐ花巻特有の「樽神輿」。南地方に伝わる太鼓踊り系鹿踊から約20団体が参加、約200人が一斉に踊る様は圧巻と云う。
祭神の権化である獅子頭を捧持して舞い、社会安穏、五穀豊穣を祈念・京都祇園囃子の流れを汲み、笛・三味線・大太鼓・小太鼓。
花巻ばやしにあわせ、手踊りを。

JR東北本線花巻駅         銀河鉄道
    

「北上川」-岩手県および宮城県を流れる一級河川。
流路延長249km、流域面積10,150km²は、東北最大・全国でも4番目。河川としては勾配がかなり緩いことが特徴と云う。

宮沢賢治が名付けた「イギリス海岸」
「石っこ賢さん」と呼ばれるほどの鉱物好きの少年で、花巻市内を流れる北上川と猿ヶ石川の合流点の西岸に「イギリスの海岸」に見られる、
第三紀末・鮮新世の凝灰岩質泥岩が露出、白亜紀層を想起させることから賢治は、これを「イギリス海岸」と名付けた。
賢治は、花巻農学校の教員時代、よく生徒を連れて地質学の実習をし、散策・思索の場としても親しんでいる。

                 イギリス海岸


泥岩層ー「東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺の麓まで、一枚の板のやうになってずうっとひろがって、たゞその大部分がその上に積った洪積の赤砂利やローム、それから沖積の砂や粘土や何かに被はれて見えないだけ」だった。こうした堆積物が河川に侵食された北上川の河岸のような所では、この板のようにひろがった泥岩層の一部が顔を出しているのだ。
泥岩層を調べると、牡蛎などの半鹹のところでないと住まない貝の化石が出てくるので、第三紀の終わり頃には北上の平原にあたる所は細長い入海か鹹湖だったことがわかると云う。
そこを海岸と呼ぶことは考えられ、割合浅い水がさらに浅くなり、草や木がしげりその葉や実がつもり、時には火山礫が降ってきて木がおしつぶされた。
泥炭の様子からわかると云う。
                  賢治が好んだ「北上川」
    

「宮沢賢治」 1896-1933 理想主義と幻想的な作風で知られる詩人
1921年上京して筆耕・校正の仕事をしながら法華経の宣布に努めている。妹の病気で帰郷、稗貫農学校の教師。
農業改良と農民芸術を一つにする意図して、「羅須地人会」を設立して、農業指導・芸術活動に注いだ。
高村光太郎・草野心平・横光利一・谷川徹三・中島健蔵などに評価された。

                宮沢賢治記念館
    

「宮沢賢治記念館」
昭和57年、花巻市胡四王山に開館。
宮沢賢治の世界との出会いの施設、スクリーン映像や関係資料を5分野に分類し、解説と作品に至る創作過程、最新の研究成果などを展示紹介。
入館料¥350
              館内から庭園  散歩道


1914年、「漢和対照妙法蓮華経」を読み賢治は、深い感銘を受け、その後「法華経」へ帰依することになる。
家は浄土真宗で、死後の極楽浄土の救いを説く教えに対し、「法華経」が自分より他人・衆生の救い、あの世より・この世「仏国土」の世界を
実現すべきであると云う教えを知ったのである。
1920年、日蓮宗「国柱会」に入会し、法華文学の創作を勧められ、進んで活動を行ったと云う。

    

仏教・キリスト教などにも通じ、自己犠牲・衆生済度・幸福・不殺生戒などの思想が賢治の作品に反映。
死後の世界・宇宙エネルギー・生き物に対しての「大慈悲の心」を重んじている。

                   宮沢賢治生家
  

妹・とし子は、非常に成績優秀で小学校の時から全て成績は甲(1番良い評価)であり、4年生の時には模範生として表彰され、高校に入学しても卒業まで常に首席で卒業式の日には総代として答辞を述べるというような父親自慢の才女であったという。
賢治とも非常に仲が良かったというが、
、、、、自分を表すラグナロードの月と妹・とし子を表す3室支配の水星が1-7の関係で相互アスペクトしており、他の惑星からのアスペクトを受けていないで孤立している、、、、。
つまりお互いにかけがいの無い相手として援助し合い、対等な夫婦のようにお互いを尊敬しあう間柄のようであったと云う。
例えば、他の家族が浄土真宗を信仰しているにも関わらず、2人だけは日蓮宗で法華経信仰を共にしていたのであり、それだけでも精神的に深い間柄であったという。
彼の魚座の月が表す情緒的な月と繊細で科学的で論理的な職人的な技巧の3室水星が合わさることにより彼の作品が生み出されていると考えると、妹のとし子は彼の重要な一部であり、お互いに相手の長所によって影響されあうパートナーであったと、、、。
実際、彼らはお互いに賢治が就職の相談をすればとし子がそれに励ましの返事をし、とし子が大学生活の不満をもらせば賢治がそれに対して
アドバイスするというように精神的に深い信頼関係で結ばれていたようである。
また、とし子が病気で入院すれば賢治が青年が出来ないような奉仕をとし子に捧げたという。
それは、- 「・・・・病院で賢治がとし子さんを看病する有様をおぼろげにはいまも知っておりますが、便のしまつから服薬、またいちいちその日の状態を医師に問い合わせたり、青年のできないようなことを実に克明にやられるのでした。・・・」
(校本宮沢賢治全集 第14巻  筑摩書房)より。

            生家と近所ー地域のお祭りであった
      

「身照寺」-市石神町. 宮沢賢治の菩提寺。
寺は、1394年、に開山し、 日蓮宗の古刹。
身延別院ともいわれ、藩主南部家の菩提寺でもある。

鎌倉期に作られ たといわれる日蓮上人像がある
     

銀河鉄道の夜
このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に 見えるのです。
ジョバンニさんそうでしょう .....。
まったくその中に、白くあらわされた天の川 の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。
そしてその 地図の ...。
                 宮沢家と賢治の墓
  

花巻市には、坂上田村麻呂の開基と伝わるー清水寺・高村記念館、光太郎が7年間疎開していた跡地、智恵子の切り絵など展示されていると云う。
西部に県下最大の温泉郷(泉温68℃)等がある。

             寺の丘陵から花巻の街並が


「風の又三郎」より、
雨ニモマケズ・風ニモマケズ・雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・丈夫ナカラダヲモチ・慾ハナク・決シテ瞋ラズ・ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト・味噌ト少シノ野菜ヲタベ・ アラユルコトヲ・ ジブンヲカンジョウニ入レズニ・ ヨクミキキシワカリ・ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ・東ニ病気ノコドモアレバ・行ッテ看病シテヤリ・西ニツカレタ母アレバ・行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ・行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ・北ニケンクヮヤソショウガアレバ・ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ・ サムサノナツハオロオロアルキ・ ミンナニデクノボートヨバレ・ ホメラレモセズ・ クニモサレズ
サウイフモノニ・ ワタシハナリタイ・南無無辺行菩薩・ 南無上行菩薩・ 南無多宝如来・ 南無妙法蓮華経・ 南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩・ 南無安立行菩薩

次回は、盛岡方面へ。

遠野ー(2) 東北の旅11

2015-11-14 | 気まま旅
東北の旅に戻ります。

遠野の民話の語り部として知られた岩手県遠野市の「鈴木サツ(故人)」さんが語る昔話。
鈴木サツさん自身が選んだ50話で構成されている。
遠野市の鈴木サツさんは、1911年の明治44年、上閉伊郡綾織村長岡(現遠野市綾織町)で、農業を営む菊地力松、サノの長女として生まれる。
幼いときから父親力松さんから昔話を聞いて育ち、32歳に資格を取って開業した床屋で子供たちに昔話を聞かせることもあったと云う。
「遠野むかしばなし」の語り部としての本格的な活動は、昭和45年、頃からで、各地から招かれるようになる。
1984年「第2回NHK東北ふるさと賞」受賞。
1996年亡くなるまで生涯遠野むかしばなしの継承の第一人者として活躍した。

鈴木サツ自選「遠野むかしばなし50話」
「お月お星」・「二度咲く野菊」・「田螺長者」・「唖がよぐなった話」・「食わずの女房」・「上方テンポ」・「寒戸の婆さま」・「天狗の衣」
「糟餅と地蔵様」・「駒形神社」・「愛宕様」・「おふたご様」・「卯子酉さん」・「古屋の漏り」・「神様と二人の爺様」
「豆とおぎりど薬」・「エンサにヨイサ」・「蜂のおがげ」・「箕の輪曲げする人の話」・「天に上った男」・「人ど蛇ど狐」・「笠地蔵」
「三枚のお札」・「トラ猫ど和尚さん」・「父親買ってきた男」・「蛙の江戸見物」・「化げ猫」・「和尚様と猫」・「山鳩」
「フクベの始まり」・「観音様の申す子」・「オシラサマ」・「竜神のお告げ」・「天狗のおっかね物」・「とうふとこんにゃく」
「狢堂」・「鬼の豆」・「カッパ淵」・「カッパの恩返し」・「小峠の化げ物」・「上の爺ど下の爺のドッコかげ」・「若水」
「嬶の首」・「池端の石臼」・「狐をだました爺さま」・「狐の恩返し」・「狐の話」・「狐と獅子頭」・「座敷童子」・「母の目玉」の50話。

「カッパ淵」-カッパ伝説が多く残る遠野で一番知られている場所。
その昔、武将が馬の足を洗っていたら、この淵からカッパが出てきて悪さをしたらしい。今はその淵らしきものはないが、
幅2~3mの川原には、夫婦のカッパが鎮座する祠があり、拝むと胸が大きくなるという噂も。駅前にも。

津軽、喜多方、八戸、仙台、十文字、酒田、米沢、青森など東北地方のラーメン。
煮干や鶏ガラをつかったラーメンが多い 。


出羽神社の入り口には湯殿山の石碑が建っている。
出羽三山とは羽黒山・月山・湯殿山となっているが、本来は「羽黒山・月山・鳥海山」であったと云う。
「羽黒山伝」によれば、羽黒三社は羽黒・月山・鳥海で三所権現と号しているのだが、湯殿山はこの奥の院にあたると云う。
今では、地域の区分から鳥海山は外れてしまったが、古来は結びついていたようだ。
湯殿山・鳥海山等、全てを「羽黒」。

「愛宕神社」は、市街地から猿ヶ石川に沿って西へ、 道路脇、少し降って、境内入口の階段がある。
階段を上り、欝蒼と茂る 木々に囲まれて社殿が鎮座。その、 愛宕山の下には、卯子酉様の祠がある。

    

「卯子酉様」
愛宕山の東麓に鎮座の神社。卯子酉神社、卯子酉大明神とも呼ばれ、恋愛成就の神として若者に知られ、創建は、江戸時代。
祭神ー卯子酉明神を祀る。
かつて一帯は大きな淵でそこに「淵の主」が住み、その主に男女の縁を祈願すると不思議に叶い、特に信仰の篤い者には時として主自らが姿を現したといい伝えが、現在では祠の前にある木々の枝に、左手だけで赤い布を結びつけることができたら、縁が結ばれると云われている。
江戸時代、遠野の商人港屋平兵衛が、普代村鳥居の卯子酉明神(鵜鳥神社)を勧請して創建したと伝わる。
岩手県内には、遠野市を中心に各所に卯子酉様と呼ばれる祠があると云う。

  

     五百羅漢ー遠野市にある江戸時代天明期に刻まれた石像群。


天明の大飢饉による餓死者を供養するために、
天明3年の1765年、大慈寺の義山が山中の自然石に500体の羅漢像を刻んだものと伝わる。
羅漢像は立体的な彫刻ではなく、絵画のような線彫りと云う。 大雨の為途中で下山した。

   200年前余りの大飢饉で、義山和尚が羅漢像を彫って供養した
    

「対泉院」ー曹洞宗ー
門前の道路は、市街のはずれの桝形のクランク状に折れ曲がっている。
門前の道を入っていくと、黒光りした塗り瓦の四脚門と本堂が。

    

六地蔵堂と水子地蔵堂が、本堂の右側に、八角堂に金剛力士像、(日本一大きいと云うが)昭和55年に、
「東京大空襲」の犠牲者の冥福を祈るために作られたという。

    

                   境内には、石仏が
    

「福泉寺」ー市松崎町駒木 ー入門料¥300
山号ー法門山・真言宗豊山派 ・本尊ー聖観音菩薩・創建年ー1912年の大正元年・開基ー佐々木宥尊 。

            札所ー東北三十六不動尊霊場21番


境内は総面積20万㎡、山内には、県内唯一の四国八十八箇所と西国三十三所の写し霊場があり、

            春には桜、秋には紅葉の名所
    

福徳観音像、総高17m、木彫として日本最大の観音像。 樹齢1200年の大木の一木造である。
20年の歳月を費やして住職自らが刻んだと云う。
    

「妻の神の石碑群」ー松崎町駒木ー
妻の神は塞の神などとも書き、村境にあり外から悪霊が入ってくるのを防ぐ神とされる。
の駒木地区にある石碑群は、多くの石碑が並ぶことで古くから知られ ており、遠野を代表する石碑群の一つ。



                   大小の石碑


「陸奥国・横田城」-別称 護摩堂城。
鎌倉期から戦国期の城郭。
「阿曽沼氏」の居城、護摩堂山にあり。
両側を沢で囲まれた扇状地で猿ヶ石川に面した緩斜面地となっており、300x200mの台地に幅の広い空濠が残っている。
城下には家臣屋敷が配されて、一日市などがあったと云う。



猿ヶ石川がたびたび洪水を起こし、対岸に居住する諸士の往来の被害を避けるため鍋倉山に新城を築いて移り、
天正年間に放棄されるまでの数百年、遠野地区の政治的中心である。(前回の鍋倉城を)

    

                高清水山のふもとの丘陵地が一望


「阿曽沼公歴代の碑とシダレザクラ」
阿曽沼氏は、源頼朝が奥州を平定した1189ー1600年、の滅亡まで13代400年間に渡って遠野の領主。
中央の五輪塔は室町期と伝えられ遠野最古のもの。
シダレザクラそして芝桜が美しい所で、墓碑の裏手にはリンゴ畑が広がる。

                阿曾沼公歴代の墓・碑
    

                   供養記・石
    

「緑蔭小舎・遠野サロン」
遠野物語の柳田國男氏の義理のお娘さんが開いているギャラリー。

                   本日は休館していました。
  

「岩手県も、米どころ・酒どころ」
平成4年頃は、蔵元―29家・-銘柄数ー66種ありましたが
「3.11」後、不明です。銘柄ではーあさ開・岩手川・遠野路・南部美人・八重桜・風の又三郎、、、、、、、等が。

    

次回は、花巻方面へ。

たてしな藍に泊る  横谷渓谷から

2015-11-11 | 気まま旅
北八ヶ岳ロープウエイの乗り場です。ここから7分ほどで南八ヶ岳坪庭まで登ります。2237mの高い山、寒ーいので今日は省略。
北八ヶ岳ロープウエイは、八ヶ岳の北端に位置する北横岳と縞枯山の間に架かり、山麓駅(標高1,771m)から山頂駅(同2,237m)までの高低差466mを約7分で駆け上がります。その間、刻々と変わる山岳風景を目の前に眺める空の旅は迫力満点。降り立つ山頂には、ハイマツやコメツガなど溶岩台地を覆う低木や高山植物が群生する坪庭自然園が広がります。四季折々の魅力にあふれた北八ヶ岳には、ゆっくり歩いてみたい大自然があふれています。


蓼科高原のカラマツの山並み


蓼科山、姿は優しいが上りはキツイ、一度挑戦しましたが断念!


横谷渓谷
四季の素晴らしい遊歩道でマイナスイオンを胸いっぱい吸い込みます。
渓流に沿った遊歩道は、蓼科高原の自然をたっぷり満喫できます。
渓流沿いですのでマイナスイオンが沢山発生しています。健康増進にも役立つ自然の空気を楽しみます。






あちらこちらから流れ出る湧水


岩から滴り落ちる清水、雨は降っていないのです。


霧降の滝 マイナスイオン20000
霧降の滝へは、横谷温泉の横から行くルート(平坦)と横谷温泉横の階段を降り渓谷沿いを通るルートがあります。
霧降の滝を過ぎると鷲岩、過ぎると道が分岐します。今日はここまでの散策です。
冬には、氷瀑が美しいルートには、ここで分岐しますがまた遊歩道は合流します






たてしな藍
蓼科へはよく来ていたが、いつも横目で見て通り過ぎていた、一度泊まってみたいと思っていたが、、、。
藍染と懐石料理の宿、信州蓼科横谷峡谷に静かに佇む大人のための隠れ宿。たてしな藍。

思っていた通りおもてなしの宿、山菜の創作料理、露天ぶろ付きの部屋、宿の中は藍染満載、素敵な一夜でした。


ライトアップされるロビー前の中庭、ここで夜はワインサービス、朝はコーヒーサービスなどがある。


お料理のひとつ


八ヶ岳にお別れ!帰途に。




蓼科の旅終わり、東北の旅に戻ります。

無藝荘 蓼科高原

2015-11-07 | 気まま旅

今日は開館しておらず、残念ながら中は見られなかった。

無藝荘 は、小津安二郎が昭和30年頃から蓼科の別荘として利用していたかや葺き屋根の建物です。2003年に、小津の生誕100年を記念し、建物の保全の為、数100mはなれた現在の場所 (プール平) へと移築されました。

小津は 東京物語 をとり終えた頃、蓼科にあった、脚本家、野田高悟の別荘、雲呼荘 を訪れ、それ以降、仕事場を蓼科に移し、没するまでの 7作品すべてのシナリオがここで書かれたという事です。

なお、野田高悟の別荘であった雲呼荘は既に取り壊されてしまっており現存しません。当時の小津と野田、来訪者や蓼科の様子は、雲呼荘に備え付けられていた日記である蓼科日記 に克明に記されているそうです。








縁側が細い、写真でわかるでしょうか? 6尺は無く4尺でしょうか?今はあまり見ないですね。


軒下のベンチ


家の裏側、窓が細かく設定され、水道、暖房設備等の器機が見えます。中を見てみたかったです。

蓼科湖の紅葉 遅かった

2015-11-06 | 気まま旅
大好きな蓼科湖の紅葉を見に行きました。毎年今頃が最高なのですが、今年はちょっと遅かった!(10/27)

八ヶ岳が見えてきました。


蓼科湖は一回りしても40分くらい。紅葉を眺めながらの散策には最高です。

蓼科高原のどちらかと言うと入口付近にある静かな風景の良い湖です。
天気の良い日には、八ヶ岳が一望に見え、四季それぞれに高原のすばらしい景色をみせてくれます。
周囲には、ペンション、旅館、ホテル、売店をはじめとし、いろいろな施設があります。また遊園地もあります。
夏はボートにのり、秋の紅葉はすばらしい風景が楽しめます。