素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

人類の未来を考えさせられた番組

2015年01月26日 | 日記
 24(土)の夜に見た2つの番組の組み合わせは「人類の未来」を考えさせらる絶妙のものだった。

 1つは、Eテレ19時からの『地球ドラマチック』、恐竜の大量絶滅の謎に迫り、人類を頂点とする哺乳類全盛の現在に潜む大量絶滅の危機にふれ、これからの地球の未来を握っているのは人類だという投げかけで終わった。

 もう1つは、NHK総合21時からの『NHKスペシャル』、ネクストワールドと題して、急速に研究が進んでいる人と機械を融合する試みである。「ウエアラブル・ロボット」を装着した兵士は、重装備をモノともせず、何時間でも戦い続けられる。一般社会では、ロボットの腕を装着して仕事や家事を効率化しようという研究も始まった。さらに頭脳をアシストする「ウエアラブル・コンピューター」はコンタクトレンズ型なども登場し、いつも身につけられるようになり、人間の知的能力も向上すると言われる。
究極の形は、脳の情報をコンピューターにそのままコピーすることで人間を肉体から解放し、デジタル空間で永遠に生き続けることまでも考えられている。

 これらの番組を見た後、あらためて『137億年の物語』(クリストファー・ロイド著・野中香方子訳)のエピローグを噛み締めた。

 ビッグバンによって生まれた無限のエネルギーは、過去、現在、未来にわたって、自然界の生物と無生物のすべてにかかわりつづける。137億年前にはじまった太陽、月、恒星を生み出した壮大な物語に比べれば、人類の歴史は取るに足らない、ほんの一瞬のできごとのように思えてくる。

 もう一度、わたしたちの惑星である「地球」とその驚くべき生命の物語を見つめ直してみよう。今までに地球に誕生した種の99%以上がすでに絶滅しているという事実を忘れずに、わたしたちの周りにあるすべての創造物を、畏れ敬いつつ眺めてほしい。

 今、地球の生態系は、増えすぎた人類の重さに耐えかねて、土台から崩れ落ちようとしている。最も危険にさらされているのは、おそらくわたしたち自身なのだろう。未来へつながる道は、過去に歩んできた道の先にある。今わたしたちにできるのは、歴史に何を学ぶべきかを自問し、「いったい地球で何が起きたのか」を問いつづけることである。
 

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寒鯉と蝋梅を撮りに

2015年01月25日 | 日記
 『日本の歳時記』(小学館)の中で、晩冬の季語〈寒鯉〉にある3人の句が好きである。
   寒鯉の一擲(いってき)したる力かな   高浜虚子
   寒鯉はしづかなるかな鰭(ひれ)を垂れ  水原秋桜子
   寒鯉の雲のごとくにしづもれる      山口青邨

 また、今日の朝刊の「くらしナビ」にロンドン在住のジャーナリストあべ菜穂子さんが『花のある風景』に蝋梅について書かれていた。それによれば蝋梅はもともと中国の「王朝の花」だった。10~13世紀に文明の中心地として繁栄していた宋王朝時代に、旧正月の頃満開になる稀有な花木としてもてはやされ、以後、長く栽培され国民に愛されてきた。イギリスに伝わったのは1766年、中部ウスター州の貴族コベントリー卿が手に入れて育てると甘い香りが評判になり各地の庭園や公園に広まった。殺風景な冬に高貴な香りを運んだ花木を歓迎し、憧れと愛しさを込めて「ウインタースイート」と名づけた。とあった。

 隣家の庭の蝋梅もロウ細工のようなつややかな淡い黄色の花びらをつけている。日本に伝来したのは江戸時代初め頃のようである。

 今日は散歩日和であったので、例年楽しみにしている蝋梅と天の川の寒鯉の写真を撮ろうと出かけた。
 
 藤が尾あたりかから星の里いわふねに向かって天の川に沿って歩いたが、寒鯉の姿を見ることはできなかった。あきらめかけていた時、市大植物園の手前で鴨のペアとともにイメージ通りの写真をおさめることができた。
 週間天気予報を見ていると「三寒四温」という言葉が浮かぶ。ひだまりで見つけたレンギョウの花に季節の移り変わりを感じた。春はもうすぐ。
 

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390億円か!?

2015年01月24日 | 日記
 今日の朝刊のオピニオンに、柳田邦男さんが、公立小中学校の統廃合に関して『排すべき教育の効率主義』というタイトルで寄稿している。

「いい作品を創ろうとすると、ものすごく手間ひまがかかるんです。手間ひまかけるのを惜しんで、効率よくものづくりをしようとしたら、絶対にいいものはできないんです。」という宮崎駿さんの言葉を引いて、この世で最も手間ひまのかかる大切なこと、子育てと教育がバブル経済崩壊後の20年ほどの間に『効率』という用語が企業の世界だけでなく、行政の分野でも徘徊し教育行政までも支配するようになってきたことを危惧されている。

 文部科学省が今月19日に発表した公立小中学校の統廃合に関する「手引案」の根底にあるのは教職員の人件費減らしなど経済的な効率主義であると指摘する。現在、全国の公立小中学校のうち、これまで文科省が適正規模としてきた「標準」を下回る学校は半数に上り、それらの学校を標準通りに統廃合すると、教職員1万8千人を減らすことができると財務省ははじきだしている。そのことで人件費がどれくらい節約になるかといえば毎日新聞の試算では約390億円だそうである。

 この数字を見た時、(メ・ん・)?とくるものがあった。1週間ほど前に掲載された毎日新聞による衆院選を受けての2015年分の政党交付金の試算額と大きく変わらないのである。

 身を切る改革と政治家が言うならば、一番最初に手をつけるべきは政党交付金だと私は思っている。筋の通らない金であり、無駄使いの最たるものである。

 毎日新聞の試算によると2015年分の交付総額は320億1400万円。

 見込み額の内訳は、自民党(172億9600万円)・民主党(77億9200万円)・公明党(30億700万円)・維新の党(27億1000万円)・次世代の党(6億2000万円)・社民党(4億7900万円)新党改革(1億600万円)である。生活の党は〈「国会議員が5人以上」か「国会議員が1人以上所属し、直近の国政選挙の得票率2%以上」〉を満たしていない。共産党は制度に反対して申請していない。交付要件を満たすための議員移動などもあり、制度の矛盾は露呈してきている。

 これを削れば、無理のある統廃合はしなくて、地域の実情に合わせた教育行政が可能になる。柳田さんも山梨県市川三郷町や福島県飯舘村の例を紹介しながら警鐘を鳴らしている。

 「地方創生」は地域の学校づくりからだろう。多くのことを考えさせられたオピニオンであった。
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テニス初打ち・白鵬33回目の優勝・サッカーアジア杯敗退

2015年01月23日 | 日記
 全豪オープン、錦織選手の活躍で報道のほうも盛り上がり、試合を観戦する機会が増えた。近所のMさんにお付き合いで月に1度、1時間ほどテニスコートに立つようになり今までとは見方が変わった。テニスといっても私のレベルは幼児の遊び程度で40年近いキャリアのあるMさんには申し訳ないと思っているが、「この歳になると気楽に楽しめるのがいい」という言葉に甘えて無手勝流にお相手している。

 今日が「テニス初打ち」の日。昨日からの雨がスッキリ上がらず心配していたが、人工芝コートの強みである。10時からのプレーには影響なかった。錦織選手のおかげで打ち方のイメージだけは脳に入っているので昨年よりはましな球が返せていたように思う。特にバックハンドはからっきしだめだったのが両手で真似てみると10本に1本ぐらいは鋭いショットになる。「うまく返してやろう」などと邪念が入ると空振りやホームランが飛び出す。

 不得手なテニスでは運動後、気疲れもあり不完全燃焼気味になる。午後、打上治水緑地往復の10kmコースを1km7分ペースで走ることにした。このペースだと多少足に疲れが残っていても走りきれることがわかった。さすがに、その後は体が動かなくなったので大相撲とサッカーアジア杯のテレビ観戦となった。

 今場所、大相撲は連日満員御礼が出て大盛況である。思わず力の入る取り組みも多く。うなづける。ただ、はたき込みで決まる勝負が目立つ点だけはやや不満。白鵬の優勝回数の新記録更新がいつか?が関心事であったがあっさり初場所のしかも13日目で王手がかかってしまった。

 優勝がかかった稀勢の里と戦いは取り直しになったが、常に白鵬が先手必勝とばかりに攻め立てての危なげない勝ちであった。巨人・大鵬・卵焼きの世代の中にあってアンチ大鵬、柏戸を応援していた私でも大鵬超えには感慨深いものがあった。こうなれば全勝で記録に花を添えてほしいものである。

 その後のサッカーアジア杯、ベスト4をかけた対UAE戦は典型的な負けパターンに陥ってしまった。先制点を取られてしまったことが大きい。防げないシュートではなかっただけに惜しまれる。サイドからの崩しはよくできていたのでゲームとしては面白かった。強引な中央突破も仕掛けてみてもいいのではと思う場面がいくつかあった。引かれて中央を固められると躊躇するかもしれないがあえてドリブルで切り込むことで攻撃にメリハリがつくような気がした。

 サッカーは終わった。大相撲も日曜日には終わる。さてテニスはどこまで行けるか?
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親と子・記憶のズレ

2015年01月22日 | 日記
 今週から朝ドラの「マッサン」を見ている。「どうしたの?」と妻は不思議がるが、北海道余市に舞台が移ったことで惹きつけられるものがある。としか説明できない。

 今週は熊虎さんとその息子一馬との関係で考えさせられていることがある。逆賊という汚名を着せられて北海道の地へ追いやられた会津藩藩士を祖に持つ熊虎さんやその親戚が今のような生活ができるようになるまでは不毛な地での過酷な生活があったことは容易に推察できる。

 『江戸300藩の意外な「その後」』(PHP研究所)によれば、公称二十八万石、実質六十七万石あったといわれる会津藩は、その二十分の一以下二万石にも満たない現在の青森県上北、下北、三戸あたりの土地へ一万七千人近い人数で移住し斗南藩として再出発した。

 同じ賊軍の仙台、盛岡、庄内、二本松、長岡などの諸藩に比べて段違いの罰の重さだった。さらに斗南領を与える代わりに、新政府が目をつけていた蝦夷地への開拓民の供出も強要され、七百人を超える藩士たちが北の未開の地へ送られた。

生活苦の中から酒に溺れるようになった父に反抗して故郷を捨てた熊虎さんが必死で働いてきた姿は息子の一馬さんは知らない。物心ついた彼が知っているには家族を顧みず自由気ままに暮らす父の姿である。そしてそのことで苦労する母の姿。そこに両者の間で齟齬が生じる。

 両親にも出会うまでの歴史と出会ってからの歴史がある。子どもが持つのは物心ついてからの両親の姿である。一緒に暮らしていながらわかっているみたいで実は何も知らないということがある。そこに「一人で大きくなったと思うな」「頼んでう産んでもらったわけではない」というやりとりが生じる遠因がある。

 私にしても、生まれる以前の両親についtれの話を聞くようになったのはここ2年ぐらいである。ちょっとした会話の中に盛り込まれるようになってきた。また、叔父叔母から間接的に聞くことも増えた。そのことで小さい時から感じていた「?」の解消がなされる。

 お互いに生きるのに忙しくなくなってきたからかなあと考える。

 そのことを番組化したのが著名人の家族の歴史を本人に代わって徹底取材し、「アイデンティティ」や「家族の絆」を見つめる『ファミリーヒストリー』ではないかと思う。

 「歴史の記憶のズレ」を意識することが、親子、夫婦などの問題を解決する1つの鍵になるのではないかなどと考えている。

 
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