玄徳道

道を語るブログです。

仏道

2012-05-22 22:29:45 | 宗教
釈迦族の王子であったゴータマは王族として享楽と誘惑の伴った生活の中で生きとし生きる者が免れない生・病・老・死の苦痛に気づき苦悩にさいなまれました。結果、地位も名誉も富も家すら捨て苦行生活に中に救済を求めました。「おおいなる放棄」を成し遂げたのです。そして、生きとし生きるもの全ての生命を救うべく発願されました。
厳格なる苦行の最中、ゴータマは意識を失い死亡したと思われた。彼の苦行仲間は身捨てて去り、息を吹き返した際に苦行では真理が得られぬことを悟りました。
ある時、菩提樹の下で瞑想していると大いなる覚醒が訪れました。苦悩とは、どこから来るのか、人が転生の輪に何故、囚われているのか、それらを克服すべき法を。ゴータマは、すべてを悟りし「仏陀」と成りました。
釈尊の教えは、後世の人により経典と成り、玄奘三蔵やその先達によりインドから中国の持ちかえられ、その後何世紀にも渡り信心を得て学ばれ、日本にも多大な影響を及ぼしました。

伊勢白山道リーマン氏はお経は釈迦の教えでは無い様に述べられています。それは真実です。しかし、生きとし生きる生命を救うという発願は、仏法を学ぶ人たちに受け継がれ釈迦意識と成ってお経に反映されています。これが偉大な功徳を顕わしているのも真実です。何故なら仏教思想の真如、実相世界、色即是空、不生不滅、は永遠の真理です。そして因果応報の法則は事実であるのですから。

涅槃への道は完璧な清浄と平穏状態の為し得た時に顕われます。法を学び歩み法界へと回帰するのです。この至上な悟りの道を歩む人を「仏陀の子」と称されるのです。

「われ、仏を得てよりこのかた 経たるところの諸の刧数は無量百千万 億載阿僧祇なり。常に法を説きて無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ それよりこのかた無量刧なり。」

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へにほんブログ村


哲学・思想 ブログランキングへ
観音の御心でクリックを押して下され。ヨロシク。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道院紅卍字会と先天の坐法

2012-05-13 17:54:37 | 宗教
先天の坐法とは至聖先天老祖と云う神様が「世人の真炁が日に漓亡(薄い)してゆくことを以って、このまま補給すること無く放置したならば、地上世界が将にその世界を成さざらんとする。」
ゆえに先天世界で秘中の秘とされる秘法を惜しまれず、太乙北極真経によって伝播されたのが上元の坐法、先天坐です。この坐法により少しずつ元炁を挽回してゆけば、先天に還ることが出来ると云われております。
先天の坐法は、あくまでも道院紅卍字会に求修(入会)し、老祖の弟子となり、その後、指坐されます。道院には神示による綱則があるので勝手にそれを教える事は、出来ないようです。縁が在る人は、世界紅卍字会日本総会のホームページをご覧になられると良いと思います。あくまでも縁なので無理は禁物です。興味本位であれば止めた方が良いと思います。

道院の修方の方のブログで「永遠の生命、安心」と云うのがございます。此処に炁楽仙女さんて方がたまに来られています。とてつもない能力の持ち主でして、太乙北極真経の奥伝である難解な太乙午集正経を渾身の力を込めて日訳されたようです。きらく仙女さんの著書に「生きる!意味と方法」が御座います。そこには、先天坐の方法が書かれているようです。私は読んだことがありませんが。今、電子書籍にもなっているようです。「アンドロイドマーケット」にあるそうです。参考にして下さい。

老祖の弟子となれば太乙北極真経を賜ることが出来ます。真経には護経仙が守られていると云うのを聞いたことがあります。老祖の御神体でもあるのでそうなのかもしれません。
私は真経を神棚に祭っています。そして、この場所で坐をします。何故ならば老祖の玄心と無形の感合があるとされるからです。
「修する者は、能く経の首(はじ)めの玄印を以って、常に像に黙すれば自ずから能く玄心と印通して諸々の邪魔は崇めて遠く離れ、道を悟らずして悟り、通せずして通じ、明らかならずして明らかになり、得られずして得られるであろう。」

しかし、先天の坐を得るのもなかなか面倒ですよね。だけど私は真剣に神様を自分を知りたいと思い、悩み葛藤し老祖の門に入ることが出来ました。入った当時は、先天坐を熱心にしましたが、なかなか継続は出来ませんでした。坐を忘れていた時期もあります。いつも道を彷徨っていました。
ある時、弭刧寿世要旨と云う文献を読んだ時に老祖の真心を感じ、再び坐を為しました。ここから間無く断無き道に入ることが出来きるようになりました。されど私の道は、ヘッポコ道。さらに潜修が必要です。課題は「心坐」です。

「静の妙なるところを会得するには、ただ坐ることだけが基礎となるのである。人が誠を以って坐り、堅を以って行い、恒を以って守ることが出来れば、即ち一日に四度(16分、一度を4分とす)の坐であっても、最高に達すれば、下生不滅となり、永く長生不死たることができるのである。また最低でも、体を強健にして長寿を保つことが出来る。たとえ、永遠に楽しむ事が出来なくても、また病を退け寿命を延ばすことは出来るのである。」


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へにほんブログ村


哲学・思想 ブログランキングへ
お時間があれば3ん箇所クリックして下さいませ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリスト道

2012-05-10 21:41:50 | 宗教
霊的に暗黒の時代、ベツレヘムの馬屋に生まれ、ガリレヤのナザレに於いて育ち生涯をそこでほとんど過ごしたため「ナザレのイエス」と呼ばれていました。
神の使いとしての役目を果たすべく、イエスは、ユダヤからエジプトを含む近隣諸国を宣化し再び、故郷に帰り人々の罪を許し癒す為に生涯を全身全霊を捧げました。

伊勢白山道で言う内在神をクエーカーのキリスト教徒は、「内なる光。」「内なるキリスト。」「キリストの種。」「各人の内に在る神的なもの。」と述べるようです。それは、古神道、道教、仏教など至るところで、言葉が違いますが述べられています。歴史を振り返れば内在神の道は、古来より続いているのです。

イエスは、神が人々の幸せの為に創られた律法が当時の権威に利用され、律法を守らん為に人々が苦しむのは神の意志ではないと命を懸けて権力者と民衆に示されました。
イエスは弟子たちが安息日の掟を犯したのをパリサイが抗議してきたのに対し「安息日は人の為にあるもので、人が安息日の為にあるのではない。」と戒めました。

神が愛である事を述べ身分に関係が無く、神の愛が人々に捧げられている事を述べました。「神はそのひとり子を賜わったほど、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

イエスは、古い教えと習慣に新しい意味を教え、正義、愛、果たすべく責務と言った道徳に重きを与えました。
イエスは神を愛し神に仕える責務の次に、自らを愛するように隣人を愛することが人の至上なる徳義であることを主張しました。

イエスの教えと12使徒による自らの犠牲は西洋の教化と文明化に偉大な貢献をされた。

内なる光を見出すキリスト教徒は、瞑想をするようです。イエスもまた上天といかなる時も一体でありました。

坐とは、古来より教派、民族を問わない、自己の神をを見出す道なのです。

「狭き門より入れ。滅びに至る門は、広くその道は短い。天国に至る門は、狭くその道は、長い。又それを見出す者は少ない。」

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へにほんブログ村


哲学・思想 ブログランキングへ
三か所よろしければポチッして頂けたら嬉しいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スピリチュアル道

2012-05-07 20:25:07 | 宗教
スピリチュアル(スピリチュアリティ)は、占いや瞑想と深く関係があるようです。神様や霊魂がいると思うけど宗教団体などに入信し、信仰するのではなく、自分自身が神様や自然の精霊たちと繋がっていく道の様です。
私はスピリチュアルは、江原さんや美輪さんの「オーラの泉」というテレビで知りました。前世や守護霊鑑定など、とても面白く鑑定される芸能人を羨ましく思っていました。(笑)パワースポットの話なんかもありましたっけ。

自分自身で神様と繋がると言ってもやはり、指導者がいます。その指導者に依存するのであれば、そしてパワーストーン等に依存するのであれば、宗教の悪い部分と同じと言うことになります。

私も昔は、オカルト好きで、守護霊や前世を知りたくてしょうがありませんでした。道を知るようになってからは、霊的興味が一切失せました。霊能力者が観(み)る霊視はその人、個人の能力によりますしその人の想念に関わりがあります。幽界の世界に真理は、無いと思います。自分が歩む道にこそ、自ずから見える真理も在ると考えるからです。

道を歩むということは、自らで学ぶということです。宗教も学びです。悪霊、動物霊、等などと宗教を指す先生もいますが霊的偏見を持てば、多くの正しい学問を得られず、道を歪めてしまいます。

至聖先天老祖と云う神様は、「道に門戸無し各々その誠心を尽くすのみ。五教(道教、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教)は流れを同じくせざれども、其の源は一つなり。時と地の関係があり、天が聖人を生ずるは、これに人道を繋ぎ、民衆を救済せんとする所以なり。故に道を求むる者は、まさに五教が一源より生じる事を知るべきなり。」と申します。

ちなみに一源に至る道法こそが先天坐法であり、一源とは、先天の炁胞である至聖先天老祖であります。

スピリチュアル道とは、幅広く垣根を持たない魂の学問であり、自分自身が神に繋がる道であると思います。

魂の学問である以上、霊能力、パワースポット、霊的物などは手放すべきです。

さて、ブログにもさまざまなブログが在ります。リンクの貼り方が解からないの貼りませんが「手放すスピリチュアル道」と云うブログが在ります。伊勢白山道と似た感じのブログでありますが、参考にされたらと思います。

スピリチュアルエゴと云う言葉が在ります。スピリチュアルを否定する人は、魂の低い人だと思い込む人を戒める言葉です。
私は、魂の高低等、神のみが知り、人間如きで解かる筈は、無いと思います。

「偏(かたよ)らざる、これ中と謂い、易(か)わらざる、これを庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へにほんブログ村

哲学・思想 ブログランキングへ
面白いと思ったら上記の三か所クリックをよろしくお願いします。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする