素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

東京大空襲

2014年03月10日 | 日記
 先週からの朝ドラ「ごちそうさん」を見ていて本土大空襲のことを思わずにはいられなかった。今日3月10日の東京大空襲を皮切りに日本の各都市への無差別爆撃という作戦を米軍がとったのである。東京大空襲のことを私が知ったのは1971年に出版された早乙女勝元さんの「東京大空襲~昭和二〇年三月十日の記録~」(岩波新書)であった。それまでの私の知識は、沖縄のひめゆり部隊と広島、長崎への原爆投下、「きけわだつみの声」ぐらいだった。

 日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書は出されたが、日本政府による実態調査は殆んどなされてこなかったといってもよい。当時、13歳でこの空襲を経験した早乙女さんは、このままだと多くの日本人が東京大空襲がどんなものだったか知らされず歴史の闇に埋もれてしまうのではという危惧から、自分自身の体験と奇跡的に生き残った人々の記憶を寄せ集め記録することによりこの空襲の非人間的な性格や、殺された人々の無念さなど空襲の実態を再現した。

 米軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本政府がアメリカへの補償請求権を放棄したことが、政府がこの空襲の事を戦後になっても公に触れられることをほとんどしなかったこととつながっているのではないか。早乙女さんはそこに風穴を開けたと言ってよい。シベリア抑留についても同様の姿勢が見受けられる。

 米軍は原爆投下までを見据えて、綿密な計画のもとに、実に整然と各都市の無差別爆撃を行っていったことは米国戦略爆撃調査団による報告書でも明らかになっている。南北戦争で北軍がとった殲滅作戦というものが現代にいたるまでのアメリカの戦争における一貫した姿勢である。このことは忘れてはいけない。

 昨日の朝刊には昭和20年3月13日にあった大阪大空襲の翌日、翌々日に新聞社が撮った記録写真が掲載されていた。今週の「ごちそうさん」とも重なる。

復興作業という名目で焼け跡から不足となっている金属を回収する中学生たち
米は無事だった。府の呼びかけで各家庭に作られた「穴蔵」に避難させていた食料を取り出す男性
裸足にサンダルという姿で焼け跡を片付ける少年
空襲から一夜明け、避難所で配られた温かいおにぎりには笑顔がこぼれた
空襲を受けた日にも出征していく人の姿が

 早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったカーチス・ルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだといっている。ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもあるにもかかわらず、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむと憤っておられる。

 ごまめの歯ぎしりであってもこだわり続けたい。
コメント
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