syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

那須戦争博物館 2

2017-10-02 | 四季折々 syuのふた旅
「自分史」から
・・・・疲れきった兵隊引揚者も次から次と東京を目指して集り、東京に行けば何とかなるという人々の街になった。
上野の森では、戦場で傷を負い、白い病衣姿の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな曲を奏でていた。
目が見えず、片脚片腕がない、。道行く人々に頭を下げ、胸につるした箱の中に僅かな同情の寄付を集めて、電車の中にも現れた。
敗戦の日本・誇りを失い惨めな、みずぼらしい姿……。彼らが本当にかつて勇敢な日本兵だったのかと子供心に信じがたかった。
日本の武士道と、日本軍人の誇りは何処に?
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命のときと声高だかに活動しだした……。
かつての静かで落ち着いた雰囲気のよき東京にはもう永久に戻らないのだろうことを、7歳の少年の肌で感じ取るほどに私の古里は荒れた。

私が小学校3年の春頃であったと思う、駒込・上野の山の高台に、大きな穴があった。
その穴の上には、テントが張られ中は見えないようにされていたが好奇心から中に入って見てしまった。
2・3人の男たちがトラックから死体を木のレール(氷を滑らすようなレール)の上に、餓死した死体を1体,1体、竹竿の先にひつかけて移し、さらにそれを滑らせ、まるで荷物を扱うように大きな穴の中に放り込んでいるではないか。
見てはならない恐ろしくもおぞましい風景だった。
ほんとに驚いた。
あのような状況を知っているものが果たしてこの世に何人いるだろう。
地下鉄東西線の工事のとき、現場に人骨が発見されたと新聞に報道されたが、東京の地には、このように今でも数知れない骨が埋まっているに違いない。
昭和20年11月18日付の新聞で、
行き倒れ6人、1日平均2・5人が餓死、累計で150人とある。
日比谷音楽堂では、餓死対策国民大会を開いている。東京の焼け野原の空き地には、肥いだめを作り、糞尿などを肥料とし、所狭しとサツマイモかぼちゃを育て飢えを凌ごうとしたが、出来るまで月日が必要、やせた土地では計画のようにうまくいかなかったようである・・・・・・。









                17歳の特攻部隊・出陣前の一時(子犬が)


               絵ー特攻隊を見送る地元女学生(すべて後ろ姿、顔は涙で)












日本交戦国の小銃が展示

     米・ガ-ランド自動銃・カービン・ソ連製マンドリン自動銃・中国の共産軍小銃・地雷などが








昭和20年8.15国民に天皇戦争終結の玉音放送・米艦ミズーリ号艦上降伏文書調印ー内閣鈴木貫太郎・東久邇稔彦・幣原喜重郎(外交官)
GHQ-新聞検閲開始・第一次農地改革小作地の強制譲渡・リンゴの歌。