syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

暖かい節分 天沼八幡神社

2016-02-04 | syu散歩
荻窪、天沼八幡神社近くの公園

天沼弁天池公園


節分の豆まきがあると云う、時間が早く残念でした。舞殿に準備された様子

天沼八幡神社の由緒は、「新編式蔵風土記」によれば、創建が天正年間ということになっており、今から約400年前のこととなります。
天正年間といえば、戦国時代もやっと終わりに近ずき、本能寺の変後、秀吉により天下統一が行われた時期です。
この頃、この関東は小田原北条氏が秀吉に滅ぼされ、家康がこの地に移封され、江戸を中心として、関八州を支配下におくようになりました。

八幡社は、古くから源氏の氏神として尊敬をあつめ、杉並区内にも八幡社が多く、中には由緒深い神社がある。
天沼八幡神社は、天正年間の創建、家康が江戸に入城してから、この辺りもやっと開拓の緒についたものと考えられ、この地の農民は自分達の団結と作物の豊作を祈念するための氏神の奉斉を考え、徳川家が源氏の出ということから、鎌倉の鶴岡八幡宮の御神体を勤請して神社を創建したとある。

天沼地帯は、徳川家の氏神である赤坂日枝神社の社領として社寺奉行の支配下にあったと思われ、当社の末社にも日枝神社を奉斉していると云う。




我が家の豆まき


節分とは、「季節を分ける」ことを意味し、本来は立春、立夏、立秋、立冬の前日のことをいい、しかし旧暦では、立春が年の始まりにあたることから、いつのころからか節分といえば、立春の前日をさすように。
立春を新年と考えれば、節分は大晦日。
節分の日に邪気を祓い、新年を幸多き年として迎えられるようにという意味を込めています。

せめて恵方巻きを食べ新しい年に禍の無いよう祈りました。


次回、多摩川散歩へもどります。

二俣尾 桃の里 吉川英治記念館 多摩川散歩(18) 

2016-02-03 | 気まま旅
「辛垣城」(別名ー西城)・城郭構造ー連郭式山城・天守なし。
築城主ー「三田綱秀」・築城年は永禄年間の1558〜1570の初期、(廃城年1561〜1563)遺構ー空堀、土塁。

三田氏により築かれた山城。
上杉謙信の関東侵攻後後北条氏を離れ上杉方に付いた三田氏がその峻険な地形を頼んで拠り、

名族三田氏の終焉の地となった。
永禄年間初期、三田綱秀によって築かれた。ただし、永禄年間以前より存在したという説もある。
永禄3年の1560年、上杉謙信関東出兵後、城主の綱秀は後北条氏を離れ上杉方に付いた。1561年、上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が勝沼城から
居を移し、1561〜1563年頃、北条氏照に攻められ落城した。
雷電山から延びる尾根上に聳える、独立性の高い円錐形様の辛垣山山頂付近に郭を重ねる。
北方を除く三方の尾根上には郭が認められ、特に南に延びる尾根上には馬洗い場と呼ばれる比較的大きな郭が設けられていると云う。
登山口は、愛宕神社から愛宕山へ。

  

「海禅寺」ー曹洞宗の寺ー
二俣尾駅の北東、重厚な山門にクスノキ(市指定天然記念物)の大木が生い茂る寺。
寛正年間の1460~1466年、開山と伝わる古刹。
中世この地を支配していた三田氏の菩提寺
三田氏が滅ぼされた際、兵火で灰燼かいじんに帰したといわれ、天正3年の1575年、正親町おおぎまち天皇より勅願所に列せられ、江戸時代寺領15石の朱印状を拝領し、末寺42院を持つほどに栄えたという。
この海禅寺の入り口は、青梅線を隔てた青梅街道沿いの総門。
この門は、慶長17年の1612年、建立といわれる最古の建物で、昭和43年に市の有形文化財に指定。
一間一戸の四脚門で、屋根は 切妻造きりづまづくり、茅葺かやぶき型銅板葺。
総門は数々の変遷で現在の場所にあり、大正9年、青梅鉄道が二俣尾まで延びた際、線路が参道をまたぎ本堂と分断され、その後昭和9年、
青梅街道拡幅のため5m程北寄りに移されている。
昭和59年、寺出火の際は、この門が消火活動に支障をきたし、総門を通る参道が市道に編入されたこともあり、平成7~8年に行われた解体修理の際に
参道西側の現在の場所に移されたと云う。

かつてこの地「桃の名所」
総門の前に、室町時代の歌人・三条西実隆・三条西実隆・根岸典則「桃の花」を詠んだ碑が。
    

戦国時代、1563年、「辛垣の合戦」
辛垣城主三田綱秀は、滝山城主北条氏照率いるの軍勢に敗北。辛垣城は炎に包まれまれ、「海禅寺」にも火の手が及んでいる。
三田綱秀は落ちた辛垣城から脱出。岩槻(埼玉県)まで逃れ、自刃して尽きたと云う。
この時すでに74歳の老いの身、後に、家来がその首を持ち帰って埋めたとされる「首塚」が、海禅寺に残されている。

        

「クスノキ」(市指定天然記念物)
まひるまの嵐 吹きみだる 樟わか葉 明るき影を ふりしきらせりー古泉千樫ー
青葉が美しい季節です。 風にゆさぶられる雑木たちの葉にはまばゆいばかりの美しさがありますが、これらの木々の葉が深緑になる、
この時季に今度は常緑樹たちの新旧の葉が入れ替わる。
クスノキ、カシ、シイなどが新しい葉を広げますが、「楠若葉」という言葉もあるように、クスノキの新葉がいちばん美しい、寺のクスノキ(市指定天然記念物)も多摩川を隔 へだてた柚木ゆぎ方面から遠望しても、それがわかるほどに巨木全体が輝いて見える、、、。
クスノキは暖地系だんちけいの高木で、西日本には各地に巨木、名木が、西関東の内陸地にこれだけの大きなものがあるのは珍しい。

山門の西側、三田氏の墓の下にある2本のうち、向かって左側の木は幹周り2.9m、樹高は測定不可、右側の木が幹周1.7m、樹高約18mと云う。
他の1本は庭にあって幹周が3.4m、樹高が約27m・ 暖地系の木々は冬の厳しい冷え込み以上に寒い季節風にさらされるのを嫌うと云うが。
                       本堂


海禅寺は、瑞龍山と号し、本尊ー釈迦如来。
室町時代の1460~1465年、群馬県白井・雙林寺、第2世の「一州正伊」を開祖。その後、この地方を支配していた豪族の三田氏の厚い保護を受ける。
1560年代、辛垣城落城の際の兵火で、諸堂はことごとく焼失し、1590年、第7世、天江東岳により再建。
江戸時代にも再建と焼失をくり返し、寺の構造は、多摩地方山岳部の中世禅宗伽藍の典型として建築史上貴重。
境域は、昭和60年、都史跡に指定。

    

「奥多摩橋」
橋は、水面から高さ33m、橋長176mの雄大なブレースドリブアーチ橋で、側径間は、都内では珍しい魚腹トラス。
戦前の道路用鋼アーチ橋としては、最大スパン(108m)であり、アーチライズの大きい優美な橋梁である。

            平成21年11月に近代土木遺産の中から選定。
    

「愛宕神社」
三田氏の「辛垣城」の鎮護とされた旧社。
本社は、愛宕山の頂上にある。
神社の境内にはサクラとツツジが多く、別名「ツツジが丘」とも呼ばれている。

                    愛宕山登山道口
    

                 長い石段を登ると本殿・拝殿


「吉川英治」明治25年ー昭和37年 小説家
大正10ー1921年、 講談社の懸賞小説に「でこぼこ花瓶」「馬に狐を乗せ物語」他が当選・大正11ー 東京毎夕新聞社入社・社命により初めての新聞小説「親鸞記」を連載。大正12ー結婚。関東大震災に被災。それを転機として文学に専心する決意。大正13ー 複数の筆名で講談社の諸雑誌に「剣魔侠菩薩」
大正14ー 講談社から新創刊「キング」に初めて「吉川英治」の筆名で「剣難女難」を連載。 他に「神州天馬侠」(少年倶楽部)。
大正15ー大阪毎日新聞、「鳴門秘帖」を連載、昭和2ー「江戸三国志」・「梅颸の杖」(文藝春秋オール読物号)
昭和9ー「恋山彦」(キング)「親鸞」(名古屋新聞他)「松のや露八」(サンデー毎日)昭和10ー日本青年文化協会》を設立。赤坂区表町に転居。
「宮本武蔵」(朝日新聞)「新編忠臣蔵」(日の出)。「吉野太夫」(週刊朝日)昭和13ーペン部隊で菊池寛らとともに揚子江溯江作戦に従軍。
昭和14ー「新書太閤記」(読売新聞)「三国志」(中外商業新報他)・朝日新聞特派員として日本占領下の南方圏を一巡。「上杉謙信」(週刊朝日)
昭和19ー吉野村(現青梅市)へ疎開。4月、急性肺炎に倒れる。
昭和20終戦ーその日から2年にわたり筆を絶つ。昭和25ー『週刊朝日』に「新・平家物語」連載開始。・以後7年にわたりその執筆に専念する。
昭和28ー菊池寛賞を受賞・青梅から品川区北品川に転居。昭和31ー朝日文化賞受賞。「The Heike Story」(「新・平家物語」英訳)が刊行。
昭和32ー徳川夢声らとともに昭和天皇と懇談・渋谷区松涛に転居。昭和33ー毎日新聞に「私本太平記」連載開始。
昭和35ー文化勲章を受章。昭和36ー健康が悪化、『日本』に連載中の「新・水滸伝」を中断して入院、肺癌摘出。これが絶筆となる。
昭和37ー毎日芸術大賞受賞。この賞金を基金に吉川英治賞を創設。ー享年70歳没。
昭和52ー 3月、吉川英治記念館開館。

    

「吉野・吉川英治記念館」
「宮本武蔵」「私本太平記」など、歴史小説で大衆に親しまれた作家。
戦時中に家族と共に東京赤坂からこの地へ疎開し、約10年間住んだことをきっかけに、亡くなったあと記念館が建てられた。
記念館には作品の原稿、それらの掲載雑誌、初版本などの刊行図書、取材ノート、挿し絵原画、書画を展示。
今も多くの人を魅了、静かな山里で源平の争乱に想いを馳せて、吉川文学に。
吉野村を去るというときには、なんと300人もの人々が「お別れの会」に集まったと云う。
梅が好きで、記念館の庭には多くの梅の木がある。

                       入館有料
    

「愛宕山ー即清寺」
真言宗豊山派・本 尊ー不空羂索明王(真言ーおんはんどまたらあぼきゃじゃやでいしゅろしゅろそわか)

                関東88ヶ所霊場ー第71番
    

寺伝では、平安時代のはじめ智証大師円珍が、諸国巡錫のおりに、堂山と呼ばれる現在の奥ノ院大師堂の辺りに、本尊、不空羂索明王像を刻んで
草堂を結んだのが始まりとされている。
本尊は三面四臂の憤怒形で、不空羂索観音の慈悲と明王の諸魔降伏の力を併せ持つとされる。  
その後、鎌倉時代に源頼朝が畠山重忠に命じて、現在地に伽藍を造営して、元瑜僧正を招いて開山したとある。

    

室町期には高野山無量光院住持を勤めた印融法印により中興され、真言道場として栄えた。
仙保隠遁抄第一巻はその時の著作といわれる。
明治31年,火災で建物はすべて焼失したが、庫裡客殿、本堂、山門と再建され現在にいたる。
本尊をはじめ仏像は被災を免れ、本堂内には百観音と呼ばれる享保年間造立の百体の観音像が祀られている。
大日如来を中心に花鳥風月をちりばめた天井画は平成の作であるが、西洋画家二人と日本画家一人の合作という珍しいものである。

山門は二天門の形式で、鎧に身を固めた多聞天、持国天が安置されている。
    

「境内」
慶応年間開創の四国八十八箇所寫しの霊場があり、規模、歴史の古さともに随一のもの。
山王権現社は安土桃山時代の造立とされ、小堂ながら当山で最も古い建物でもあり、神仏習合の名残を伝える貴重なもの。

 白モクレンの大木・蝋梅、梅、桜のほか、カタクリやイカリソウなど、四季折々の花々が


「源頼朝」1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍ー相模川の橋供養の帰途落馬して死亡説・暗殺説がある。
「畠山重忠」1164-1205武蔵国秩父一族で鎌倉武士、武将・頼朝上洛で先陣。
「北条氏照」1540-1590 氏康(小田原北条三代目)の三男・兄氏政ー八王子城主。

位牌堂には源頼朝・畠山重忠・北條 氏照の位牌があるというから、歴史の重みを。


多摩川を下ります。

さわい駅 澤ノ井(多摩川散歩17)

2016-02-01 | 気まま旅

「朝倉文夫」昭和20年3月~翌年まで、平溝(二俣尾5丁目)の高源寺などに家族と一緒に疎開。
-明治16年、大分県に生まれ、明治40年、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業。
明治41年、文展に出品した「闇」以来連続受賞し、写実的作風で官展界に重きをなした肖像彫刻の第一人者。

永く母校の授業を務め、芸術院会員にもなり、昭和23年・81歳で没す。
多摩川に沿って、沢井駅の下にある「楓橋」から上流の「神路橋」までが御岳渓谷。
御岳渓谷の水は、環境庁の「日本名水百選」に選ばれました。いつ訪れても山水の美が満喫できるところ。
毎年5月中旬・「関東渓流カヌー大会」が開かれる。

「北原白秋」1885-1942 詩・歌人 福岡生まれ
大正12年3月に青梅を訪れ、御岳山に登り、その帰途に酒造に立ち寄り、長歌の一篇として”造り酒屋”の歌を詠じている。
「歌碑には、長歌の反歌「大御代の多摩の酒屋の門櫓 酒の香 さびて名も古りにけり 西多摩の山の 酒屋の鉾杉は
            三もと五もと青き鉾杉」のうちの後半が刻まれている。碑は、昭和42、酒造の庭に建てられている。
            詩人の野田宇太郎ー鉾スギの形に似た自然石を選んでいると云う。

「さわい駅」昭和4年、 青梅電気鉄道 御嶽駅と同時に開業・貨物の取扱を開始、国鉄青梅線の駅となる。
      昭和62年、国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道の駅で現在に。
    

「如意」とは意のままに智慧や財宝、福徳もたらす如意宝珠という宝の珠のことであり、
「 輪」は煩悩を打ち砕く法輪を指している。
その二つを手に持った観音菩薩ということで 如意輪観音という。(六観音の一つに数えられ、天界道に迷う人々を救う)

                  曹洞宗の寺ー運慶院
    

                   駅前にある寺(境内)
    

                    運慶院本堂


                   「日本酒ー澤の井」
江戸と甲州を結んだ青梅街道の宿場町として発展。
蔵のある市の西側から先の奥多摩には、深山峡谷の豊かな自然が広がり、清らかな水が豊かに湧き、わさび栽培も盛んな地域。
蔵の裏にも「岩清水」が渾々と湧き出で、仕込み水として使われていると云う。
眼下を流れる多摩川の清流には沢蟹が遊び、近くには2万5千本の梅が咲き乱れる吉野梅郷も近い。
奥には、雲取山を始めとする100近くの山々が峰を連ね、散策やハイキング、登山に多くの人々が訪れ、北原白秋もその一人と云う。



「小澤酒造ー銘柄・澤の井」
創業ー元禄15年の1702年、蔵元当主の祖先はもともと甲斐・武田家に繋がり、甲州から武州澤井村に移り住んだ一族だという。
1573年に武田信玄が没した後、家臣の中には「武田家再興のため身をかくし、後日に備えん」と軍資金を持って甲州を去る者もありましたが、
徳川家康が我が子・信吉に武田家を継がせ、永住地を澤井の里と定めた一族の末裔が、蔵元当主の小澤家。
家紋が井桁に武田菱となっているのも、こうした由緒にもとづくもの。
小澤家は軍資金をもとに植林を始め、元禄年間の1688~1704年、酒造りもを。酒銘は「澤井」という地名にちなんで命名。
以来、約300年にわたって奥多摩の地酒として親しまれている。

    

「直営の豆腐料理・ままごと屋」
多摩川の畔にたたずむままごと屋。
うつろう季節とともに素朴でやさしい豆腐・ゆば料理が。
豆腐・ゆばは、澤乃井の仕込水と、厳選された国産大豆と、こだわりの料理。
蔵出し特選銘酒と合わせてご堪能出来るのが嬉しい。

    

人道吊り橋「楓橋」 昭和53年建・長さ80m・巾2m・水面からの高さ15m。
「ままごと屋」から寒山寺下へ。
                   二代目楓橋
    

「大日本寒山寺」
多摩川に架かる「楓橋」を渡ってすぐに、鐘楼の近く、「大日本寒山寺」が、(正式名称)
「寒山寺」は、中国の蘇州にある寒山寺にちなんだ名前で、
書家の「田口米舫」が中国の蘇州にある寒山寺を訪れた際、蘇州の寒山寺から仏像を寄贈され、その仏像を安置するために建立。
中国蘇州・寒山寺の和尚さんが、2~3年に一度 参拝に訪れると云う。

階段の上に小さいが「お堂」が建っている。立派な格天井がある。
楓橋から見る多摩川の風景も素晴らしい。

    

「カヌー」
関東ブロック大会の競技種目ーカヌー競技会が、5月開催される。

    

多摩川を下っていきます。

「日本酒の話」ー酒造好適米ー
ササニシキ・コシヒカリの飯用米、食べておいしい米は酒造りによいとは必ずしもよいとは云えません。
酒造りには、精米しますので、堅く大粒で心白が多い米をを好みます。蒸米にして「ふっくら」と弾力のある米が良いのです。
粗蛋白や粗脂肪が好適枚には少ない。
酒では、精米部分平均70%ぐらいにし、出来る限り米の中心部にします。吟醸酒などの少量の場合は「手洗い」します。
吸水率は、白米100kgで平均吸水後125kg~130kg・後水切りをし蒸し器に。
好適米ー五百万石・たかね錦・山田錦・フクノハナ・雄町・玉栄、、、、、20種以上。価格も飯米より高くなります。