素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

西鶴を発見した人

2015年01月21日 | 日記
 息子に貸していた『話のタネになる本』(光文書院)が返って来た。ちょっとした話の参考にとずいぶん前に買ったものである。パラパラと目次を見ていると〈偉大な文芸秘話〉の中に「西鶴を発見した人」という項目があった。『阿蘭陀西鶴』に夢中になっているので敏感になる。

 それによれば、江戸文学の中で井原西鶴は、今日の近代文学の先駆という意味で非常に大きな存在なのだが、彼の没後約200年間、明治の中頃までは世間から忘れられていたという。せいぜい好事家の間で、元禄時代の珍本として鑑賞されているに過ぎなかった。それを古書の中から発見してその価値を初めて世に問うたのが、淡島寒月という趣味家である。

 明治25年頃東京浅草の森下町に住んでいた寒月は、近くの古書店で江戸時代の古書をあさっているうちに、大判本のボロボロの元禄本の1冊を見つけ安く買った。これが西鶴の遺作「置土産」の全5冊のうちの1冊であった。これを精読するうちに寒月は西鶴のとりこになり、以後次々と西鶴の古本を見つけ西鶴文学の系統立てに尽力する。

 この研究が幸田露伴や尾崎紅葉らのみとめるところとなり、この二大家によって西鶴の文脈が現代に生かされ、西鶴そのものの研究も国文学として盛んになった。にも関わらずきっかけをつくった淡島寒月は名をなしていないという。

 もう少し淡島寒月について詳しく知りたくなって調べてみた。略歴はこうなる。

 安政6(1859)年、日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。

 1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。

 後には西洋文化に触れたくてキリスト教の洗礼も受けたという。

 西鶴も異端であったが、その再評価のきっかけをつくった寒月さんはもっと異端であったのかもしれない。歴史の妙を感じる話であった。




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大寒の日

2015年01月20日 | 日記
 大寒に入ると春遠からじという気分になる。日暮れが遅くなっていくのがいい。今日は何とも気忙しい日であった。プリンターの修理が完了した知らせが入ったのでジョーシン東香里店まで取りに行く。ついでに隣にある業務スーパーで野菜、果物、炭酸水などの買い出し。天気予報とは違い暖かな日差しがあったので布団干しをして掃除に励む。

 その間に、宅配便が3回。1番手はゆうパックで、「西NAVI12月号」で応募していたプレゼントが当選して、阿蘇からのクッキーが届く。「やっぱり当たり年なのか」と思う。2番手は佐川急便で、BODYMAKERの通販で注文していた品物が届く。家の中で体幹トレーニングやラジオ体操などをしていると畳が擦り切れると言われるのでマットを買った。長さ180cm,幅60cm,厚さ1cmで47%offの1990円と手頃であった。他にウェアなどもお値打ち価格であった。大阪マラソンのブースで存在を知り初めて利用したが気に入っている。最後はヤマトで定期購入をしている品。

 品物の点検などで掃除もしばしば中断。やけに暗くなってきたと外を見ると青空がなくなってきた。「これはやばいぞ」とあわてて布団を取り込む。ほどなく時雨る。用事に出かけていた妻も急いで帰る。「Tさんところは、屋上に洗濯をほしていた。」「Hさんは布団を干していた。」と興奮気味。それでどうしたかと問うと「声をかけようかと思ったがやめた。」とあっさり。「通り雨だからすぐ止むだろう」という予測は当たったが・・・・。

 午後から急に用事が入ったので14時からの生協の受け取りを頼まれる。これがあると中途半端に時間が余るので、直ってきたプリンターで頼まれていた写真や書類の印刷をする。確定申告が近くなってきたので医療費関係の書類の整理や提出書類の作成が主である。

 その間に業者や妻の活動している団体からの電話がまたよく入った。妻の関係かと思って丁重にでると業者だったり、また業者かとぞんざいにでると妻の関係の連絡で恐縮したりとうんざりする。

 一通り頼まれていたことを済ませると17時過ぎになっていた。何をしたでもないがバタバタしているうちに夕方になったという感じである。一服して相撲でも見ようかとスイッチを入れると「イスラム国」に拘束された日本人2人の写真がいきなり映し出された。これには仰天。否応なしに巻き込まれていくのかと暗澹たる気分になった。詳細はわからないので教育テレビにチャンネルを移し大相撲を見る。

 日本人力士の優勝が遠ざかっているということがしばしば言われるが、旭天鵬はモンゴル出身でも帰化して日本人であるので「日本人力士」である。「日本出身力士」というのが正確なところである。日本人である外国人であるということにこだわらなくてもいい時代ではないかと思ってしまう。民族の壁というのが人類の大きな問題として存在し続けてきたが、解決できないまま今矛盾の極限点に達していると強く思う。

 夕食後、1時間弱散歩して心身のバランスをとった。
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寄せ植えの梅ほぼ満開、お年玉付き年賀状当選率up!

2015年01月19日 | 日記
 寄せ植えの梅がほぼ満開になった。福寿草の代役である茎たんぽぽも黄色のつぼみを開き始めいい感じである。毎朝新聞を取りに外へ出る時、思わず都七福神の色紙に向かってパンパンと手を打ち拝んでしまう。
  そのご利益でもないだろうがお年玉年賀状が例年になく当たりが多かった。こういうことにアンテナの鋭敏な妻には珍しく、抽せん日のニュースを見逃していた。たまたま郵便局に振り込みに行ったら当選番号の書かれた紙が置いてあり「もう発表していたんだ」と少し落胆した様子で帰ってきた。抽せん日の夜にチェックしたかったというこだわりがあったみたいである。

 例年だと切手シートが5枚も当たれば上々というところだが、今年の3等、下2桁27と30のはがきが9枚もあった。それだけではなく2等の1351も1枚あり、大当たりとなった。さすがに1等の82243はかすりもしなかった。とにもかくにも妻は「今年は運の良い1年かもしれない」と上機嫌。早速郵便局へ行ってカタログを貰って来た。
   ささやかなことでHappy気分になる。

 

 

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星田山手とんど焼き好天気のもと厳粛に盛大に

2015年01月18日 | 日記
 昨夜に続いて未明に雨が降り心配したとんど焼きであった。雨と強風ほど難物はない。ここ数日の不安定な天気に「どうかな?」と思っていたが、開会の12時が近づくにつれ穏やかな青空が広がってきた。

 今年も卒寿を迎えられたKさんのリードのもとに立派なとんどが出来上がった。脚立に乗って各家庭から持ち寄られた注連縄をつけていく。しっかりした足腰には毎年敬服する。
 この形式を作り始めて10年目の節目を迎えた。「もう無理や!」と言いながら年々元気になっていく感じがする。

 12時からはちびっ子餅つき大会。
  つきあがった餅はテントに運ばれ、きなこ餅と醤油餅になって参加者にふるまわれた。
  
13時から、星田神社の宮司さまによるとんど焼きに先立っての清めの儀式が執り行われる。
  

 市長をはじめ府議会議員、市議会議員、教育長、区長などが来賓でズラリと並んだが、一番の注目は先の衆院選で大阪第11区に初の自民党議席をもたらした有名なS議員が顔を出したことだ。
 「S議員が来るみたいやで」「へえ~ほんとかいな」「選挙の時はお目にかかってないから弁天さん拝んでこよかな」「まだ到着してないとちがうか」「あのヘリコプターから落下傘で降りてくるかもしれませんな」「広報のあんた下から写真撮ったらいけませんで」「セクハラで御用や」「フライデーなら売れまっせ」「ありゃ~あ 車で来てもうたがな」
 「地元密着で負けた元官房長官は見当たりませんな」「落選中は来てましたのにな」「比例で復帰したから今は代表選でとんど焼きどころやおまへんで」「そういや今日でしたな」「燃え上がらない代表選でしたな」「タイミングが悪いですわ」「マスコミは阪神淡路大震災から20年一色でしたもんな」「今日びマスコミに取り上げられるかどうかできまりますわな」「誰になりますやろ」「誰になっても同じと違いますか」

 おごそかな祝詞の間、頭を垂れての会話。点火されたらアッという間に燃え上がり、燃え尽きた。
         「ほなまた来年」「来年は私も燃やされてるかもしれませんな」「それだけ脂肪ついとったらよう燃えまっせ」「心は燃え尽きてますがな」「お互い元気でな」「そこの段差気いつけや」「こけたらアカン こけたらアカン という歌ありましたな」「なめたらでんがな」 元気なお二人であった。 
   

 
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映画『じんじん』交野市上映会へ

2015年01月17日 | 日記
 映画館が地方都市から姿を消し、都市と地方の格差が進んでいるいま、映画『じんじん』は劇場公開だけに頼らず、ひとつひとつの県・市・町・村などで実行委員会を立ち上げ、数年をかけてゆっくりと各地のホールや公共施設で地域上映会を行っていく“スローシネマ”という公開方式をとっている。

 「スクリーンを前に大勢で観る映画文化を守りたい」という映画人の想い、そして「本当に観たい映画を自分たちの手で上映したい」、「上映会を通して人と人がつながり、地域を元気にしたい」という地域の人々の想いが込められた新しい試みである。

 他市であった映画会で『じんじん』を観た前市長が是非交野市でも上映会を持とうということで、教育委員会が中心になって「映画『じんじん』を交野で見よう会」がつくられた。ちょうど交野市教育委員会は「本の森プロジェクト」の取り組みもすすめておりタイムリーな企画となった。

 ただ、初めての取り組みで要領も得ず苦労したみたいだが、呼びかけ人の知恵を寄せ合って、当日は400人近くの参加が得られた。また隣の多目的ホールでは交野市立図書館、おはなしぐるーぷKIRARA、sakuらーにんぐ、PAの会などによる「えっほん村」も開かれ親子連れで賑わった。
 「どんな映画?」「北海道で本当にあった話をもとにした映画だって」「怖い?」「そんなことないと思うよ」親子連れが楽しそうに会話しながら会場に向かっていた。小学生には「じんじん」というタイトルがピンとこず、妖怪かなんかに思えたみたいである。
  舞台になった、北海道の剣淵町は地図で見ると旭川市より北へ約50kmの所にある人口3500人足らずの町である。ホームページにある早坂純夫町長のあいさつで町の概要がよくわかる。

 「北海道中央部の都市「旭川市」から、国道40号線を北に向かって50㎞程のところに、道の駅「絵本の里けんぶち」があります。ここが剣淵町の玄関口です。剣淵町は、明治32年に屯田兵によって拓かれた、豊かな自然と素晴らしい沃野が広がる純農村の町です。
 
 昭和63年、まちの若者たちが「けんぶち絵本の里を創ろう会」を結成、絵本を題材にまちづくりを始めました。その取り組みのユニークさが、マスコミで取り上げられ、「絵本の里けんぶち」としてその名が全国に広がっていきました。
 
 平成16年に、新しくオープンした「絵本の館」が、絵本の里づくり活動の拠点施設です。ここには、世界中の絵本、約45,000冊を収蔵し、全国への貸し出しも行っています。また「絵本の館」では、絵本原画展、読み聞かせ、絵本づくり、親子教室など様々な活動のほか、メインイベントとして「絵本の里大賞」を行っています。これは、前年度に全国で出版された絵本を対象にして、絵本作家や出版社から応募のあった絵本を「絵本の館」に展示し、来館した人たちの投票により大賞候補の絵本を選びます。大賞に選ばれた作家には、副賞として剣淵町産の安心安全な農産物を3年間にわたりお贈りします。
 
 絵本の里づくりは、このような活動を通して、町にある知的障がい者施設との関わりや、安心安全な農産物を生産する農家との結びつきを大切にしています。絵本と福祉と農業が一体となった文化を創造し、町では住民の皆さんが、絵本の持つ「温もりと優しさ」に触れ、「思いやりのある豊かな心」を育んでいます。
 
 その他、剣淵町には、温泉ホテル「レークサイド桜岡」や道北一の素晴らしいパークゴルフ場があります。ぜひ、皆様のお越しをお待ちしています。」


 昭和62(1987)年に発足した竹下登内閣の「ふるさと創生1億円」の使い道の論議が「けんぶち絵本の里を創ろう会」の結成につながったと聞いた。以来20年余の積み上げが実をむすんでいるように思える。この時消費税も導入された。今また地方創生と消費増税が大きな政治課題となっている。歴史は繰り返すというが、剣淵町の地道な取り組みには学ぶべきことがある。

 この地を訪れた俳優の大地康雄さんは強く心を揺さぶられ、映画製作を企画されたと『じんじん』公式サイトのIntroductionにある。

 監督の山田大樹さんがあいさつ文の中でふれているように、教育的な要素や道徳的なテーマを押し付けられることもなくクスッと笑って楽しめ、心に残るものがある映画だったと思う。

 ゆっくりと全国に広がっていけばいいな。
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