素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

高槻城跡

2015年09月24日 | 日記
 昨日行った高槻現代劇場は、高槻城跡に建てられていて、ちょうど三の丸あたりになる。国道170号を使う時には近くを通っているのだが今までゆっくり見て回ることはなかった。ちょうど良い機会だと開演の2時間前ぐらいに行って付近を散策することにした。

 市のホームページによると「高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まり、永禄12年(1569)に和田惟政が城としての基礎を固め、天正元年(1573)に高山右近が町屋を城内にとりこんで堅固な城郭を築きました。また右近は熱心なキリシタンで、キリスト教を手厚く保護し、天主教会堂を拠点に布教をすすめてたと伝えられています。
江戸時代、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たした高槻城。大坂夏の陣ののち元和3年(1617)、江戸幕府による直営改修工事が行われ、慶安2年 (1649)には永井直清が入城、以後13代、幕末まで高槻藩3万6千石の譜代大名永井家の居城となります。明治7年(1874)に京阪間鉄道建設のため石垣が破却された。」とある。

 高槻現代劇場の右横に建つ高槻カトリック教会の堂々とした建物を見ると右近時代(1574~1585)のことが偲ばれる。 劇場の左横にあるのが野見神社と分社の永井神社。野見神社は宇多天皇の頃に、当地で流行した疫病を防ぐため、「牛頭天王(須佐之男命)を祀れば悪病が治まる」というご神託により創建。江戸期までは「牛頭天王社」と称した。明治期に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称している。というから1000年以上の歴史がある。
  境内で目にとまったのは永井神社の唐門と三頭木である。
  そこから50mほど歩くと「しろあと歴史館」がある。
  城下町の模型や右近関連の資料、西国街道や江戸時代の暮らしの様子などが展示されている。
   「一路」を見ているので参勤交代の模型もいつもよりは興味深く眺めた。
 
 また、先日の鬼怒川の決壊の様子をテレビで見ていたとき、淀川のことを考えた。磯田道史さんの「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で指摘されていることが次から次へと起こると『先人に学ぶ防災』の意識をしっかり持つことが大切だと思う。ちょうど江戸時代の淀川決壊の資料が2階の常設展示場にあったのでしっかりと読んだ。一年前だったら素通りしただろう。
 

しろあと歴史館から100m余り歩くと城跡公園である。
入るとすぐに目に入るのが高山右近像。 
江戸時代の商家が移築され歴史民俗資料館として活用されている。
  素通りの街であった高槻を再認識する機会となった。 
  
 


 
コメント
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