syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

羽村 玉川の始まり 多摩川散歩(23)

2016-02-17 | 気まま旅
JR青梅線も羽村駅へ。
「羽村」と云えば、端の村、都の北西部・武蔵野台地西端で、旧西多摩村、畑作・養蚕中心の農村であったと云う。
が、江戸にとっては、「玉川上水取水口・羽村堰」の重要の村である。ー「羽村は水の村」

「まいまいず井戸」
五ノ神神社の境内にある古い井戸。
まいまいずとはカタツムリのことで、その名のとおり地面から渦巻き状に掘られている。
806~810年,のものといわれ、当時は垂直に掘る技術が未熟だったためにこの形になったと云う。
直径約16m、深さ約4m。1962年(昭和37)まで利用、「渦巻き型・まいまいず井戸」は、渦巻きタイプの井戸。
カタツムリに形が似ていることから、多摩地方でのカタツムリの方言「まいまいず」と呼ばれていた。
羽村の地層は、垂直に掘り下げることが難しい砂礫層で、井戸掘り技術が未発達だった時代・鎌倉時代頃と推測。渦巻き状に井戸を掘るのが
最も安全で確実な方法だったと思われる。
                      まいまいず井戸


「阿蘇神社」
河津祐康の臣某が、1190-1199年、伊豆下田から移住、その子孫が稲荷社を創建・明治2年、阿蘇神社と改称された。
大正3年、に櫛御毛奴命、大物主神を合祀している。祭神ー豊受媛命、櫛御毛奴命、大物主神
祭日ー例祭日4月第二日曜日、10月1日 。

創建は、推古天皇九年(六〇一)五月と伝えられ、領主武門の崇敬が厚く、承平三年(九三三)平将門が社殿を造営した。
以後藤原秀郷、三固定重もまた社殿を造営し、小田原北条氏は永二十貰文の神領を寄せ、徳川家康は、二丁四方の馬場を寄進、神馬を放ったという。
さらに家光は十三石の朱印地を寄せ、代々家例とした。慶応四年(一八六八)朱印地を奉還、神領を上知した。明治政府より逓減禄金五十円を下賜。
明治二年阿蘇神社と改称。(東京都神社名鑑より)

文化財ー•阿蘇神社本殿(都指定有形文化財)・•阿蘇神社神輿(羽村市指定有形文化財)・•阿蘇神社の椎(都天然記念物)等。
神輿ー造りが近代の神輿を少し異なっていて、中心に心柱がなく、四方の円柱を箱台の下面まで貫き通し、楔で締めている。
これは、貴人の乗物としての形を残した古い様式で、中世神輿の形を備えているといわれている。
全体の形や装飾が優美で、特に鳳凰や瓔珞(四面に垂れる飾り)をはじめ金具のデザインや細工が非常に優れ、この神輿の寸法などを書いた木割帳が現存し、本体とともに神輿研究上重要なものと言われている。
構造は、1818年、宮大工小林藤馬(播磨)が、宮造りの技法をとり入れて製作、屋根内部の束や箱台の表面に、明細な墨書の記録があって、作者や製作年代が確認できる。(羽村市教育委員会掲示より)
                        本殿


「羽村駅」-明治27年、 青梅鉄道(後の青梅電気鉄道)立川 - 青梅間開通と同時に開業している。
大正14年、 年間乗降客163,000人で、1日平均447人であったと云う。昭和19年、青梅電気鉄道が戦時買収私鉄に指定され国有化、国鉄青梅線の駅に。

「福生駅」-羽村駅と同時に開業、大正12年、立川 - 二俣尾間電化(直流1200V)。昭和2年、 貨物支線 福生 - 河岸積込所間開業。
昭和5年、全線の電圧を1200Vから1500Vに昇圧し、昭和19年、 青梅電気鉄道が戦時買収私鉄に指定され国有化・国鉄青梅線の駅に、
昭和27年、 小作駅構内から流出した貨車4両が福生駅まで暴走し、引き込み線に停車中の貨車に激突し、大破。(青梅事件)。

    

「奥多摩街道」
都道29号立川青梅線ー都立川市から福生市を経て青梅市に至る都道。
多摩川とJR青梅線に並行して走る。
通称は、旧道は奥多摩街道、バイパスは新奥多摩街道と呼ばれ、その他、奥多摩街道の拝島三叉路から小荷田に至るもの、
都道5号新宿青梅線(青梅街道)と交差し東青梅駅前を迂回するもの、都道165号伊奈福生線と重複し、福生 新橋交差点から多摩川橋梁の永田橋を経て
多摩川右岸を北上し、あきる野市草花地内で都道250号あきる野羽村線に至る整備途上の支線がある。

「いざ・鎌倉街道」
埼玉県飯能市(旧名栗村)の小沢峠から入り、上成木の松ノ木峠、榎峠を越えて多摩川を渡り柚木町に至る。
この梅郷地区では、山麓沿いの古集落間を縫って進み、杉平(竹林寺付近)を経て梅ヶ谷峠を越えて日出町落合に出るか、または、和田町を経て
馬引沢峠から日出町玉の内に出たといわれている。



「稲荷神社」
創建年月は不詳。
江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」に「稲荷社」と記述されていると云う。
東ヶ谷戸の鎮守で、祭神は宇迦之御魂之神、建速素戔男尊、玉祖命。
「禅林寺」の西南にあったのを明治39年、この地へ移し、平成2年に拝殿覆殿等を大改築されている。
本殿の形は一間社流造で、社殿全面に彫刻がほどこされ、江戸時代後期社寺建築様式の典型的建築、宮大工「小林播磨(藤馬)」等の作。
木割帳等の記録により、1846年、に着手し、1848年に竣工したものと推定されている。
神輿も小林氏等の作と云う(羽村市教育委員会掲示より)。



「神社山車」-1919年、砂川村一番組(現立川市砂川町)から譲り受け、八雲神社は稲荷神社に合祀されている。
本体の中央部には盛留(一本柱)が建てられ、その上に付く六角形の高欄に素盞嗚尊と櫛稲田姫の人形が飾られ、
正面の柱に絡む昇り龍・降り龍の彫刻は、見事という。
現在は道路事情により、高欄を外して曳いている。
1862年、現入間市宮寺出身の「伊東清右衛門」他14人の大工彫刻師であると伝えられている。(羽村市教育委員会掲示より)

                 祭日ー4月第2(日)・9月9日


「臨済宗建長寺派寺院・禅林寺」
山号ー東谷山・「島田九郎右衛門」が開基。「春覚禅師」を開山に迎えて1593年、に創建、

       「大菩薩峠」の作者「中里介山」の菩提寺。


開山・春学禅師は、鎌倉、円覚寺の世代、三伯玄伊禅師の法を嗣いだ和尚さん。山号は、東ヶ谷戸による。

                    本尊ー如意輪観世音像


「天明一揆の碑」
羽村天明義挙1784年の天明4年、〈羽村市〉、 多摩、入間地方が、水田が乏しく、ほとんど畑作地帯であり、江戸時代の中期以降、
農村で生産物が商品化される割合がますます高まり、これを買い取る豪農や豪商が台頭、地方の経済的な支配力を強めてきた。
畑作地帯で生産力を高めようとすれば、自給の肥料ではまかないきれずぬかを大量に購入しなければならない。
購入肥料としてのぬかは肥料商と雑穀商をかねた豪農商から前借する。
農民が借り受ける肥料の価格は高く、一方雑穀類は低い価格で引き取られ、ここに豪農商と農民の経済的格差、階層分化が著しく進み、
豪農商は益々巨大化し、逆に農民は貧農化し、離村せざるを得なくなるという社会経済状況があった。
飢饉によって一揆が発生し、豪農商が農民の打ちこわしの目標になった。
一揆から110年後の明治27年、西多摩村の有志と、一揆犠牲者の子孫たちが一揆を永遠に記念するために「豊饒の碑」・(ゆたかにみのるの意)
を建立した。
一揆犠牲者「九士」を「義挙」とたたえている。



「中里介山」
本名弥之助は、明治18年、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれ、「中農・百姓」。
介山の少年時代には土地を失って、故郷喪失の憂き目に、大正3年、数え年30歳の時、介山は故郷羽村について次のように書いている。
故郷といふものふも、その当座数年が間は、よく僕のインスピレーションではあったけれど、今となっては、破れた太鼓のやうで、薩張離きかない、、。
若い日の介山にとって、羽村は過去の脱け殻の場所だったのでは、小学校を出た介山は、電話交換手や代用教員をしながら家族を支え、
きびしい貧しさの中でも独力で勉強を続け、正教員の資格を目指し、さらに、当時の日記には英語・美学・哲学などの文字も。
介山は、上京して教員を続けながら、キリスト教や社会主義運動に関心を寄せ、日露戦争のはじまった明治37年、すぐれた反戦詩を発表している。
我を送る郷關の人、願くは暫し其『萬歳』の聲を止めよ。靜けき山、清き河、其異様なる叫びに汚れん。(「乱調激韵」)
日露戦争後、介山は社会主義運動から離れ、都新聞社へ入社し、生活の安定した介山は、「都新聞」の紙上に「氷の花」「高野の義人」などを次々と発表し、好評を得ます。そうした中で「大菩薩峠」を着想し、大正2年、「都新聞」に連載を。(介山は28歳)
介山は、農業経営への意欲を深め、羽村に残されたわずかな祖先伝来の土地を買い足し、ほぼ1町歩の畑を取得し、これを「植民地」と呼び、奥多摩の道場・草庵をことごとく移築し、直耕と塾教育を合一させ、吉田松陰の松下村塾にならったと云う。

以前に、山梨で、大菩薩峠で掲載しましたのでお読みください。

                      中里介山菩提寺


「小説・大菩薩峠」ー中里介山作の長編時代小説ー
1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。
幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。
連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった。
作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。
世界最長を目指して執筆された時代小説で、大衆小説の先駆けとされる不朽の傑作である。
最長時代小説は山岡荘八作の「徳川家康」。
同時代では菊池寛、谷崎潤一郎、泉鏡花、芥川龍之介らが賞賛し、中谷博は文学史上において大衆文学の母胎と位置付けた。
戦後にも安岡章太郎「果てもない道中記」をはじめ数多くの研究や評論が展開されている。
 
    

大菩薩峠ー
幕末の安政5年、江戸から西に三十里離れた甲州裏街道(青梅街道)の大菩薩峠で、一人の老巡礼が武士机竜之助に意味もなく斬殺。
老巡礼の孫娘お松は、通りがかった盗賊裏宿の七兵衛に助けられ、養育される。
竜之助は、峠のふもとの武州沢井村の沢井道場の若師範であった。
甲源一刀流の師範宇津木文之丞は御岳神社の奉納試合で竜之助と立ち会うことになっていたが、その内縁の妻お浜は妹と偽って竜之助を訪ね、試合に負けてくれと懇願する。
竜之助は拒絶し、与八にかどわかさせて、お浜の操を犯してしまう。あげくに竜之助は試合で文之丞を惨殺し、お浜を連れて江戸へ出奔した。
文之丞の弟の兵馬は仇を討つべく竜之助の後を追う。
四年後の江戸で竜之助と兵馬は互いの素性を知らずに試合を行い、引き分ける。
翌年、兵馬から果し状を受け取った竜之助は、悪縁のお浜を諍いの末に切り捨て、兵馬との試合をすっぽかし、新選組に居場所を求めて京都へ向かう。
しかし、竜之助は、近藤と芹沢の争いで揺れる新選組をよそに、遊郭の里島原で狂乱し、またも失踪する。
その後、三輪の宝蔵院流の槍術を伝えるという植田丹後守の道場に身を寄せた竜之助は心中者の生き残りで亡き妻お浜に生き写しのお豊に惹かれる。
しかし、竜之助は成り行きで天誅組の変に参加し、十津川郷に敗走する途中、泊まっていた山小屋で追っ手の放った爆弾が爆発し失明してしまう。
竜神村でお豊と再会した竜之助は、お豊と逃亡。竜之助の世話のために苦しい生活を強いられたお豊が自害したと間の山の芸人お君から聞かされた
竜之助は、東海道に旅立ち、山の娘たちに助けられ療養するが、ふとしたきっかけで甲府に赴き、夜毎に辻斬りを仕出かしだす。
その後、竜之助は八幡村へ、江戸へと流れるが行き着く先で夜毎に辻斬りを仕出かしだし、慶応3年秋、白骨温泉に赴く。
小説は四散した登場人物全員の旅路を詳細に描いていく。数多の登場人物は慶応3年秋の日本各地をいつまでもいつまでも彷徨い続ける。(未完)



大菩薩峠の映画は、日活(稲垣監督)・東映(渡辺監督)(内田監督)・大映(三隅監督)・東宝(岡本監督)がある。



大菩薩峠は、江戸時代までは武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州道中の裏街道であった。
青梅街道の重要な峠として利用され、青梅街道の最大の難所でもあった。
峠を越えると街道は北都留郡丹波山村を通過する丹波山通と小菅村を通過する小菅道に分かれ、武州川野村(現在の東京都西多摩郡奥多摩町)で再び合流

峠より以西では、両村からの米や塩、木材など物資の輸送にも利用された。現在の峠は近年に認定されたものであり、江戸時代からの街道としての旧峠は賽の河原という地名で残っている。
1878年の明治11年、青梅街道は県令藤村紫朗の主導した道路改修により柳沢峠を開削した新ルートに変更され、現在は柳沢峠にその役目を譲っている。



「小説家、中里介山」
西多摩郡羽村、に精米業者の次男として生まれ、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれたと伝えられる。
生家は自由民権運動で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地で、長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。
1898年の明治31年、西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での電話交換手や母校の代用教員の職に就き、一家を支えた。
この時期に松村介石に傾倒し、号の「介山」も松村にあやかるものだという。

生活信条は、青年時代から独身を貫くと決心をしていたと云う。
27歳の時勤務先の都新聞社で独身会を結成し機関誌「独身」を発行している。
好男子であったので女性には大変もてたというが終生妻は娶らなかった。
評論家北嶋広敏によれば幼少のころ味わった家庭の暗さがトラウマになっているからという。
介山の言「女遊びは構わない、それは魂を傷つけぬから。恋はいけない、魂を傷つけるから」。
晩年まで簡素でストイックな生活を貫いた。「大菩薩峠」がベストセラーになって得た印税は事業につぎ込み、本人は菜食を中心とする粗食で、住まいは六畳間一間しかなかったと云う。



山梨県甲州市塩山上萩原と北都留郡小菅村鞍部の境にある(標高1,897m)
峠から稜線を北へ辿れば大菩薩嶺がある。国中方面からは、萩原越や大菩薩越、青梅通とも称された。(2015・9・18掲載)
 
次回は、多摩川・羽村堰堤・玉川上水へ。

小作・塩舟観音 多摩川散歩(22)

2016-02-13 | 気まま旅
多摩地方は、内陸性気候。
冬場の最低気温で都区部とは非常に大きな違いがある。
府中の1月の平均最低気温は−0.8°C、青梅で−2.3°C、八王子で−2.0°C、奥多摩では−3.0°Cと氷点下まで下がり、都心部との気温差が5度以上。
冬には南岸低気圧によって、大雪をもたらすこともあり、20センチ以上の積雪となることも多いと云う。
奥多摩町や檜原村、青梅市山間部などの多摩西部では11月頃から雪が降ることもある。

多摩川散歩も河辺駅まで来た。

JR青梅線青梅駅ー東青梅駅ー「河辺駅」下車ー小作駅・・・・・・立川駅ー東京駅。

「岩蔵温泉」-古くから「岩蔵みそぎ湯」として知られるー
都心の喧騒とは無縁の岩蔵温泉は東京の秘境。
温泉の歴史は古く、ヤマトタケルが戦いの傷を癒したという伝説が残る温泉だ。
交通JR青梅線東青梅駅~西武バス飯能駅南口行きで20分程にある。(岩蔵温泉下車)

    

「観音寺」-真言宗・大悲山・塩船観音寺ー
大化年間の645ー650年開山と云われる古刹。
                    本尊ー千手観音(正月と5月御開帳)


「真言宗」
空海・弘法大師によって9世紀の平安時代初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。
真言陀羅尼宗・曼荼羅宗・秘密宗とも称する。
空海が中国(唐時代)の長安に渡り、「青龍寺」で恵果から学んだ密教を基盤としている。
同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、
空海は、著作「秘密曼荼羅十住心論・秘蔵宝鑰」で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、
真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。
最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いている。

天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので「東密」と称する。

              本堂・阿弥陀堂・仁王門は重文
                    交通安全の守り神で信仰厚い
    

関東八十八ヶ所霊場第七十二番札所、
東国花の寺百ヶ寺東京第十三番札所、
奥多摩新四国八十八ヶ所霊場第五十九番札所。

御 詠歌:わすれずも みちびきたまえ かんぜおん ぐぜいのふねに のりていたらむ
 

伝説ー645年 - 650年に、若狭国の八百比丘尼が、紫金の千手観音像を安置したことに始まるという。
「塩船」の名は、729年 - 749年に、「行基」がこの地を訪れた際、周囲が小丘に囲まれて船の形に似ているところから、
仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である「弘誓の舟」になぞらえて、名付けられたものと伝えられている。

    

貞観年間(859年 - 877年)には、安然が12の坊舎を建てるなど、興隆を極め、鎌倉時代には武蔵七党の流れを汲む金子氏の庇護を受け、
室町時代には青梅・奥多摩方面に勢力をもっていた三田氏の帰依を得て栄えた。

    

国重文の
本堂(附:厨子)ー寄棟造、茅葺。桁行5間、梁行5間。
仁王門 - 切妻造、茅葺の八脚門。
阿弥陀堂 - 寄棟造妻入、茅葺形銅板葺。桁行2間、梁行1間の身舎の周囲に庇をめぐらした形式

           都天然記念物ー観音寺の大スギ(夫婦杉、二本)
    

都有形文化財は、
木造千手観世音菩薩立像 - 当寺の秘仏本尊。像高145センチ。寄木造。像内の銘により、文永元年(1264年)に仏師快勢・快賢らが造立
細身の体躯に複雑な衣文を刻んだ、当時流行の宋風の像である。
木造金剛力士(仁王)ー立像 2躯
木造二十八部衆立像 - 鎌倉時代〜室町時代の作。
28躯のうち、五部浄居天像には、1268年、功徳天像には、1276年、の胎内銘がある。

    



    頂上の観音様から甲府方面、雪の被った富士山が
  

         本堂裏の斜面に2万本を超える「つつじ」が(4月下旬~)
    

「霞丘陵自然公園」
塩船観音寺に隣接する丘陵公園。丘陵の間の沢伝いに山の方に散策コースが設けられている。
沢の辺りや手入れのされた松林の丘陵の中を歩くのも良い。

  

    

青梅~東青梅 多摩川散歩(21)

2016-02-12 | 気まま旅
「青梅市」
金剛寺、塩船観音寺、武蔵御嶽神社、吉野梅郷が、西部には、秩父多摩甲斐国立公園に属す。
多摩川が関東山地から武蔵野台地に流れ出る扇頂部に発達した谷口集落が「青梅市」街の原型である。
市域のほぼ中央を多摩川が西から東へ貫流し、北部にはー入間川(荒川水系)の支流である「霞川と成木川」が、やはり西から東へ流れている。
おおむね東部の平地から西部にかけて丘陵地・山地と変化している。
標高は西端の多摩川右岸にある御岳の鍋割山の1,084mが最高地点、最低地点は市域の北東に位置する成木川の両郡橋下流で103.5mである。
歴史的には青梅街道の宿場である「青梅宿」が青梅市のほぼ中心に位置する。
現在の青梅駅周辺であが、多摩川と永山丘陵に挟まれた青梅駅周辺はそれほど土地が広くないのに比べ、
開けた扇状地にある河辺駅周辺などの
「青梅東部」は、開発が進み、商業地や人口の増加している。
東部以外の北部、西部、南部は丘陵や山地であり、開発はあまり進んでいない。(ハイキング等の行楽地)

    

青梅は、霊亀2年の716年、
大和朝廷が、高麗人を武蔵に移し、高麗郡を創設した。
しだいにこの渡来人が青梅市にも移住し、後、戦国時代、「石灰石」を焼き、江戸城の壁を造ったが、石灰製法技術も渡来人のものと思われている。
中世には、武士団が活躍し、この地域の武士は村山党と思われ、当時の青梅には荘園はなく、未開の地、鎌倉時代後半に、「杣保」といわれるものが
形成され、村山党は桓武平氏で、北多摩,入間、青梅を勢力範囲とし渋谷の金王丸追善に「塩船観音」の功徳天が祀られている。
畠山重忠は、青梅市西部を領し、御嶽神社には国宝の赤糸威鎧が奉納されている。

杣保の地を領したのが「三田氏」
三田氏は中世初期にまだ領国が確立していない時期に勢力をのばしおそらく地頭であったと云う。畠山重忠没後、領した三田下総守平長綱。

                       青梅鉄道公園


「青梅鉄道公園」
青梅丘陵東端「勝沼」にある。鉄道開通90周年を記念して昭和37年開園。
記念館・野外に明治期の蒸気機関車・新幹線車両が展示され、野球場・遊園地・遊歩道などが整備され市民の憩いの場に。

                       青梅鉄道公園


「宗徳寺」ー臨済宗 建長寺派の寺ー
室町時代初期に創建と云う。 江戸時代には、徳川公から地蔵領として、3石を付与されている。
享和2年の1802年、の火災で寺記・古文書などを焼失、天保年間に中興した。
本堂は、1841年、の建立。

          境内のしだれ桜は、青梅市の名木のひとつ
    

            山門                         本堂
    

「村社・西分神社」
神社は、現在の西分町の村社。
隣接する宗徳寺の守護として、1300年代の終わり頃には創建されていたと伝えられる古いお社。
祭神は「天御中主神」ですが、仏教における「北辰(北極星あるいは北斗七星)信仰」の象徴である「妙見菩薩」と習合され、
地域の人は妙見様とか妙見社とか呼んでいると云う。
昔は、通称・妙見山の頂付近にお社があったものを、江戸時代の終わり頃に現在の位置に遷座。
手水場の石には「万延元庚申年1860」と刻まれている。
いまも山頂付近には旧社の跡が残されており、奥宮といった形になっていてと云う。
山の中腹に移されて後も、この神社は地元の人々によって大切にされ、ことある毎に補修などが繰り返され、境内には、明治から大正にかけて活躍、
皇典講習所(後の國學院)の設立にも大きく関わった国学者の「井上頼圀」らによって寄せられた和歌の碑など、たくさんの記念碑がある。
子獅子を崖下に突き落とす獅子が一対の狛犬となった珍しい彫刻などが。
この地は以前、公園になっていて、眺めのいい、人々の憩いの場所。
11月の祭礼の日には、賑やかに山車が曳き出されるとともに、参道には地口行灯が点されると云う。
例祭日ー11月3日

JR青梅線に沿っている          しだれ桜         西分神社
    

「勝沼山・乗願寺」ー時宗ー
正安2年の1300年、当麻無量光寺にいた遊行2代他阿真教が勝沼城主「三田長綱」に招請されて開山したと伝えられている古刹。
が、箕田定恵も開山と有る。
戦国時代末期に檀越の三田氏が後北条氏に敗れ、さらに小田原征伐に巻き込まれて寺は焼失した。
1596年~1615年、に24世「覚阿性海」により再建、1649年、朱印地3石を賜ったとある。
現在、44世住職飯田覚誠は本寺の無量光寺60世他阿上人になっていると云う。

    

「時宗」-開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆 」と呼ばれた。
室町時代まで に関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」 ...「北条時宗」

「文化財」
木造阿弥陀如来立像 は、 本尊。(鎌倉幕府の8代将軍久明親王から三田長綱が賜ったものだという。市有形文化財)
三田氏軍旗および兜前立 ( 市有形文化財)-小峰峯真墓 - 江戸時代中・後期の書家(小峰家は地元の商家)

    

          乗願寺から徒歩で青梅駅の次の駅「東青梅駅」に
     

多摩川を下ります。

青梅の街並み 多摩川散歩(20)

2016-02-09 | 気まま旅
「青梅街道」
1603年、江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる「石灰」を運搬する道路として、
「大久保長安」の指揮の下に整備、当時の名称は「成木街道」。
江戸時代中頃に、絵図や紀行文などには、「青梅街道」の記述が見られると云う。
内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村、で甲州街道と再び合流する。
このためか、「甲州裏街道」とも呼ばれている。
道程で甲州街道より二里短く関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用され、甲府の塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在している。
番所の跡と近くに番所の門を復元した温泉保養施設(大菩薩の湯)がある。大菩薩峠登山口バス停にある番屋茶屋はもともと萩原口留番所近くの
茶屋だったことから由来し、バス路線開設で現在地に移転したと云う。
明治2年、新宿と田無間に乗合馬車が開通。
青梅街道は多摩地区と都心を繋ぐ生活道路としても定着し、明治11年、には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして
柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更、大正10年、には、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道)も開通。
この電車は後に都電杉並線(都電14系統)となったが、青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線・丸ノ内線が開通し、昭和38年、都電はに廃止。
平成21年、東大和市の西武拝島線東大和市駅北側で、道路整備事業により、新青梅街道に至る新たな道路が本道に対し斜めに接続され、
信号付き交差点が新設された(南街四丁目交差点)、これに伴い本道経路が変更。

                    JR青梅線青梅駅


「東京都青梅市」ー都北西部ー
多摩川が、関東山地から関東平野へ流れ出る地域。青梅市の名の由来は、「平将門」が誓いをかけて植えた梅の木の実が、熟する事が無く青々としていたことによると云う諸説がある。
小曽木・吉野・成木・三田を編入している山地と平野と丘陵も存在する。その段丘上には、先史時代の遺跡も見られる。
西部の軍畑は、豪族三田氏が滅亡し地・青梅街道の宿場町として栄えた。
青梅縞の木綿織物でも知られている。古くは「多摩川」を筏で流し江戸へ材木を運んでいた。
「青梅マラソン」は、毎年2月・15000人以上が参加する我が国最大の大会である。



駅前路地に「雪守横丁」が。名前の由来は不明であるが洒落た名に左折。何もない横丁でした。
    

      旧青梅街道に珍しいお祭り関係の店が「半被・足袋、手ぬぐい、、、」


「昔懐かしい映画の看板が、旧青梅街道の街並みに」
駅から南へ100mほど進むと旧青梅街道だ。
駅周辺には店舗が建ち並んで繁華な佇まいを見せる。街道沿いには古い時代の名残を感じさせる建物が建ち並び、
歴史ある町であることを物語るのと、駅前の交差点から街道を少し東へ辿ると住江町だ。街道沿いの建物に
昭和30年代を彷彿とさせるような映画看板が数多く掲げられているのが否応なく目に入る。
看板の題材に選ばれている映画は往年の名作と言われるものばかりだ。「ローマの休日」、「俺たちに明日はない」、「ヘッドライト」・・・。
といった洋画の名作、あるいは「丹下佐膳」、「少年探偵団」、「悲しき口笛」といった邦画の名作まで、昭和30年代頃のものを中心に
さまざまな映画の看板がある。
風情ある町並みと手描きの映画看板とが相俟って、何ともいえない「昭和レトロ」な雰囲気を醸し出している。
この映画看板のある町並みはすっかり有名。
青梅宿映画看板街道などとも呼ばれ、この風景を楽しみに訪れる人も少なくないと云う。

    

映画の手描き看板やレトロなつくりの駅
「ひみつのアッコちゃん」の発車メロディ 。
昭和を代表する漫画家・赤塚不二夫を紹介する「青梅赤塚不二夫会館」、昭和のなつかしグッズを扱った「昭和レトロ商品博物館」
映画の手描き看板と昭和の生活をジオラマで表現した「昭和幻燈館」と。

    

なつかしいと見入る人、古いデザインに目を奪われる人、 と昭和のグッズが、
「サイダーのラベル」や「ぬりえ」など、コレクターが持ち込んだモノによる企画展示も行っていた。

    

壁に張られた、手描きの映画看板。青梅の映画看板絵師、「久保板観」の手によるものと云う。
なつかしい気持ちを感じた散歩でした。



「住吉神社」
1369年の応安2年、建立の古刹.
1513年、 青梅村民が 住吉神社の拝殿を改修し氏子である五町(現在の住江町、本町、仲町、上町、森下町) が祭礼。
青梅大祭の始まりと言われる。

    

大祭には、青梅駅前の広範囲の道路を通行止めに。
計12の山車が曳かれ、街道の両側には多くの露店が立ち並ぶ。
山車と山車が出会うと、「競り合い」が行われ、各々の山車には手古舞役の厚化粧の少年少女が3~10名ほど出る。
手古舞以外の少年少女は化粧しないと云う。
「山車人形」
計12の町によって曳かれ、山車を曳くようになったのは明治5年頃と言われている。
山車人形は、曳かれる山車の上部に置かれていたもので、明治40年頃迄、電線が敷設されたため三層の山車を現在のような屋台型に改造し、
また、各町の人形場で展示。
森下町の山車人形の武内宿禰は、嘉永年間製作のものと云う。

    

神社は、1513年、三田領五十七か村の領主であった勝沼城主「三田弾正氏宗、政定父子および氏子」の寄進によって社殿の改修が行われ、
青梅村総鎮守とされ、時に3月28日。以来この日を例祭日に定めている。
明治5年、太陽暦採用にあたり4月28日に改め、今日に及んでいる。
昭和47年、5月2日・3日に変更され現在に至っていと云う。
石段、七十七段登りつめると静かな神域が広がり、社域は市の史跡に指定。
拝殿の天井には、1824年、の新築に際し、青梅が生んだ画家「小林天渕」が描いた雲竜図がある。(市の有形文化財に指定)
拝殿の向かって右手奥には、小林天渕が自身と祖父・小峰峯真ほうしんの廃筆はいひつ等を集めて埋めた筆塚が、左手の稲荷社の前には、
江戸時代後期の青梅の文人「根岸典則」の碑が。
                     拝殿


「小林天淵」 1778-1863   江戸時代後期の画家,書家。
安永7年生まれ。書を祖父小峰峰真に学ぶ。
のち名主。博学多芸で,なかでも花鳥・人物画にすぐれ,師の谷文晁の名をとって青梅文晁と称されたという。
文久3年死去。86歳。武蔵青梅出身。

    

多摩川を下ります。

日向和田  鎌倉古道 吉野梅郷 多摩川散歩(19)

2016-02-06 | 気まま旅

「鎌倉古道・鎌倉街道」
古くは鎌倉道と呼ばれ、鎌倉街道は中世の頃、 東国の武士達が彼らの居館と当時の都、鎌倉との往還に踏み固めた道筋
1192年、源頼朝は始めて武家政権を樹立し、鎌倉に幕府を開 いた「鎌倉幕府」。
東国の武士達は早くから頼朝を武門の棟梁と して臣従し政権樹立に大きな役割を果たした。
鎌倉街道はこうした東国の御家 人達が一朝ことあれば「いざ鎌倉」と馳せ参じる道筋。
鎌倉街道の主 要な道筋は上ノ道、中ノ道、下ノ道の3本であったが、その他にも多数の枝道、 間道があった。
鎌倉幕府崩壊後も、建武中興、南北朝時代、室町時代、戦国時 代と、時代は移ろっても鎌倉は中世における東国の都として生き続け、
鎌倉街 道も幾多の歴史を刻んだが、徳川家康が江戸に入府すると、鎌倉の歴史的 使命は終わりを告げている。

鎌倉街道山ノ道は、秩父から青梅、五日市、高尾等、山辺を縫う様に走る道筋で、 上ノ道の裏街道の役割を担った。
別名「幻の道」とも「夢の道」とも呼ばれ、 武蔵武士の鑑と言われた鎌倉武将「畠山重忠」にゆかりの深い道筋でもある。
鎌倉古道の丘陵 越えには2つのルートがある。
一つは梅ケ谷峠を経由する車道、いま一つは馬引沢峠を経由する山道。
畠山重忠が歩 いたのは古い鎌倉古道の馬引沢峠道、一方梅ケ谷峠道は、戦国時代に大軍を動 かす軍道として開かれたと云う。
馬引沢峠道は、今でも、薄暗く寂しい峠道と云う。

                JR青梅線日向和田駅(無人)
    

「神代橋」
吉野地区 位置/65k100m(河口から)・建設は、昭和44年・構造ーアーチ橋・長さ 132.4m・道幅と車道6.2m 歩道2.7m×2

高さは、21m(水面まで)
    

    石碑ー「ふるさとに 澄める空あり 雁渡る 康弘」と彫られていた。

                   元首相・中曽根 康弘氏の句


即清寺の東を流れる沢を明王沢といい、あるとき本尊の首が落ちていたのでこの名がついたと云う。
沢にかかる橋を「明王橋」
山門下の吉野街道は、大門坂と呼ばれていた。

    

「鎌倉街道・馬引沢峠・二つ塚」
悲しい物語が、-何百年もの大昔、峠の麓に貧しい母と娘が住んでいました。
不幸にして、不治の病にかかった母親は、山に生きたまま埋められることを願い、親思いの娘も、一緒に葬られることを涙ながらに願って、
この地に埋められました。
それ依頼ここを、「二つ塚」と呼ばれ、薄幸の親子をしのんで、心ある村人が、掃除や土盛りをして、今も供養していると云う。



「都道」 ー青梅街道(西東京市東伏見4丁目~東大和市中央2丁目)・ 府中街道(稲城市大丸~東村山市久米川町5丁目) 立川通り(立川市錦町6丁目
~小平市小川町1丁目) ・吉野街道(青梅市友田町2丁目~青梅市畑中1丁目)・ 滝山街道(あきる野市牛沼~青梅市友田町2丁目)
新滝山街道(八王子市戸吹町~あきる野市牛沼)・ 高尾街道(八王子市東浅川町~八王子市戸吹町)・ 町田街道(八王子市東浅川町~町田市鶴間)
多摩ニュータウン通り(町田市小山町~多摩市乞田)・鎌倉街道(府中市本町1丁目~町田市森野5丁目・・奥多摩・・)。

  

「吉野街道」
起点は、都羽村市(新奥多摩街道交点)~終点が、都西多摩郡奥多摩町(古里交差点=青梅街道交点)間を云う。
(終点付近より多摩川南岸道路が建設され、将来的に国道411号現道を経由しないでも奥多摩湖に向かうことができると云う)



「下山八幡神社」
日向和田駅の西、吉野梅郷の中、吉野街道から西に入ったところにある。
長久2年の1041年、創建と伝えられる古社で、梅郷の鎮守として崇敬されてきたと云う。
拝殿の後ろにある本殿は三間社流造りの形式で、この形式のものは、都内では数少なく、青梅市の有形文化財に指定。
社宝として弘安4年の1281年、銘がある木彫神鳩のほか、神鏡や石剣などを保存。
社殿は端正なたたずまいを見せ、凛とした雰囲気を漂わせている。現在造成中
毎年10月半ばに行われる秋季例大祭には梅郷の下郷、中郷、上郷の各囃子連が囃子を奉納される。

    

「曹洞宗ー天沢院」
丘に登ると目の前に、「梅の公園」が一望できます寺。
天沢院は慶長8年の1603年、の開創と伝え、本尊は釈迦如来です。
境内には、石仏・梅をはじめ、サンシュユや季節の草花が植えられている。

    

「梅の公園・吉野梅郷」
梅の名所として吉野梅郷を訪れた人は必ず立ち寄る 「吉野梅郷のシンボル」そして「観光の中心スポット」になっていました。
しかし、平成21年に吉野梅郷地区でウメ輪紋ウィルス(PPV)が発見されて以来、多くの梅樹が伐採されてきました。
感染拡大の防除と梅の里の早期復興のため、平成26年5月には全ての梅樹が伐採されました。
現在、園内には菜の花や福寿草、日本スイセン、ツツジ等が植栽されていると云う。

    

公園入り口に、僅かの蝋梅が迎えてくれた。

    

多摩川を下ります。