syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

伊東 楽しい七福神と湯川神社

2018-03-23 | 気まま旅
「伊東温泉七福神の湯」
七福神の湯の入り口に石像が祀っている。単純泉、弱食塩水で、神経痛・リュウマチなどの効能
1)湯川弁天の湯 湯川 2)松原大黒天の湯 松原本町 3)和田寿老人の湯 竹ノ内 4)毘沙門天ノ湯 芝町 5)岡布袋の湯 桜木町 
6)蒲田福禄寿 宮川町 7)恵比寿あらいの湯 新井町。

「伊東七福神」
恵比寿神 新井神社ー大漁伊東湾・ 毘沙門天王 仏規寺ー天狗、厄除け・ 寿老神 最誓寺ー伊東家の墓樹齢600年の大ソテツ・
大黒天神 朝光寺ー鎌倉時代創建高台・ 弁財天 松月院ー富貴と開運、桜寺・ 布袋尊 東林寺ー曽我物語五郎十郎首塚・
福禄寿 林泉寺ーフジ県指定文化財

「伊東公園」
JR伊東駅の裏に、駅から北西へ150m、徒歩約10分。
戦前には李王家の別荘があった小高い丘のある公園、2月の初旬から寒桜が咲き始め、春には3,000株の鮮やかなピンク色の芝桜。
遊歩道を頂上までいくと、伊東市街を一望に見わたせる場所に郷士の生んだ偉大な文学者「木下杢太郎」の文学碑が建っている。

(谷口吉郎工学博士の設計による五双と三双の二つの屏風型をした風格ある石碑には、杢太郎の「むかしの仲間」(すかんぽ)の詩が)。



遊具のある園内は小さいが裏山の散歩道が整備され、伊東の町と海が一望


開園昭和30年・面積 0.90Hã(JR伊東駅ホームから見える)




                    「木下杢太郎」の文学碑


                           展望




「湯川神社」- 祭神  武甕槌命(相殿)菅原道真。

(鹿島神社)は茨城県・鹿嶋神宮の神霊を分祀したものと伝承れ、古くは湯川字宮元に鎮座。御祭神・武甕槌命は神代の昔、天孫降臨に先立ち天照皇大神の命を受け、経津主命・(茨城県香取神宮御祭神)と共に[国譲り]に貢献した武の神として信仰篤い。

(菅原神社)は、往古天神社と称してこの森に祀られ、御祭神菅原道真は、文教の祖神・天満大自在天神として崇められ両社の合祀により、武の神と学問の神とを鎮守の神々として尊崇するに至った。
                          鳥居


                       長い階段を登る。


                          社殿


                   社殿正面に鹿島・菅原神社の札が


                        伊東の鬼瓦(鬼瓦は、地域で特徴が)


                   「万霊魂祭塔」豊かな自然に感謝を


                            石塔


「松月院」 伊東七福神の弁財天の寺
                         高台で伊東が一望できる。


                         桜寺とも呼ばれている。


創建は、1183年の古寺。
「銀秀」によって開かれたのが始まりとされ、真言宗の寺院で松原村にあり、1607年、宗銀大和尚により曹洞宗に改宗された。
寛文6年の1666年、洪水により大破、1706年、亀丹大和尚により現在地に。
境内に祀られている弁財天像(伊東七福神)は貞享2年の1685年、村人が怪しく光る地面を掘り起こして発見したもので、その地からは温泉が滾々と湧き出た事から弁天の湯と呼ばれている。



弁才天に願をかけ御百度参りをした「お光(中伊豆冷川にあった東向寺檀家平井信友の娘)」は念願成就し国津藩主藤堂高久の側室となり、4代藩主となる藤堂高睦を産んだと伝えられている。

数多くの文人墨客が訪れ、山本六丁子の句碑「 人と生れ 日本に生れ 月と華 」や雨海の筆塚が建立され、
木下杢太郎(伊東市出身の文学者)の実家である太田家の菩薩寺。




                      境内からの眺望は、素晴らしい。


伊東から伊豆高原へ。

自然がいっぱい 伊東丸山公園

2018-03-20 | 気まま旅

市街地の自然公園「丸山公園」 JR伊東駅から南西へ850m、徒歩約20分。

小沢川のせせらぎと自然林いっぱいの「水と緑」の公園で、6月上旬にはホタル観賞会が開かれ、ゲンジボタルが幻想的に舞う姿が、早春には梅を、春には桜、初夏の花菖蒲、秋には紅葉と四季の移り変わりを感じることのできる公園。

伊東の夜景



伊東 丸山公園 開園は、昭和48年・面積 7.50㏊ 2月中旬の公園内

































独特な建物 伊東市役所

2018-03-17 | 気まま旅
平安・鎌倉時代
工藤氏の一族「工藤祐隆」家次)は、「伊豆国の大見・宇佐見・伊東」からなる久須見荘を所領。
出家し法名を寂心、久須美入道(久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家の代わりに、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子とし
伊東荘を与えて「祐継」と名乗らせた。
一方、早世した祐家の子・祐親を次男として河津荘を譲り、「河津氏」を名乗った。
曽我物語ー祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本ーでは、祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
                      伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)


                          伊東祐親像




「源頼朝は」
1159年、平治の乱で父・義朝が敗死した事により、14歳で伊豆へ流罪、「伊東祐親」は、在地豪族としてその監視の任にあたっていた。
祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。
安元元年の1175年夏、千鶴が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、
次男の伊東祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。
のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる。(嫡男祐泰は河津、遺児が曽我兄弟)



新派和歌運動の一翼を担った
尾上柴舟(1876-1957)は、伊豆を訪れ、特に伊東との縁は深かった。
昭和初期には別荘をかまえ長期滞在した。

碑に刻まれた歌ー明治43年「創作」に「天城野火」として発表した中の一首。大正2年刊の歌集「日記の端より」の冒頭に、

      「つけすてし野火のけぶりのあかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき」碑文




                   伊豆急の伊東トンネルが


「相模国」ー東海道に属し旧国名を「相州」とも云う。当時の東海道は三浦半島から千葉県房総半島へと続き、
行政の中心は、国府(小田原・海老名)など諸説あり。
10~11世紀は、争乱で、各地の有力の開発領主が成長し、1192年征夷大将軍「源頼朝」が開いた鎌倉幕府の有力御家人の直轄地とされていった。
その後、「関東管領を鎌倉」に置いた。1495年、北条氏が小田原を拠点に関東を支配した。



「相模灘」は、深さ1500mを超える「相模トラフ・舟状海盆)が連続し国府津・松田断層へ。地震活動は活発で1923年の関東大震災で北東の隆起と南西部は沈降した。が、大陸棚が発達し黒潮の分流が流れ込むので、カツオ・ブリ・マグロなどの好漁場である。
また入江が多い。早川、境川、酒匂川で砂浜海岸を。
            乙女の像







塩の古道 秋葉道と宇佐美海岸

2018-03-17 | 気まま旅
ー熱海ー来宮ー伊豆多賀ー網代ー「宇佐美」ー伊東(伊東線)伊東ー伊豆高原・・下田(伊豆急行)
無人駅「宇佐美駅」下車。
静岡県伊東市宇佐美・県の南東で市の北端、元田方郡宇佐美村。
海岸寄りに、国道135号線・海水浴場・住宅が密集、西の山側はミカン畑・江戸時代から、西に石など荷物の積み出し港と漁港と「秋葉道、中核的宿場」
で賑わった。
奈良・平安・室町時代まで「伊東祐隆(平家方)・後妻・娘(源氏)」娘方の三男「城主・宇佐美祐茂」の城下町。

伊東氏・伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっていた。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となり、宇佐美祐茂は、1180年の「石橋山合戦」から、源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられている。
室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従って、上杉憲顕は、後に「初代関東管領」となる。
越後・上野・武蔵・安房の守護となり、この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出した。
宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようで、伊勢新九郎(北条早雲)は、1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出・この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承が残っている。
追放された茶々丸は、失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従い、工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っている。
しかし、1495年には、伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落、(この間の宇佐美氏の動向は不明)

「宇佐美城」近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代まで・(この頃に宇佐美氏は当地を離れたと思われる)
後北条氏時代の宇佐美城は、主を失った城で、その後は、城番が置かれていたと云う。
残念ながら城跡に大学の寮が築かれた。堀や土塁などが良好に残っていたと云う。

                宇佐美海岸 正面に伊東の手石島が見える(熱海~伊東間)


             国道135号線に出る手前に、一里塚の巨樹の松が,(樹齢450年)


「秋葉信仰」
秋葉寺ー(しょうようじ)と読む、
昔の武将たちは、戦勝祈願・刀剣などを奉納するための旅に出ている。その目印が、常夜灯や一里塚を目指して旅に、
宇佐美は、その中核的な宿場と云う。海岸公園内に当時の常夜灯が残っている。

         秋葉道は、生活・政治・経済・文化の交易の道であった。


「塩の古道・秋葉、鳳来寺道」
江戸時代後期には、道者の通る街道が固定化したようで、掛川〜森〜三倉〜坂下〜秋葉山へ通じる街道は
「日傘で道に日が当たらぬ程の往来があったといい、俗謡に「森の横町なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」と伝えられている。
道標や常夜灯は、いたる所に置かれ、これを目じるしにして旅人が通過していった。
本宮山越えの秋葉道は険しい山が続いたので難儀をしたことが、高山彦九郎の日記「甲午春旅」に記されている。

                 秋葉寺は、守護神、三尺坊大観現、火防の神。


遠信古道・秋葉街道で運ばれていたなが重要な産物の一つに「塩」。
海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」があり、南塩ルート・遠州からの遠信古道、三河からの中馬街道の二つがあり、中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代と云う。
遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いて、南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことが。
昭和17年まで、「秋葉寺の火祭り」の際には湯立て神楽が行われ、その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っていると云う。
                    烏川橋(川は、山城の掘りの役割を)


                    烏川を正面にした「山城ー宇佐美城跡」


                         入山口が判らず。


                   烏川を利用した地形の山城であったと思われる。


                    森を囲んだように県道が、車多し。


              宇佐美は、下田方面と亀石峠・韮山方面の分岐点になる。




     海岸に「森米城句碑」あり、宇佐美出身 「とも尻の 梅へ出船の 大たき火」(門下生一同とある)






               江戸城石丁場があった。(折敷三文字の刻印)


          「烏川」流域は2.3kmの2級河川であるが上流は火山性の安山岩質で急勾配。




熱海 走り湯と桜(2月中旬)

2018-03-12 | 気まま旅
熱海温泉は、泉質・塩化物泉、硫酸塩泉・効能 婦人病、高血圧、動脈硬化などで、源泉500本以上、総湧出量約1万8000L/分と有数の温泉量を誇る。
昭和初期までは大部分が硫酸塩泉であったが、過剰揚水などで海水が広範囲に浸入して塩化物泉の分布が広がったといわれている。
現在でも内陸部を中心に硫酸塩泉の温泉も多く、そのほかにも単純温泉、アルカリ性単純温泉など、多くの温泉地を抱える県内でも最も多くの分析件数を誇っていると云う。

「伊豆山」は、標高ー170mで、地層名も伊豆山(デイサイト)・溶岩流・流紋岩で約30万年前と若いと推定されている。


「伊豆小笠原」(珪長質火山活動)
硫黄島・八丈島・大島~新島・天城・伊豆東部伊東、宇佐美、熱海伊豆山、湯河原・富士山・箱根・丹沢・下田から日光海山・・の広範囲である。

                       階段から見た相模湾


                         老木の桜並木


「JR東海道本線」
湯河原駅ー熱海駅の間に伊豆山が。
熱海駅は、1925年の大正14年、開業。
当初は、国府津駅ー小田原ー熱海線の終着駅。
1934年(昭和9年)、熱海 - 沼津間が開業、東海道本線の中間駅に。
伊東線は、翌年、乗り入れている。
東海道新幹線の「熱海駅」は、新幹線が開業した1964年(昭和39年)。
1987年、路線は、日本国有鉄道(国鉄)。
国鉄分割民営化で、JR東日本とJR東海の駅に。
「東海道本線」-小田原 - 熱海 - 三島の山岳地帯にトンネルを開削する技術がなかったこともあり、後の御殿場線ルートで建設された。
そのルートから外れた小田原・熱海では、国府津駅より小田原電気鉄道という路面電車で小田原市街へ、さらに豆相人車鉄道→熱海鉄道→大日本軌道→熱海軌道組合の人車軌道・軽便鉄道により熱海まで連絡。
その後、御殿場経由は急勾配が存在し輸送力増強の障壁になることや、トンネル掘削の技術が進展したことなどから、当初見送られた熱海経由での路線整備が決定する。
1925年の大正14年、熱海線として、熱海駅まで鉄道路線が開業して路面電車や軽便鉄道は全廃。
1934年の昭和9年、丹那トンネルが開通すると熱海線は東海道本線となった。

                   階段の下をJR東海道本線が


1923年の9月「根府川駅列車転落事故」が、(当時は、東京から真鶴まで開通していた)。
1923年「関東大震災が、その7年後に伊豆地震が」丹那断層の難工事、丹那トンネルが完成し、熱海の今が。


                 
                 市営浴場(国道135号線の下)


                      走り湯神社


               小さな「走り湯神社」は、起点から16段め

           


           伊豆神社参道階段の起点は、海岸沿いの専用車道から




                  走り湯の源泉洞窟


                 熱海桜は見頃に(2月中旬)




伊豆山神社の参道は,
階段,出発地点の相模湾・伊豆山浜から本殿に到着するまで「837段」。
(現在、車でなら階段を登らずに本殿まで行くことが可能です。)
伊豆山浜の参道に、日本でも珍しい横穴式源泉「走り湯」がある。
古来より伊豆山神社の神湯として信仰され、発見は約1200年前、奈良時代の養老年間の717年~724年。
(日本三大古泉の一つ