玄徳道

道を語るブログです。

守護霊 守護神への依存からの脱却。そして真の道。脱却道。

2013-02-10 16:53:40 | 宗教
スピリチュアルや多くの宗教、多くの書物には、人間を守る、守護霊、守護神の存在が書かれています。そして、多くの人間がそれを肯定し、信じ、自分を守る存在に感謝を捧げておます。

想いおこせば、私が小学生の時に漫画本「うしろの百太郎」(つのだじろうさん作画)を読んで。感銘し、自己を守る霊的な存在、守護霊を知りました。霊能力者と称されるワールドメイトの深見東州氏、伊勢白山道 リーマン氏、下ヨシ子さん、江原啓之さんもその存在を認めておられます。そして、言わば多くの霊能力者が認め、認めなければならない存在でもあります。そして多くの霊能力者はその存在を先祖霊とされておられます。そうでないとされる方もいますが。

その中で、純粋に霊的守護に頼らずに、感謝のみを捧げ、その感謝磁気により物事の改善をはかり、道を開こうとする伊勢白山道は、お金もかからないし、かなりまともです。しかし、リーマン氏の欠点は他の霊覚者を認めずに排斥し、自己の教えを傲慢さで押し進めて行くことであります。誠に残念です。人の正義、自分の正義、立場により変り。神は善悪をも含むのです。

出口王仁三郎氏は天の使命により守るのが本守護神、勝手に守り、不幸を与えるのが副守護神(はぐれ龍 稲荷 蛇、祟り霊も含みます。)と立て分けられております。

確かに守護される精霊の存在はあります。神仏縁より来る守護眷属の存在です。多くは神社仏閣の神に仕える眷属界より来ります。そして、御先祖の存在。霊脈を宿す人間にとっては必然の守護であり、多くは先祖の御徳の発露にあるようです。

人間の欲望は果てしなく、守護霊をより強固にしたいと願い、幸運、健康、金運を求めます。悪魔邪霊からの追跡、不幸から逃れようと守護たる存在を強くしたいと考えます。
多くの霊能力者はその欲望を受け入れ、有料無料問わずに、自己の霊能により、龍神を憑け、仏を憑け、ワンランク上と称した守護霊を憑けます。そして、多くの人はそれを信じ、それを授けた霊能力者を信じ、依存し、さらに守護霊守護神にも依存します。

人の幸せとは、自らが道を歩み、自己の小天地である、宇宙を顕わし努力し、進歩する事にあります。苦難困難を乗り越え、懸命に歩む姿が惟神の道であります。

真実、守護霊を強くしてもらった云々とは実はその霊能力者による幻想でしかありません。伊勢白山道氏はそれを使い魔による自作自演と呼ぶでしょう。霊能とは想念の世界です。心の世界、幽界です。どんなに優れた霊能力者であろうとも、神が定めた守護なる存在を替える事は出来ません。人の自己意識を大切にされる神です。人間により、霊的存在を強固するなどこの天地間、無為自然の摂理、天理が定まっている以上ありえないのです。

神がその子を守るために守護たる精霊を顕わした言霊を発したのは自己進歩を手助けする為の愛情であります。それは感謝しようがしないが守護に関わりはありません。しかし、感謝する心は自己の不明(自分の弱い心)を包み、自己の心を広くする御徳を呼びます。ここで云う守護の特色は知らざれど守るのです。どんなに悪人であろうが、善悪の垣根はありません。

損得を超えた存在に、幸運、福徳を願い守護してもらおうと損得勘定で守護霊、守護神に少しでも依存する心は欲心であり、逆に守護する存在の心から離れます。人の道は少々の依存も必要ですがあくまでも自立しなければなりません。

では吉凶とはどこから来るのでしょうか。修養、修道から来るのです。人には気が備わっています。今の人は趣味、娯楽、快楽、仕事、学歴、見栄に気を使い、その損耗は激しく、睡眠による気の回復は追いついていません。木に根元が有り、根が栄養を吸収し、幹を太く大きくしようとしても、枝葉が多過ぎれば幹は太くなりません。根元の栄養とは睡眠、先天坐であり、枝葉とは趣味娯楽快楽見栄です。
修養とは修道とは、坐であり、学問(道院では大学 中庸)であります。学問により、徳を学び、思いやりを知り、妄信を正せば、道と合し、気を正します。是を「渾厚の気」と呼びます。渾厚の気が厚くなれば多くは福徳に満ち、霊が固く凝り、神が固く完(そなわ)ります。ここに至り、人の吉祥は神仏等、守護される存在など関係がなく、人が自らの修養に因る事を悟るのです。


「かつての聖人、覚者達には、神仏に依存した人は一人もいないのです。そして、特別に神仏に守護をされて方も一人もいません。すべては自らこれ(渾厚の気)を得て、自らこれを成し、自らこれを修め、自らこれを養い、自らこれを悟るのであります。」


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占道2

2012-07-06 22:05:07 | 宗教
思いだしました。20年前に私は人に占ってもらったことがあります。前の会社を辞める時でした。会社を辞めるのも悩むものです。辞めても本当に自分に合う仕事が有るのか、いろいろ不安でしたね。20代前半の時は東京に転勤で居ました。道院紅卍字会 東京総院も仕事場から近くにありましたのでたまたま、行った時です。その当時の道院の事務局の方に会社を辞める事情を話したところ、易占をしてもらえる事となりました。その当時は易経の事等知らなかったのですがお願いをしました。出た卦は「95の遯 天山遯」でした。意味は、悪が栄える中で一人善を表してもつぶされてしまうから、君子は逃げることも大事だという意味合いでしょうか。そのあと後日、浅草の観音様でおみくじを引いたら番号が95でした。「金鶏の鳴を聞くべし。」と有りました。この符号に勇気を受け、かなり慰留するように言われましたが断固として辞めました。数年後その事業部は廃止され、多くの方はリストラされました。

それと同じ時期です。占いではないのですが、台湾の道院にフーチが有りまして(このフーチは老祖の霊を受胎していない方がされていたので、正しいフーチではないようです。)そこに書画壇が有りまして、お金を払えば、神霊が道を示してくれたのです。私は最初申請した所、梅の木がある絵で、つぼみにあまり、花が開いていません。「花開幾時春」というようなことも書かれていました。総院の誠乾さんに意味を伺ったところ、修道により才能が開花される時を老祖さまが待っていると言われました。まあ台湾のフーチの書画なので、本音では正義をを認めていなかったと思います。
それが日本にやってこられると云うので書と画を申請しました。数ある中で私だけが何故か周りの人から褒められました。内容は、絵が朱字で「如」と描いており、書は言葉は忘れましたが、内容は「あなたの心は正しく、あなたが心に思う所、何をしてもよい」と云うような言葉でした。周りの道院の修方さんから、若いのに、たいしたもんだと褒められましたが、私は内心、やはり本物の神様ではないなあと思いました。私は申請した時、私が早く一人前になるように私を戒めて下さいと祈願していたからです。

いずれにしろ、奇なる事柄であり、人を褒めるところに神は無いと確信しました。何故ならば、褒めれば人は自らが誇り、驕れば滅びに進むからです。後日、その全ての書画は捨てました。

人は不思議が大好きです。霊能自慢の者ほど、自分の不思議を吹聴し、自分に優れた能力ある事を見せつけますよね。
世に不思議はありません。為すべくして成るのです。ここに不思議を表そうと云うのも欲心です。そして、それが不思議に観えるのも人間の観念であり、妄想なのです。不思議は不思議と観ずに宇宙の運行であると捉えれば正道に不思議なしと為るのです。

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占道

2012-07-05 21:41:15 | 宗教
人と云う存在はとても心配性です。過去で失敗したことがあれば、あの時こうしておけば良かった、ああしておけばよかったと悩みますよね。過去は、どの様な神様でも戻る事は出来ません。自然の定理だからです。
過去の失敗を今後に生かせばよいのですが、今度は未来が心配になります。未来に起きることなどは、人や神でも分かる事はありません。根源たる神は、天地の運行を為しております。人間のみが未来を知りたがるのです。人がもし、内なる神を覚神したのであれば、起きる現象をあるがままに受け入れるのみであり、吉凶、陰陽に囚われない自己を悟るからです。これを「天の命ずるをこれ性と謂い、性にしたがうこれ道謂う」です。自己の本性を顕わすのですね。神のお告げ、未来の霊視等の出所は幽界と感応する人の欲です。人間の欲心のみが、未来を知りたいと云う、占いに囚われてしまうのです。

私も、道を知らず、迷っていた時代は、占いに頼ろうとした自分がありました。ただし、私は臆病であったのとその占い師が本当に未来を予測出来るのか疑心暗鬼でありましたので、なかなかその門をたたこうとしませんでした。ある時、占いが多い神社に行ったことがあるのですが、その異様な雰囲気がどうも合わなくて、自分でしようと、図書館で四柱推命の本を借りました。結果は、さんざんで、「転職を繰り返し、最後は一人で死ぬと出ました。」まあこんなもんだろうとさらに今度は易経を買いました。易との出会いは私に自信を与えてくれましたね。筮竹を揃えて独学で学びましたが、頭が悪いため、最初も今もちんぷんかんぷんですが、いい方向い向かわさせてくれましたね。今は、易は学問であり、易占は封じました。

占いがすべて悪いとは思いません。ただし、自分自神がいないと、依存してしまう恐れがあります。

占いにより、不安を解消し、前向きな気持ちになる事も大事です。だからと言って占いはただのアドバイスであり、そこに本質はありません。本質とは自己の本当の自分であり、この心が、魂が主体と為らねば、占い如きで一喜一憂してしまう人生になりかねません。占いの神などは居ません。未来を述べる宣託はあくまでも欲望に感化された幽界の存在です

真の自分を知り、吉凶をありのままに受け入れ、心を乱す事を無くす道はやはり、坐道が最適かもしれません。他に方法があると言われる方は教えていただけたらありがたいです。


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伊勢白山道と瞑想批判

2012-07-02 22:06:23 | 宗教
私の考察では伊勢白山道とは先祖供養、神社参拝に於いて感謝のみを示す教えです。当然名前にあるように、伊勢神宮、白山を信仰の拠点に於いてあり、人の内にある、内在神こそを大事にする道です。有料宗教、占い師などは魔物扱いで、お金を取る全ての宗教団体、霊能力者を否定します。伊勢白山道リーマン氏はこれらの人々を地獄に送る役目もあると自称されております。宗教にお金をだまし取られた多くの方の駆け込み寺なようにも見えます。

伊勢白山道では確かにお金はあまりかからないようにも見えます。先祖供養は短冊と線香であります。神棚にも高額にはかかりません。書籍は、当初一冊しか出さないと言われていたようですが、かなりの数を出されております。健康補助食品を善くお勧めされます。蒸水器もお勧めされています。だからと言って買うのは本人の都合なのでお金はあまりかかりません。
オリジナル磁気こと自分教が大切と言われていますが、言葉の節々に、伊勢白山道が最高であるように言います。彼のコメント欄では伊勢白山道を褒め称える人を集めています。否定的、他の道を貴ぶ事はあまり気に召しません。

伊勢白山道は瞑想を否定されています。そこに必ずお金が取られたり、憑依があることを絶対的に示唆しています。

今日のブログでは、悟りを求める人は真の悟りから離れ、絶対に悟れないように書かれておられます。その理由は目的があるからだそうです。悟りと言う求道に目的を求めることは真理から離れると言うことのようであります。ゆえに、人の為に働き、動いている中にこそ真の瞑想があると述べられます。これを、「動の瞑想」とリーマン氏は述べられております。そして、自分がすでに神仏であるのに何を求めるのだと述べています。この考えは、人は本来、神や仏であると言うことにつきます。考え方は誤りではありませんが、修練、求道、己を磨いてからこそ輝くのです。怠けても神や仏になれる道理はありません。自己に神仏がおりますが、修養なくして内なる自神を輝かせ、見出せることは天地開闢以来ありません。

脅したり、説教したり、誉めたり、伊勢白山道リーマン氏のブログは忙しいのです。
生きとし生きる全ての存在を救済すべく、悟りを求めた釈尊は、苦行に真がない事を悟りました。ありとあらゆる試練と苦難を乗り越え、菩提樹の下で、真の実相世界、涅槃の世界に目覚めました。これは真実なのですよ。悟りを開きたいという目的、発願が釈尊の第一歩の道であります。しかし、悟りを開きたいと云う目的により、悟りが開かれないと言うのであれば釈尊は永遠に、悟りを開いていない事になってしまいます。(笑)
伊勢白山道氏の場合は全て自己の自称の霊能力による釈尊を捉えているだけのようです。釈尊が太陽信仰であったり、感謝で悟りを開いた等と述べています。何の根拠も実はありません。リーマン氏の個人のリーディングという霊的世界のみのお話なのです。
悟りの為に坐禅の道に入った白隠禅師さんを伊勢白山道氏は、リーディング出来ないほど悟った人と言われていました。何でやねん。悟りを求めたら悟りを得られないのとちゃうん。ご存知の方もおられるでしょうが、白隠禅師は、坐禅を真剣に成し、悟りを求め、日々精進されてこられたお方です。悟りを求め、坐禅をし、何万回も悟られたのです。

他者の為に働く事で、真の瞑想をしているのであれば、殆どの人が家族の為に働いています。まして、伊勢白山道は世に広まり、感謝想起、五%運動に至っては成功しておられているとリーマン氏が述べられています。そして感謝により、悟り人続出するのであれば、世の中が良くなっている筈なのです。そして、真に5%運動が成功しておれば、東北大震災等も起こる事は無かった筈です。しかし、今尚人の心は乱れております。長い間、伊勢白山道を信仰する人ですら迷い、苦しみから脱却できない人が多いようです。

多くの宗教家は自分の教えが正しく,他が誤りのように書かれます。ここに偏りがあります。仮想敵等、誤った道を述べた後、自分の道が正しいという説法は古来より変りません。自分が正しくて、他人が誤りであると述べるのは、人間の欲であり、自己中心的な考え方でもあります。これを「吾がクソは臭くない」ともいいます。自分の糞は臭くなく、他人の糞は死ぬほど臭く感じる、人間の愚かさです。

伊勢白山道氏は瞑想する有名人(釈尊、道元、白隠…)は、さも自分が全てを知っているように述べますがその足元の瞑想、坐禅を観ることが出来ていません。つまるところは、霊能(勝手)主義であるからです。ゆえに道を修め、苦悩、歪み、痛み、苦難を乗り越え、得た道の本質を悟れないのです。坐禅をしたこともないリーマン氏が瞑想を、否定、批難する事は誠に愚かであるとしか申せません。

伊勢白山道氏がブログにより、言葉遊びで、皆さんがすでに悟りを開いているなどと示すのは、伊勢白山道への依存を深める意図かもしれません。依存とは、自分の心で考えることを辞めさせ、さも気分の良い言葉で他者の心を掴み、伊勢白山道こそが幸せになれる唯一の道であるように、人の心を甘い言葉で埋め尽くされる事です。そして、他の教えは誤りであり、近づくだけで、霊的垢、憑依や穢れがあると脅すのです。脅迫する教えには中道は見出せません。中道とは幅広い、偏見のない修養であり学びなのです。

伊勢白山道に良い面が多々ありますが、リーマン氏個人に偏り、偏執、偏向が見受けられるのが残念でなりません。
しかし、人は変り続けるのが真実であります。願わくば、伊勢白山道リーマン氏の偏りが、中道に還る事を期待いたします。

「天子よりもって庶人に至るまで、壱是に皆修身をもって本と為す。その本乱れて末治まる者はあらず。その厚うする所の者薄うして、その薄うする所の者厚きは、未だこれ有らざるなり。」

そして他者を批判する私は悪人なのです。

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(2013,6,26 一部文字を訂正し、加筆致しました。)
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道院紅卍字会と玄徳道

2012-06-24 18:02:43 | 宗教
玄徳道はあくまでも様々な道を追求し、応援するブログであります。ここに道院との関係は本来は無いのです。しかし、私は老祖の弟子であり、私が学び得た道院の教えは、私の血肉となっている現状で、道を語れば、道院の教えがどうしても出てしまいます。私自身、幅の広い見識がないにもかかわらず、様々な道と称する事をお許し下さい。しかし、様々な道を応援する事は真実であります。

玄徳道に関して道院の先達より、様々な意見が出ておられるようです。大恩ある紅卍字会の会長である正備(道院の道名)さんが代表で御意見を下さいました。大変、優しい方ですので、正備さんを挟むと柔らかく、丸く私を励ます意見になっておりました。実際にはもっと、きつい意見であるように感じております。
道院には、綱則(規則)が神示により定められており、太乙北極真経、先天坐をはじめとする奥義は道院の修方のみに限定され修することが出来ます。言わば、老祖の神前で四つの誓願を為し、はじめて許され、道名と先天坐の伝授されるのです。
昔、ある宗教団体が道院の呪文(道院には神伝の神呪、経等様々降ろされています)をその宗教本に載せていいのか、悪いのかで神様にフーチで問うた事があります。黙真人はこれを深く戒められておりました。

太乙北極真経は天界に於いて秘中の秘であります。またこれを述べることは禁じられております。玄徳道でこれが漏れているのではないかと危惧されておられるようです。私は、決して洩らすつもりはりませんが、私の血肉から出た言葉として当てはまるのであれば、ご指摘いただければ考察した後で削除する事もさせて頂きます。

私の目指す所は天地自由人であり、悪人を目指しております。私は思うのです。至聖先天老祖は人々を済度、救済するために自らの真理であられる太乙北極真経を伝経されました。ゆえに、真経とは老祖の御神体でもあると思います。誠ある修方のみがそれを演じることが出来ます。ここに於いて、人々の救済が第一義であります。綱則も大事ですが、人々を救うことこそが老祖の意志であると私は感じます。
昔、ユダヤ教で律法こそが神の意志であると言われた時代、イエス キリストは神は人を幸せにする為に律法を定めたのに、日曜日は安息日であると医者は病人を見ない。イエスはこの現状を見て、あえて律法を破り、病人を癒し、神は律法に非ず、神は愛であると示されました。
私が語る玄徳道に於いて、天則に違反することでおこる罪は当然私の罪です。しかし、私は道を語る上でその罪を覚悟しています。地獄に堕ちても構わないのです。

様々な意見を出される方には大変感謝しております。願わくば、私の様な悪人が道を語る必要が無くなるように、世の災いを弭化し、真人となり、全ての人の救済される事を望みます。


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