息子に貸していた『話のタネになる本』(光文書院)が返って来た。ちょっとした話の参考にとずいぶん前に買ったものである。パラパラと目次を見ていると〈偉大な文芸秘話〉の中に「西鶴を発見した人」という項目があった。『阿蘭陀西鶴』に夢中になっているので敏感になる。
それによれば、江戸文学の中で井原西鶴は、今日の近代文学の先駆という意味で非常に大きな存在なのだが、彼の没後約200年間、明治の中頃までは世間から忘れられていたという。せいぜい好事家の間で、元禄時代の珍本として鑑賞されているに過ぎなかった。それを古書の中から発見してその価値を初めて世に問うたのが、淡島寒月という趣味家である。
明治25年頃東京浅草の森下町に住んでいた寒月は、近くの古書店で江戸時代の古書をあさっているうちに、大判本のボロボロの元禄本の1冊を見つけ安く買った。これが西鶴の遺作「置土産」の全5冊のうちの1冊であった。これを精読するうちに寒月は西鶴のとりこになり、以後次々と西鶴の古本を見つけ西鶴文学の系統立てに尽力する。
この研究が幸田露伴や尾崎紅葉らのみとめるところとなり、この二大家によって西鶴の文脈が現代に生かされ、西鶴そのものの研究も国文学として盛んになった。にも関わらずきっかけをつくった淡島寒月は名をなしていないという。
もう少し淡島寒月について詳しく知りたくなって調べてみた。略歴はこうなる。
安政6(1859)年、日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。
後には西洋文化に触れたくてキリスト教の洗礼も受けたという。
西鶴も異端であったが、その再評価のきっかけをつくった寒月さんはもっと異端であったのかもしれない。歴史の妙を感じる話であった。
それによれば、江戸文学の中で井原西鶴は、今日の近代文学の先駆という意味で非常に大きな存在なのだが、彼の没後約200年間、明治の中頃までは世間から忘れられていたという。せいぜい好事家の間で、元禄時代の珍本として鑑賞されているに過ぎなかった。それを古書の中から発見してその価値を初めて世に問うたのが、淡島寒月という趣味家である。
明治25年頃東京浅草の森下町に住んでいた寒月は、近くの古書店で江戸時代の古書をあさっているうちに、大判本のボロボロの元禄本の1冊を見つけ安く買った。これが西鶴の遺作「置土産」の全5冊のうちの1冊であった。これを精読するうちに寒月は西鶴のとりこになり、以後次々と西鶴の古本を見つけ西鶴文学の系統立てに尽力する。
この研究が幸田露伴や尾崎紅葉らのみとめるところとなり、この二大家によって西鶴の文脈が現代に生かされ、西鶴そのものの研究も国文学として盛んになった。にも関わらずきっかけをつくった淡島寒月は名をなしていないという。
もう少し淡島寒月について詳しく知りたくなって調べてみた。略歴はこうなる。
安政6(1859)年、日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。
後には西洋文化に触れたくてキリスト教の洗礼も受けたという。
西鶴も異端であったが、その再評価のきっかけをつくった寒月さんはもっと異端であったのかもしれない。歴史の妙を感じる話であった。