syuの日記・気まま旅

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歴史ある沼津海岸 沼津御用邸付近 

2018-09-16 | 気まま旅
沼津に戻ります。

伊豆半島の西付け根、東部中心都市・中世沼津郷、政治・経済地域、駿河湾北東部を抱き込、沼津町・楊原村・片浜・金岡・大岡・静南・愛鷹・大平
内浦・西浦ー北に「愛鷹山」「狩野川で二分」、先土器・縄文土器の遺跡が多く、弥生土器時代は水稲耕作がい営まれている。
鎌倉時代から東海道の要衝、戦国時代には武将らの争奪の舞台ー「武田勝頼」は、狩野川河口に「三枚橋城」を築城、江戸時代に、水野藩が支配下とし
城下町・宿場町として発展し、「沼津市」は、静岡県東部の中心、大政奉還後 1867年、「沼津兵学校」が開設、近代都市の基礎が築かれた。

「長浜」は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられたと云う。
「長浜城跡」は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山の城。戦国時代、豪族大川氏の居城。
また、「重須」は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」・この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、「重須」と記され、「北条水軍」の根拠地で船大将「梶原氏の陣所」と云う。
田久留輪や城下の地名が残っているいるとも云う。
1580年、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたとある。

「梶原景宗」- もとは紀伊の海賊と言われ、北条氏康が、自軍の水軍を強化するために招いた。北条水軍は領国への海上侵犯や小田原城への攻撃を
防ぐことを役割としており、2度にわたる安房・里見水軍の襲撃を阻止した。また、武田水軍とも駿河湾で海戦を交えたといわれる。

長浜城、伊豆国君沢郡長浜(静岡県沼津市内浦重須)にある。戦国時代の海賊城の遺構を多く残している。
    

「北条氏直」 1562-91 5代目城主ー小田原城主ー北条100年王国の幕引ー
北条氏政の長男、本能寺の変後、上野国にいた「織田信長重臣・滝川一益」を撃破して信濃国へ攻め入る。小県・佐久郡占領する。
甲斐の国をめぐり徳川家康と争うが講和している。家康の娘「督姫」を娶る。「名胡桃城」を攻撃した為、豊臣秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
妻と別れる時にお守りを渡し北条早雲が小田原城を奪った際の、武運を祈って食べた勝栗の半分を錦袋に納めた物、代々伝わる秘蔵の品だったと云う。
ー一族から世に出る者があれば渡してほしいー頼んだと云う。氏直は、復活をあきらめていなかったと云う。
秀吉から1万石を賜り大坂で30歳で没している。

    

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年、頃、北条水軍の基地として改修し、
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなった。
1580年(天正8年)には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
1590年(天正18年)、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。

国の史跡に指定、
市教育委員会による発掘調査・史跡整備が行われ、史跡公園。
城址の各所に解説版が設置されている。

  

総面積は、15476㎡・城郭の中で最も高い場所の「第一曲輪」は標高約33m。
海側からの攻撃を想定しておらず、敵の銃撃をよける「土塁」は陸側にしかないのが大きな特徴と云う。
全国的にもこの形の城はあまりないとも云われている。

1550年代の戦国武将の勢力図は、関東や伊豆を北条氏、駿河は今川氏、甲斐が武田氏。3氏に囲まれた「緩衝地帯」が

                  現在の沼津市のあたりだった。
  

駿河を手中にした武田氏が狩野川沿い に三枚橋城(沼津城)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が 1579に、
    


「駿河湾海戦」
武田氏の沼津三枚橋城と北条氏の沼津長浜城が整備された翌年、駿河湾内で海戦が行われた。
北条・武田両氏水軍は、天正8年の1580年、ついに両者の間に駿河湾を舞台に大規模な海戦が。
3月15日のまだ夜が明けきらない頃、武田方の軍船5艘による奇襲から戦いは始まり、鉄砲が飛び交う激戦を繰り広げた。
戦いは日没をむかえても決着はつかず、引き分けに終わったと云う。
北条方には「安宅」と呼ばれる50丁櫓の大型軍船があり、武田方は大分苦戦、4月25日に武田勝頼が武田水軍の小浜景隆・向井兵庫助に対して
「伊豆沿岸の郷村を数か所撃破したうえに、敵船を奪った」ことを称えている。
翌年3月29日に起こった沼津市久料(伊豆久龍津)での海戦においても武田水軍が「敵船3艘を乗り沈め、凶徒数十人を討ち捕えた」との記述があることから、3月の開戦後しばらくは武田水軍が優勢だったと思える。

織田・徳川連合軍が武田攻略作戦を進めると、これに呼応した北条軍も河東地域一帯から武田軍を追いやることに成功しているが。
武田軍は、この後盛り返すことはできず、滅亡へと進んでいく。

天正18年の1590年、
豊臣秀吉の小田原攻めに際し、長浜城は再び緊張状態におかれ、北条方水軍は、初めは豊臣水軍の来襲に備え下田城に集結しますが、評定の結果
籠城策と決まったため、小田原の川岸と油壷に移動、北条水軍の去った後の長浜城、在地土豪、大川兵庫が城将として籠城したと云う。
長浜城では大した戦闘はなく、韮山開城とともに廃城になったものと考えられている。



「県道17号」
沼津土肥線は沼津市口野のR414交点を起点に、伊豆半島北東部を海岸沿いに走り、土肥町(現 伊豆市土肥)のR136交点に至る54.1kmの主要地方道です。(土肥ー戸田村)


県道17号線を沼津から西伊豆方面に海沿いに走ると、その途中にいくつかの富士山が見られる展望台があります。
その一つ、静岡県沼津市井田にある「煌めきの丘」に立ち寄りました。
この「煌めきの丘」からは井田集落や明神池、駿河湾、そして天気の良い日には正面に富士山が見られるはずなのですが、今回の旅行探検で訪れたときは富士山全体があつい雲で覆われており見ることができませんでした(残念)
しかし、2月~3月頃にしか見ることができない菜の花畑の「井田」の文字を見ることができました。

ちなみに今回は行きませんでしたが、この「煌めきの丘」から少し下ったところにある「明神池」には徒歩10分ほどで行けるそうです。
次回の旅行探検で行った際には「明神池」や「松江古墳群(すんごうこふんぐん)」、駿河湾に面した海岸線まで行ってきたいと思います。



起点である沼津市・口野放水路交差点から伊豆半島西海岸沿いを進み、三津、西浦、大瀬崎、戸田を経て伊豆市に入り終点の土肥中浜で国道136号に接続します。駿河湾を眺めながらのドライブコースではありますが道幅の狭くカーブが多い区間が点在するので快適とまではいきません。沼津から土肥へのアクセスには国道136号



伊豆半島最南端の石廊崎と御前崎を結ぶ線に囲まれた海域が駿河湾で、その最深部は2,500メートルに達し、日本の湾の中では一番深い湾です。
駿河湾は、湾の間口も奥行きも約60km、表面積は約2,300平方kmです。
その水深の特徴は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境に位置し、1,000メートルより深くに海底峡谷が湾口から湾奥部まで南北に連なっています。
湾内には約1,000種の魚類が生息しているといわれています。(日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種)イワシ、アジ、サバをはじめ、サクラエビ、メダイ、ムツ、ヒラメ、ソコダラ類、ボタンエビ、アカザエビ、クルマエビ、イセエビ、タカアシガニ等が生息しています。
また、珍しい深海魚が生息していることでも有名です。

日本の深い湾トップ3

1位 駿河湾 2,500m 静岡県

2位 相模湾 1,500m 神奈川県

3位 富山湾 900m 富山県

資料、出典:東海大学出版会日本海洋学会沿岸海洋研究部会編、「駿河湾のなぞ」(星野通平編)
資料協力:沼津市、富士市


雄大な富士山を眺めながら、駿河湾を渡る高速カーフェリー。清水港と西伊豆土肥港をわずか65分で結んでおり、ちょっとした船旅気分も味わえる。特別室もある豪華なフェリーは横揺れ防止装置を備え、快適な乗り心地。広いデッキでは頬にあたる潮風も気持ちいい。

ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。

沼津市の戸田地区 写真は2010年のもの
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。この時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。

ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。

日露和親条約締結後、プチャーチンは帰国ための船の建造を幕府に願い出る。その申し出は許可され、戸田村・牛ケ洞にて帆船の建造が始まる。日本人は官民合同で300人と、ロシア人500人の計800人に上り、日本史上初ともいえる日露合同の造船が行われた。

日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はあったが、日露双方が一丸になって取り組み、着工から3ヶ月という短期間で、2本のマストを備えた小さな帆船が竣工する。プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けた。「ヘダ号」は無事、ロシアのニコライエフスクまで航行し、プチャーチンたちは3年ぶりに祖国に帰還した。

1856年(安政3年)9月に日露友好のシンボルとなった「ヘダ号」は日本に返還されるが、戊辰戦争の局面の箱館戦争で官軍に対し使用されたのを最後に、その記録は途絶えており、行く末の詳細は、わかっていない。

戸田村では、ヘダ号の同型船である君沢形の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与した。



梶原 景宗(かじわら かげむね、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。備前守。
紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは天正19年(1591年)に北条氏直が景宗から贈呈された鯖50匹に対する返礼。

北条氏康から景宗宛ての書状で「海上警備の為に現地(伊豆海域)に残ってほしい」とするものや、里見水軍との戦いに際しては「紀伊衆が活躍し~」などと記述が残っており、北条氏の直臣という立場ではなく、前述の交易商人としての行動や、「傭兵」のような形で属し、立場としては客将のような形であったと思われる。(ゆえに北条氏の滅亡後は本拠の紀伊へ戻っている)
沼津は、東部の伊豆半島の付け根、市名は中世の「沼津郷」から。愛鷹山麓には、縄文遺跡が多い。弥生時代から狩野川流域で水稲耕作が営まれてい、古墳も多い。鎌倉時代は、東海道の要衝であった。
武田勝頼は狩野川河口に「三枚橋城」を築いている。江戸時代は、水野藩の支配下の入る。大政奉還後(1867年)沼津兵学校・陸軍兵学寮
多くの人材を養成している。

「沼津御用邸記念公園・歴史民俗資料館」は、沼津御用邸は明治26年に造営され、明治・大正・昭和の三代に渡り使用されました。
昭和44年に廃止され、45年からは記念公園となって美しい庭園や邸が公開されている。(有料)

                    沼津御用邸記念公園


西附属邸は建物だけでなく室内の家具・調度品まで復元されており、当時の皇族の暮らしにふれることができます。東附属邸は、皇孫殿下の御学問所としての性格を受け継ぎ、文化活動のための施設。

                       園内


歴史民俗資料館では、駿河湾で使われてきた漁具類や沼津の地場産業となった干物作りの道具、湿田農耕の資料などを展示。

  

敷地面積は約15万平方mに及び、千本松原に連なる広大な松林と駿河湾に面した砂浜の中にある。明治時代、周辺には大山巌や西郷従道、大木喬任など元勲の別荘も存在していた。北北西の方向に富士山が見える風光明媚、かつ温暖な地。

  

昭和20年、沼津大空襲で本邸を焼失し、昭和44年に廃止されて沼津市へ移管され、昭和45年、残された東附属邸と西附属邸を中心として周囲の緑地と共に、沼津御用邸記念公園として開設、1994年には今上天皇が行幸。

国道414号から近い。

  

「過去の御用邸」は、 神戸御用邸(明治19年)設置、 熱海御用邸(明治21年)設置、現在は熱海市役所。
伊香保御用邸(明治23年)設置、現在の群馬大学伊香保研修所。 山内御用邸(栃木県日光市)(明治23年)設置、現在は日光東照宮社務所。

沼津御用邸(明治26年)設置、沼津御用邸記念公園。 宮ノ下御用邸(箱根町)(明治28年)設置。後に高松宮家別邸、現在の富士屋ホテル別館菊華荘。 田母沢御用邸(日光市)(明治32年)設置、現在の日光田母沢御用邸記念公園。
鎌倉御用邸(明治32年)設置、現在の鎌倉市立御成小学校、鎌倉市役所。 静岡御用邸(明治33年)設置、静岡大空襲で焼失。現在の静岡市役所。 小田原御用邸(明治34年)設置、現在の小田原城内。 塩原御用邸(明治37年)設置、現在国立光明寮国立塩原視力障害センター。

  

東附属邸は、かつての御学問所としての歴史と伝統を引き継ぎ、市民の交流の場として、文化・教養活動の拠点として改修整備したもの。

「現存の御用邸」は、那須御用邸 (大正15年/昭和元年)設置。主に8月~9月に利用されている。 葉山御用邸 (明治27年)設置。
(昭和46年)に建物が焼失。昭和56年に再建。主に2月~3月に利用されている。
須崎御用邸 下田市 (昭和46年)設置。邸内にはプライベートビーチがある。主に7月~8月に利用されている。

    

東附属邸は、1903年 昭和天皇の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して造られ、夏期には隣地の学習院遊泳場とともに、ご利用の機会も多かったようです。
東附属邸は面積も約550㎡と広くありませんが、当時の御殿建築の姿をよくとどめて、1969年に沼津御用邸が廃止されるまで、長期間にわたり継続して利用された。
現在は新たに茶室を設け、日本文化を学ぶ研修所として、一般に公開している。
  
    

駿河湾に面した沼津港は、大きな漁港。沼津港の大型展望水門が多い。
内側が内港、外側を外港といい、フィッシングは外港の方が面白いと聞く。今日も多数の海釣りに。

                        水門
  

長浜へ 

山手線30番目に新駅工事 高輪泉岳寺に2020年 

2018-09-10 | syu散歩

武蔵野台地末端、東の山の手と沖積低地の下町・中央部に「古川」で、赤坂・麻布・高輪台の台地に分かれ、台地が入り込むので坂が多い。
その地形を表す「三河台・高輪台・日の窪・・」坂では、鳥居坂・潮見坂・仙台坂・乃木坂・・87か所を数える。
海を面する旧芝は、江戸時代の町屋を形成し、海苔の漁村であった。
現在は、埋め立てられ港湾・物流倉庫・工場・高層ビルが立ち並ぶ、芝大神宮だらだら祭知られている。
道路では、首都高1~4・11と国道1・15・246.鉄道は、JR東海道本線・山手線・京浜・・、私鉄京浜急行、地下鉄は、営団銀座線・千代田線・浅草線
モノレールなどが。

今日は、その鉄道の「山手線・新駅」が、2020年を目指しての工事が「品川駅~田町駅の間」に出来るので訪ねてみた。

               地下鉄浅草線「泉岳寺駅」交差点の稲荷神社境内から


                        二階の本殿


                          境内


山手線は、明治18年開通。
はじめは、浅草を中心に計画されたが、地元民の反対で現在の駅が、上野・鶯谷・日暮里・西日暮里(一番新しい駅)田端・駒込・巣鴨・大塚・池袋
目白・高田馬場・新大久保・新宿・代々木・原宿・渋谷・恵比寿・目黒・五反田・大崎・品川(この間に新駅が)田町・浜松町・新橋・有楽町
東京・神田・秋葉原・御徒町。現在29駅が2020年に1駅プラスされ「30駅」に。

                     大型クレーンと新ビル工事が


「新駅の名が楽しみである。」・・・窓より近く品川の台場もみえて「波」白く、うみのあなたにうずがすむ山は上総か房洲か・・・
鉄道唱歌から
                        JR横須賀線が


国道15号線・第一京浜「高輪大木戸」は、東海道の江戸出入口

                       高輪大木戸跡付近 伊能忠敬はここから全国測量へ


「慶応義塾図書館」大学正面左手にある図書館(明治40年創立)。「福沢諭吉が演説訓練の目的でアメリカ会堂を模したという」

                      泉岳寺は、稲荷神社の坂上。


                    泉岳寺交差点(第一京浜・415号線)


                      第一京浜から芝方面を


                        四十七士碑


                        高輪見取り図


                  地下鉄浅草線「泉岳寺駅」改札口付近


「大石良雄」 1659-1703 赤穂義士の首領 通称ー内蔵助 浅野家家老
主君浅野長矩の仇「吉良義央」を討つため、翌年同士46名とともに討ち入り首をあげた。
良雄は、幕命切腹した。3男大三郎は、広島浅野本家に。
                          大石良雄像


                    赤穂義士の「義」(記念館が)

「吉良義央」 1641-1702 地元では名君 足利一族の名門。吉良家は、断絶処分に。

                    吉良上野介義央と大石主税  (画)


「泉岳寺」 曹洞宗 ・山号 萬松山

1560年、桶狭間で打ち死に「今川義元」の霊を慰めるため徳川家康が赤坂に建立し1641年現在地に移転している。
曹洞宗江戸3ケ寺の一ッ名刹・浅野家の菩提寺。

                     大石良雄 (画)


                       山門                        


                       八脚門


                  参道のお土産屋 四十七提灯などが                        


「内匠儀、勅使ご馳走の御用を仰せ付け置かる。
その上時節柄殿中を憚らず不届の仕方に付いてお仕置き仰せ付けらるに付き、上野儀お構いなしとさしおかれ候ところ、主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅え押し込み飛び道具など持ち出し上野を討ち候始末。
公儀を恐れざる段重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける」

                       赤穂義士墓地図


                       山門裏手


                         梅移植


                       泉岳寺本堂 本尊釈迦如来


                       四十七士墓地門


細川越中守に17名、松平壱岐守に10名、毛利甲斐守に10名、水野監物の屋敷に9名が移送された。

                        梅移植


                       首洗い井戸




                          墓所門


                       長矩公夫人の墓


                         良雄の墓 義士供養




                   毎年12月14日「義士祭」が行わ
                        


                    赤穂藩主浅野長矩及び義士の墓が




「大野九郎兵衛」 赤穂浪士・家老 大石氏と対立、討ち入りには加わらなかったと卑怯者に、(講談・歌舞伎)。
出羽国境「板谷峠」で吉良を待ち伏せしていたとも、墓石が残っている。

”汽笛いっせい新橋を・・”変貌する新橋 

2018-09-09 | syu散歩

静岡県掛川~沼津まで掲載してきましたが、「JR/山手線・新駅」が2020年に出来ますので、途中ですが中断し、2回・新橋~泉岳寺までを。

「浅野長矩」 1665-1701 江戸城中で乱心した赤穂藩主・8歳で53500石の領主に。
接待役で指導を受けていた「吉良義央」を、江戸城中・松の廊下」で傷を負わせたことから、「切腹」を命じられ、赤穂浅野家改易処分に。
「田村右京太夫」-一ノ関藩主。田村邸の庭先で、腹を切った、内匠頭。その悲劇を見つめていた桜・銀杏の木の銀杏の一本が残って、これを「お化け銀杏」と呼ばれ、沖合から船頭たちは目標にしていたと云う。お化け銀杏は、大正期の枯れたと云う。
大田道灌が江戸城を築き、「日比谷湾」に港を開いた時は、大手町辺りが中心地、家康が江戸に入り、神田・日本橋を埋め立て町に、明暦の大火で港の中心は、隅田川ー鉄砲洲・築地・芝浦・高輪へと広がり、広重浮世絵には、船泊の光景で佃島であった。
明治に入り、横浜開港され、横浜へ横浜へと移動した。横浜に入った文明は、鉄道で「新橋駅・汐留」に・文明開化は「港区」からと云える。

文明開化の先駆けの「新橋駅ー横浜駅」蒸械が出発・明治5年、明治天皇勅語が。(陸蒸気と呼んだ)
「今般我が国の首線工竣るを告ぐ。朕親を開行して其便利を欣ぶ。
嗚呼、汝百官此の成業を百事維新の初めに起し此鴻利を萬民の永亨の後に恵まんとし。その励精勉力実に嘉尚すべし。
朕我国の富盛を期し、百官萬民の為此を祝す。朕又更に此業を拡張して、此線をして全国に蔦布せしめんを庶幾す。」
「汽笛一声新橋を、、、、」新橋駅=汐留駅(現在の汐留町)で、鉄道記念日10月14日(太陽暦に換算)に。
新橋・汐留ー横浜(現在の桜木町)28.8kmは、主に貨車・コンテナ。明治42年「烏森駅」開業した。が、大正12年の大震災により焼失している。
汐留の江戸初期は、汐入りのアシ沼と云う。後埋め立て海は、堤防で仕切られたので、「汐留」、1624年以降は、竜野藩脇坂淡路守の下屋敷・仙台藩
伊達邸が占めていた。明治5年鉄道用地となった。大震災後は放置され長い間、埋もれていたが、昭和11年鉄道省が、駅を改築するに当たり「碑」立て
「永く奮駅を忘れ去らむとす」している。
「国鉄百年史」
新橋(汐留駅)~横浜間18マイル(29km)10月14日単線・イギリス製長さ24フィート、重量60ポンド(27.2kg)枕木檜・松使用・・。
明治天皇 新橋~横浜両停留場に臨御・式場敬護近衛兵800人輸送の為3往復運転・・・。
新政府の必死の思いが。また、当時の政府は、イギリス国からの借入と、さらに莫大な国費をつぎ込んでいる。

                     変わりゆく新橋・汐留


新橋駅日比谷口広場

C11形蒸気機関車・C11 292は、静態保存。C11 292は、昭和20年、日本車輌株式会社で誕生し108万3975kmを走破した車輌。




汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として、2集1番ー夏なお寒き布引の 滝の響きをあとにして 神戸の里を立ちいずる 山陽線路の汽車の道~治まる御代の天下茶屋 さわがぬ波の難波駅 いさみて出ずる旅人の 心はあとに残れども
6集40番ー幌別輪西打ち過ぎて はや室蘭に着きにけり 青森までは海一つ 海胆は此地の名産ぞ。全374番の歌詞を続けて歌うと1時間30分以上かかる。

                             鉄道唱歌の碑


「ゆりかごめ」
        東京臨海新交通臨海線は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ。


                  平成7年開業・18年有明ー豊洲間延伸


「汐留」は港区北東端、「浜離宮庭園は中央区」と第一京浜・国道15号線に挟まれた地区の東新橋。外堀・汐留川をへだてた旧武家地で、赤坂見附付近を
源とする汐留川は、物資輸送に大きな役割を果たした川で、河口には、問屋・商家・倉庫が軒を連ね、荷揚げ場であった。
明治5年鉄道開業で姿を消した。



平成7年から、都市基盤整備と民間のプロジェクトにより、都市再開発が始まった。平成16年には、13棟の超高層オフィスビルが建ち並び、
4つのホテルや数多くのレストラン、ショップなどが地下通路とペデストリアンデッキでつながる6万人の複合都市として生まれ変わった。
東側には浜離宮恩賜庭園をはさんで東京湾、西側は新橋駅から虎ノ門・神谷町・霞ヶ関の官庁街があり、銀座・築地・臨海副都心にも近く恰好のビジネスロケーションとなった。
六本木ヒルズやお台場と並び、東京の新しい観光名所の一つに。

    平成23年、国際戦略総合特区の一つである東京都提案のアジアヘッドクオーター特区区域に指定。


        古いビルの一角に「たい焼き」の店、行列・そこが新橋。


「新橋」東新橋・新橋・西新橋(田村町)。地名は、江戸時代に汐留川に架かる東海道の芝口橋・新橋の名が由来と云う。
江戸城下の重要な門戸で、城から見れば最も近い市街地・JR新橋駅西口「烏森」は、花街として栄えた。
新橋から浅草間の鉄道馬車は、1882年で交通の中心地でもあった。
戦後新橋駅西口と云えば一番早く「闇市」が開かれた。その、盛り場として飲食歓楽街がさえた。

                     今の盛り場、正面が烏森神社


                     新橋西口通り


進んだ港に育った「新橋芸者」は、進歩的、東京平康等級表で一等柳橋・新橋~四等神楽坂~五等向島・赤坂・・。
新橋駅日比谷口、柳の街が、烏森花柳街、この辺は、サラリーマンは遊日には行けない場所であった。
烏森と云うのは、鳥村・鳥丸などと呼んで「鳥」の多くいる鬱蒼とした森であったと云う。自然破壊である。
大正に出来た「新橋駅」は、ルネッサン式煉瓦三階建てあったと云う。

                     新橋2丁目付近


「烏森神社」
社伝ー天慶3年の940年、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍「藤原秀郷(俵藤太)」が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。
その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げ。
秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したと云う。
江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは、江戸で、一二を争うものであったと云う。
新橋には他に日比谷神社があり、大祭は、日比谷神社と交互に隔年で行われる。

                祭神ー倉稲魂命   大祭ー5月上旬 


     神社の千貫大神輿は、名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られたと云う。


               狭い神社であるが狛犬は大きい


                    10段余の階段上に社殿


                       干支の戌が


「浅野長矩」 1665-1701 赤穂藩士 寛文5ー元禄14。

江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、切腹.
上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託して。
浅野家はお取り潰しに。

          新橋4丁目の日比谷通り沿いに(元禄時代の田村家上屋敷)


          お菓子「切腹最中」の新正堂ビル この付近区画整理で変わっていた。


港区は、都の東・千代田・中央・品川区とともに都心を形成・23区の中央に位置し、昭和22年赤坂・麻布・芝が合併し「港区」に。
竹芝・日の出・芝浦桟橋から「港区」に。
「芝公園」増上寺境内一部にあたる公園で、明治6年に浅草・飛鳥山・上野・深川・とともに東京市制定の「5公園」の一つに指定



「増上寺・大門」
表門である現在の大門は、旧大門の老朽化のため、昭和12年に都によって旧大門の意匠を踏襲し1.5倍の大きさの高麗門、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建


                         昔の参拝風景



「伊能忠敬」 1745-1818 測量家 50歳で隠居後、高橋至時の門下、測量術習得し17年かけて全国測量「大日本沿岸輿地全図」を。
一歩65㎝。  増上寺に記念碑がある。
久しぶりに新橋へいったので静岡を中断して記録します。



               伊能忠敬は、「高輪大木戸」から、測量を。



「増上寺」浄土宗大本山・山号三縁山・1393年聖聡上人開基・徳川家の菩提寺。
2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂。和宮をはじめに夫人たちの霊廟がある。
重文ー二天門・惣門・三解脱門・法然上人伝など多数ある。

                     増上寺の三解脱門・1605年建立


                      今の三解脱門




                        本堂


「東京タワー」芝公園内、総合電波塔ー昭和33年で高さ333m(150mと250m展望台)。
入口に南極越冬隊に参加した「樺太犬」の群像が建つ。

                      本堂と東京タワー


                徳川将軍家墓所(6人の将軍が)と皇女和宮他


                         境内・案内


1本1本植林した 沼津の千本松原(増誉上人)

2018-09-06 | 気まま旅
永禄3年ー1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。
西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。
後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。
この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城で、三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。
城の築城時期については、1577年に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の1570年には既に築城されていたという説があり、現在では後者が有力で、城の城主としては高坂源五郎が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の戸倉城で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
1580年には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

1577年、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して、沼津城を築城し、「高坂源五郎昌信」に守備させたといわれている。
しかし、「信濃史料」から、築城の時期は天正5年ではなく、元亀元年、信濃の諸士に城普請を務めさせている記事がみえるため、この時期に創築を求めようとする説が有力と云う。

沼津城の遺構はほとんど残存していないが、昭和48年ビル建築工事で発見された石垣が同城のものであったと推定され、石垣の組み方は戦国末期の実戦的築造であるという。

沼津と云えば、「江原素六と兵学校」、明治維新後はアメリカ視察を経て、徳川家が移封された静岡に移り住み、沼津兵学校、 沼津中学校などの創設に貢献。
明治23年には第1回衆議院選挙に当選し 、自由党、憲政会、政友会の議員を務め、麻布中学の初代校長歴任、銅像があると聞いたが不明。

沼津市内「医王山・東方寺」
    

乗運寺向かいには「醫王山東方寺」がある。 臨済宗の寺、ご本殿は、薬師瑠璃光如来像、古くは真言宗の寺で、江戸時代の明暦年間に
臨済宗 として再興された。

境内
    

寺で、塗ってよし、飲んでよしと言われた 万能薬「清明丹東方寺目薬」を製造販売していたと云う。
切疵や潰瘍に効くと言われて、一時は、この薬の売上で寺が維持されていたと云う。
しかし、薬事法の関係で昭和50年に製造販売を中止した。
沼津修養会がこの東方寺に置かれ、講話会や座禅会が開催され、沼津仏教会の中心的寺になっている。

境内
  

千本浜通りに、出雲の神を祀る「日枝神社」が、昔この辺りは、一面都の荘園で,大岡庄と呼ばれていたと云う。
狩野川がうねり,沼地のようなところを干拓し,次第に水稲を作れる荘園に作りあげて行ったのが,この神社創建の平安中期であった。

頼朝の頃、京都からの距離から想像するに,平安中期に,沼津あたりに着手していたとみても,それほど狂いはないと云う。

日枝神社                拝殿                      千本松原に
    

「長谷寺」は、稲久山と号し、本尊は十一面福聚自在観世音である。
825年、淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿・豆地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建したものだという。
昔、大和の長谷寺の末寺で、法相宗から真言宗に変わり、現在は時宗に属している。地元では、「浜の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

公園前の長谷寺                                 堂
   

毎年4月に開帳の法要が営まれているが、その際120反の帆布で作られた大観音曼陀羅の開帳がある。
この曼陀羅は、その昔航海の難所熊野灘、遠州灘などの航海安全を念願して、船主はその無事帰還のお礼にと、船の命の綱と頼む帆に霊像を写して奉納したのに始まったと伝えられる。
現在寺に所蔵されている曼陀羅は、明治8年の正月に菊地金平受広(別名、一運斎国秀)がこの完成のために日頃の信仰から、斎戒沐浴し、およそ200畳敷き余もある綿布に半年の年月を費やし、原図のとおりに精巧緻密に写し上げたもの。

長谷寺は、江戸時代より駿河一国三十一番札所及び横道十三番札所となっている。

                        本堂


沼津「千本浜公園」は、東海道随一の景勝地である千本松原を有する沼津を代表する公園。
堤防上や松林の中を散歩・ジョギングする人など多い。数々の歌碑・文学碑がある。

千本松原(先人たちが一本一本植林)


風致公園で、沼津港の海岸に沿っている。面積 146000㎡と広い。

公園内 
    

「増誉上人の像」と千本松原は、1537年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐きり払われてしまう。
そこへ、一人の旅の僧がやって来ました。「増誉上人長円」です。
潮風の害を受けて困窮していた住民をみた長円は、人々を救うために経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えた。
千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。

増誉上人像は、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われている。

東方寺前の千本山乗運寺開祖「増誉上人」が千本松苗を植えたと云う
    

角田竹冷句碑がある。
角田竹冷は、安政3年、富士郡加島村(現在の富士市)に生まれ、家が貧しかったので少年時代は魚町の商家の奉公をした。
明治5年、16歳の時に東京へ出て働きながら法律を学び、24歳で、弁護士の免状を取り、35歳で衆議院議員に当選、その後6期17年間にわたって議員として活躍。
俳句には幼少時から生涯を通じて親しみ、俳人としても名を成し、「毎日新聞」「読売新聞」の俳句選者にもなっている。
代議士就任中、新聞紙上に軽妙な時事俳句を発表したことは有名である。大正8年62歳で永眠した。
  句碑  時は弥生  瓢枕に  鼾かな。 亡くなる前日に。

1856年富士市苗村出身の 角田氏句碑


弥生~古墳時代の沢田遺跡等が。
大和朝廷が力をのばし、4世紀中ごろまでに日本を統一した。
伊豆沼津にも影響下に入り、スルガの国がおかれた。
近畿地方や瀬戸内地方において、3世紀後半から4世紀初めにかけ、古墳とよばれる「支配者の墓」がつくられはじめたが、5世紀の末から6世紀にかけて、沼津市にも松長の神明塚古墳、東沢田の長塚古墳、西沢田の子ノ神古墳など3つの前方後円墳などがつくられ、さらに、6世紀後半になると、市内各地に多くの円墳がつくられ、7世紀終わりごろには、横穴墳がつくられるようになった。

伊豆方面へ。

源平 富士川の戦いの吉原宿と小さな原宿へ(達磨白隠禅師)

2018-09-04 | 気まま旅
「富士川」 山梨北西部・静岡県
南アルプス駒ケ岳西麓・釜無川源流部南流して静岡県駿河湾に注ぐ川ー山形最上川・熊本球磨川と富士川を日本三大急流と云う。
土砂の運搬量多く洪水に悩むー武田信玄の治水対策は知られている「信玄堤」。
江戸時代は、鍛沢河岸と岩淵を結ぶ舟運が。
長さー128km・流面3990km2
                      新富士川橋


「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。

                      富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。

この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。

浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが


「一宮賀茂神社」鎮座 身延町下山菖蒲沢 小さい神社。御祭神 天津日高彦穂瓊々杵尊。天平勝宝年間・七百五十年代の古い神社。
現宮司の始祖「稲葉左近」が土地の人とはかり創立したと伝えられている。
武田氏並びに穴山氏の尊崇極めて篤く河内領一七社の社頭として一ノ宮と尊称され、往昔葵祭には領内の神主ことごとく神事に奉仕したと伝える。
武田氏より三貫五百文地を、徳川氏におよんで同領の朱印地を代々受けている。
穴山氏より勝千代祈祷料として岩間の地に一九八アール寄進されていたが古文書だけ現存し場所は不明。

                             賀茂神社   
    

歴史と落ち着いた境内でした。小高い神社を背に鳥居の向かいの山々の景色は素晴らしい。

          拝殿内                      高台の神社前から
  

「八日市場八幡神社のケヤキ」
天然記念物 ケヤキは、樹高 30m/12m、目通り幹囲 6.5m/5.6m、推定樹齢 300年以上、身延町八日市場
案内板による。拝殿横のケヤキと鳥居近くのケヤキとある。

ケヤキの独立巨木が3本かたまっていたと云うが、残念ながら、3本とも主幹を途中で失っており、鳥居近くの1本は、1966年の台風、
拝殿横の1本は、1987年の突風の害を受けたと云う。
                            八幡神社
    

八幡神社隣の三守皇山長光院「大聖寺」ー真言宗醍醐派の寺、本尊 不動明王、
重要文化財・不動明王座像・県指定文化財・絹本著色地蔵菩薩十王図 ほか。

                             大聖寺
    

里山の木立ちにあり、歴史を感じる。
この寺は、1105年に、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)によって開かれたという。
その後、義光の曾孫に当たる加賀美遠光が京都で宮中守護の任務につき、"鳴弦の術"で魔物を退散させた功で、時の高倉天皇から清涼殿に安置されていた不動明王と「三守皇山長光王院大聖明王寺」の勅額を賜わったと云う。
遠光はこれをこの寺に収め、以後は三守皇山長光院大聖不動明王寺と称し、不動明王はいまも寺の本尊として祀られている。

                            不動明王像
    

「身延町なかとみ和紙の里」

富士川の豊かな流れと、四季折々の自然に恵まれた身延町は、風雅な趣きを持つ西嶋和紙の名産地。
はるかな山々をいだく、のびやかな地にたたずむ「なかとみ和紙の里」は、工芸美術にふれる「なかとみ現代工芸美術館」、手漉きが体験できる「漉屋なかとみ」、全国の和紙をとりそろえた「紙屋なかとみ」がある。



現代工芸と呼ばれる分野は、紙・陶磁器・染色・漆から、ガラス・皮・金属など多彩な材料と技法・技術を駆使して生まれる作品。
美術館は、新しい時代の美をいつくしみ、現代に息づく工芸美術作品を展示・収集する個性的なカルチャースポット。
数々の特色ある展覧会を企画している。

和紙づくり体験もできる。¥1000から、入館料¥500.
                         庭園
  

「身延町中富」は、山間部で耕地面積がわずかであるため、林業や焼畑、狩猟、製紙原料となる三椏の栽培など山の資源を利用した生業が成立し、西島は紙漉職人が多く、和紙を生産している。
富士川沿いには青柳河岸(増穂町)に属した切石河岸・八日市場河岸や黒沢河岸(鰍沢町)に属した下田原河岸などの富士川舟運に関わる河岸があり、渡船に携わるものもいた。
富士川沿いには甲駿を結ぶ駿州往還(河内路)が通り、沿道は宿場や町場で賑わった。

                           石の彫刻  有料
      

                   「東海道五十三次・原宿」


東海道11番「箱根」・12番「三島」・13番「沼津」・「14番「原」」

                         白隠の産湯井。


長興寺 臨済宗妙心寺派 約640年前、室町時代、鎌倉・建長寺の開山、「大覚禅師」のお弟子の「友獄和尚」が行脚中に原の浜辺にさしかかり、海の響きに感応道交して身心脱落。
歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立した。
その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山とたという。
江戸時代なかば、白隠禅師の道友であった、大義和尚(当山準開山)によって清見寺末となり、妙心寺派となる。
海と御縁の深い寺で、海の神様、金毘羅山大権現 を鎮守神としておまつりしている。
昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられてる。
近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。
その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されている。
             清見寺末、長興寺(白隠禅師の道友、大義和尚開山)
    

京都の「妙心寺」原の「松陰寺」は、全国大名、参勤交代時、あらそって面会を求めたと云う。
    

松陰寺・(白隠さん)は、白隠禅師(1685~1768)ゆかりの寺。
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になる。現在は臨済宗白隠派大本山。

「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました

松陰寺(世界に知られている白隠禅師ゆかりの寺) 
    

                       境内と堂 
  

                       藤棚と本堂
    

「昌原寺」日蓮宗、
大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
1615年 春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえ、ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こ の地に一山を構えるように要請した。
お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。
この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。
徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。
元和8年に念願が成就し、寺院を、建立している。

                       昌原寺                            
    

「浅間神社」-祭神・木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと)
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛であるという、父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。
原「浅間神社」は、1609年武田家臣の植松平次右衛門季重が創建と云う。
興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だった。
太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったという。

                     浅間神社             
    

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