素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

羽黒山

2015年09月04日 | 日記
 NHKの『100分de名著』という番組にはたくさんの刺激、新発見をいただいた。中でも俳人長谷川 櫂さんの「おくのほそ道」は目から鱗がボロボロ落ちた。「おくのほそ道」をただの旅行記としてではなく、芭蕉の人生の中にすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていったらいいのかと問いつづける芭蕉の姿を浮かび上がらせたのである。

 長谷川さんは「おくのほそ道」の構成も芭蕉が得意だった歌仙と同じように四つに分かれていると説く。すなわち旅する順で言えば白河、尿前、市振という昔の関で分かれていて、四つの部分ごとに芭蕉の関心が変わっていくという。まとめると

 第一部(江戸~白河)・・・旅の禊
 第二部(白河~尿前)・・・みちのくの歌枕の旅
 第三部(尿前~市振)・・・宇宙の旅
 第四部(市振~大垣)・・・人間界の旅


となる。第三部の中で大きなウェイトを占めているのが出羽三山に詣でたことである。「羽黒山」の部分を全文引いてみる。6月3日は今の暦では7月19日である。

六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。
図司左吉(ずしさきち)といふ者を尋(たず)ねて、別当代(べっとうだい)会覚阿闍利(えがくあじゃり)に謁(えっ)す。
南谷(みなみだに)の別院(べついん)に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(じょう)こまやかにあるじせらる。
四日、本坊(ほんぼう)にをゐて誹諧(はいかい)興行(こうぎょう)。

ありがたや 雪をかほらす 南谷(みなみだに) 

五日、権現(ごんげん)に詣(もうず)。
当山(とうざん)開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)はいづれの代(よ)の人といふことをしらず。
延喜式(えんぎしき)に「羽州(うしゅう)里山(さとやま)の神社」とあり。
書写(しょしゃ)、「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州(うしゅう)黒山(くろやま)」を中略(ちゅうりゃく)して「羽黒山(はぐろさん)」といふにや。

「出羽(でわ)」といへるは、「鳥の毛羽(もうう)をこの国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と風土記(ふどき)にはべるとやらん。
月山(がっさん)・湯殿(ゆどの)を合わせて三山(さんざん)とす。

当寺(とうじ)武江東叡(ぶこうとうえい)に属(しょく)して天台止観(てんだいしかん)の月明(あき)らかに、円頓融通(えんどんゆずう)の法(のり)の灯(ともしび)かかげそひて、僧坊(そうぼう)棟(むね)をならべ、修験行法(しゅげんぎょうほう)を励(はげ)まし、霊山(れいざん)霊地(れいち)の験効(げんこう)、人貴(とうとび)かつ恐(おそ)る。

 繁栄(はんえい)長(とこしなえ)にして、めでたき御山(おやま)といいつべし。


 随神門から三百段余りの階段を下りて杉木立の中を10分ほど歩くと国宝の五重塔がある。テレビなどで見て憧れの塔だっただけに感慨深いものがあった。古くは附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っていた。
 ここから二千段余りの階段を上がると三神合祭殿(さんじんごうさいでん)に着く。1時間余りかかるのでツアーではカット。随神門に戻りバスで山道を上がる。「おくのほそ道」にもあるように江戸時代にはたいそう繁栄していた。山上には、本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいたという。明治維新の廃仏毀釈の影がここにもあった。往時を偲びながら階段を歩きたかったがツアーの悲しさである。
 社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。屋根装飾の一部に亀裂が見つかり、建立以来はじめての修復工事が開始されていたので右手の側面に足場が組まれていたのが少し残念だった。

 修復が終わった時に、一人でゆっくり訪れることができたら最高である。今回は下見だと思って羽黒山を後にした。それまでしっかり足腰を鍛え維持しておかなければ。
コメント
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