素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

実家に帰って、災害を少しだけ実感

2015年09月18日 | 日記
 昨日、実家に帰った。伊勢志摩地方だけが大雨洪水注意報が出ていた。西名阪自動車道の木太トンネルを過ぎたあたりか雨よりも霧の方がひどくなってきた。この状態は伊勢自動車道の松阪ICまで続いた。伊勢に近づくにつれ今度は雨の方が強くなってきた。やはり、注意報は本当だと思ったので山中を抜ける伊勢道路よりほとんどがトンネルの伊勢第二道路のほうが安全だろうと通行料200円を用意して伊勢西ICで下りずに直進した。しばらくいくと《二見鳥羽ライン通行止》という表示が見えた。「まさか!」と思ったが引き返すことはできない。そこで初めて先週の台風18号による豪雨禍のことに思いが至った。「あの時は鳥羽と今通過している伊勢の楠部付近が水に浸かったとニュースでやっていた。うかつだった」と悔やんだ時、《崩落した法面の復旧工事のため二見・鳥羽間は通行できません》という看板が見えた。仕方がないので二見の手前で地道に下りて走ることにした。

 高校時代通学に使っていたJR参宮線に沿っての道なので車窓から毎日見ていた風景が懐かしかった。

 実家の方は雨よりもチリ地震による津波のほうが関心事であった。有線放送がそのことをしきりに流していた。夜に突然有線放送が始まると驚いたが深夜になると慣れてきた。翌朝5時の有線放送が目覚まし時計となった。津波注意報が発令されたので外出を控えるようにとの内容だった。幼稚園、小、中学校も注意報が解除になるまで自宅待機の指示が放送であった。その日はシルバー人材センターに依頼していた雑草取りの3人の方も足留めとなり作業が延期になった。

 1960(昭和35)年のチリ地震による津波被害の教訓があるので情報は細やかに迅速にということが徹底されているように感じた。60歳以上の人は忘れることのできないものだと思う。不意打ちに近い状態で津波に襲われ真珠の養殖いかだが流されたりして大きな被害をもたらした。賢島の船着場が水に浸かって大変だった。話にしか聞いていなかった津波の恐ろしさを初めて実感したのが50年余年前のチリ地震であった。

 16時過ぎに実家を出たのだが、結局それまでは注意報は解除されずにいた。帰りは当然、伊勢道路を走った。火山の噴火、豪雨、津波、地震など各地で自然災害による被害のニュースをよく聞くようになった。今住んでいるところはそういう点ではとっても恵まれているとあらためて思った。縄文人が住んでいた場所というから自然災害のリスクの少ない所なのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする