玄徳道

道を語るブログです。

道院道 1。

2020-05-10 16:38:08 | 大道
中国最後の帝政であった清朝の末期、神仙道を修めた有名人に賈子羽という人が居た。
山東泰安県の人で、俗に賈神仙と呼ばれていたが、この人の仙術は中国語随一と称され、当時は世界的にその名をとどろかせたものである。

帝政滅びて中華民国となった初め頃、南方の神仙術の大家 粱仙がある日ひょっこりと訪ねてきた。

粱仙は、賈神仙の霊力を試そうとして、言わば他流試合にやって来たということであるかな。

賈神仙は、これを遇するに至れり尽くせりで、山東人にしては、見たことも聞いたこともない、新鮮な南方の果実を出して接待し、料理も百種に近いもの、すべて、北方には、嘗て見たこともない珍種を出して、客人の肝を冷やしたということである。

これは、仙術による部品ん引き寄せの法を用いたものである。

辞去するに当たって粱仙は、これに応酬する意味か、懐中より、一個の蜜柑風の大きな果物を出して言うには、「本日、席を侍る各員と、将来兄弟の交わりを結ぶ意味で、一包中の一房を分食して、包皮を剥がせると、室中、十二人の主客に相当する十二房が出て来た。一同は、手を打って喜び、一房ずつ分け与えて居るところに、主家の小児がヒョロヒョロと入って来た。

人々はどうするかと思って粱仙の手許を見つめていると、十二房の外に子房が一つ付いていたのを見いだして、これをその小児に与えて、満足そうに笑みをたたえて、辞して去ったとあうことである。」


老子の流れを汲むと云われたこの神仙術は、実に中国の社会に風靡したものである。
民国の始め頃から欧州に於いてにも、異常なまでに関心を持たれ、ヒットラー政権下のドイツ新聞社あたりが、しきりに賈神仙を訪問して来たものであった。

ある時。ジョッフルという新聞記者がやって来て、「賈神仙、何か珍しい話を聞かせてください。」といって、神仙の客間に通された。

賈神仙は、「何もないですよ、まあお茶でも飲んで世間話でもしましょう。」と賈神仙はコップに、香り高い中国茶を入れて、テーブルの上にポンと置いたと思ったら、そのコップがテーブルにめり込んでしまった。縁だけが僅かにテーブルの上に残っていたのを神仙はみて、「ああ、これは少し力が入り過ぎたかな、」と言って、それを引き出してやった。と云うことである。

「まあ煙草でもどうぞ。」といって、煙草入れの箱を押してやると、その箱は四本の足が生えて亀となり、記者の近くまでテーブルの上をノコノコ歩き出したと云うことである。

客が帰った後、弟子たちに向かって神仙は、その煙草の箱を裏庭の木の下に、三尺土を掘って埋めて置けと言った。

弟子達はどういう訳かを問えば、「霊気を入れたので、六百年後には亀となって生まれ出る」といわれたそうである。

このように、天下を唸らせる法術を行っていた。

中国随一の神仙術者賈神仙は、何千という弟子が雲集して、常に門前市をなしていた。

民国十年に山東泰安県の程遠からぬ済南府に、至聖先天老祖が現化降臨し、道院が発祥した。

賈神仙は、幾千の弟子達な中から、高弟として目された十人ばかりの人を選んで、老祖の弟子となるべく、道院に送って寄越したのである。
そして、その時、弟子達に言った言葉は、心して味わうべきである。

「道院こそが、人心を正し、天下を救う大道である。わが神仙道は、法であり術であって、この法術を以てしては、真に人の心を救うことは、出来ない。

汝らは、今後わがほう術を顧みることなく、大道を学び、天下を救うことを心がけよ。」と言ってその高弟を道院に送ったのである。



笹目秀和著「ストップ ザ 富士大爆発」より抜粋させていただきました。

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至聖先天老祖の経道。

2020-04-07 17:29:26 | 大道


北極真経をはじめ、鎮心経、神化咒等の経文はすべからく、至聖先天老祖の当体である。

「真経は地球上の生命を永遠なる至福の域へ至らせ、あらゆる生命と人類を済度と救済へと渡河せしめる貴重なノアの方舟である。」

その北極真経とは、坐の奥義でもある。

坐とは瞑想であり、道である。

何故、老祖は、坐により人を救済しようとしたのであろうか。

静坐とは、自己修養の要であるからである。

修業者は、ありとあらゆる社会の邪悪が蔓延する世界で悪行の要素に打ち克たねば、正道を歩めず。そして、静坐とは、それに打ち克つ唯一無二の法であるから。

もし、人が神と出合おうとするのであれば、静坐こそが唯一、それを可能とするであろう。静坐の熟度によりその秘的な内的現象、静坐による、人の本質なる御魂への世界への変質。静坐こそが、最も自然に最大限の成果を得るのである。

老祖の御心である、経文の真義は、人類の災禍、惨禍を先天の内に化し、生きる生物全ての救済にある。

真経は坐の奥義書でもあり、その意義は坐を通して解釈すべきである。

また、真経や鎮心経、神化咒を声を出して暗唱し、災いを祓う為の題目としてはならないし、自らの経文に対する理解が完璧に正しいとしてはいけない。
自らの解釈のみが正しく、他人の解釈が誤りであると結論してもいけない。

経文はあくまでも坐を通じねばならない。

経文の意味を解釈して、自身の講話や著述に引用することは、真経の広大無辺の限界の無い教えに対して、愚かな学者による暗記した古典のくだりをひけらかす悪習となる畏れがあるゆえに、吹聴は控え、坐を通し明らかな識別能力と注意深い観察力をもって、任運自然に、謙虚に幅広く学ぶのである。


坐の正しい方法とは、如何なる心理的工夫もなく、只、無心に土に刺さった杭の如く完璧な静寂の中で只座るだけである。

自身の坐軸は、地球軸と合一し、世の安寧を支えるのである。



出口王仁三郎聖師である。

老祖は聖師を尋仁の道名を与えた。昇天後、元化真君とされ、普昇されたのち、霊責真人、兼、中和成化普渡天尊とされた。当然、現在もさらに、さらに、普昇され、人類、精華の礎を築かれておられる。

この聖師の座る姿こそが、先天坐の形であり、目を半眼にしたならば、両膝に氣を通す形坐の先天坐法の姿なのである。



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やれやれだ。ぜ、道。

2020-01-08 19:09:27 | 大道
人とは、神を語るが、神と出逢った事があるのであろうか。

イエスキリストは、本当に神に出逢ったのであろうか。然り、故に殺された。

釈迦は悟りを得た。人々の因果律なる阿頼耶識を観、故に、殺された。

孔子は、正道を得られない故に、殺される前に逃げた。

老子は、真実なる、道を表した、故に、亢龍悔いありと殺される前に逃げた。

マホメットは人類の幸せの法則を述べ、そして自己を最期の救世主と述べた、故に、イスラム教への抗魔は現在も衰えない。

出口王仁師は、霊学の先覚、神仕組みの当態を示されたが、老後は悔い、自己の真覚を伸ばされた。

出口日出麿師は、真覚を示されたが、大本に降りられた、艮の金神への対抗する亢魔により、廃人へと追い込まれた。

なんて、過去人には、如何様にも言える。

過去も未来も、現在も、人は様々な言動を示し、因果律の中を生きる。

詰まる処、神は決して、人の願いを叶える存在では無いと言うこと。

貴方が若し、神と本当に出逢いたいならば、最低限で、吾が内鳴る神と出合わなければ、話にならない。

ごく身近な、最も神に近い、近すぎて解りづらい、吾が内鳴る神。

吾が内鳴る神を知らねば、吾が神と出合わなければ、それは、他人の知識による、他人の宗教盲信知識による思凝り神なる、妄想でしかない。

そんな神と出合っても、維神なる神人合一の道は決して得られない。


弥勒の世とは、在家菩薩が法を説く世。尋仁聖師は述べられた。

法を説くには、吾が覚神あるのみ。
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至聖先天老祖と弟子道

2014-11-24 17:57:35 | 大道
至聖先天老祖。どこの神社にも、祭られていない神であります。大正時代に、中国で道院紅卍字会が発祥した際の主催神として、世に出ました。日本では道院と大本教の提携により、大本皇大神=至聖先天老祖となり、日本でも祭られるようになりました。大本教の出口王仁三郎聖師が至聖先天老祖を大国常立之大神、天之御中主之大神であると、審神された結果の所以であります。
現時点では宗教団体教祖達が至聖先天老祖を、北極の神、北極神界の主催神、伊勢外宮の神などと称されておられます。

至聖先天老祖を何神であるか、捉えるところは個人の思想と御魂相応です。しかし、至聖先天老祖出現された理由は、「塵世の衆生がその善なる先天の本性を迷失したる為に、戦乱災劫を造り、これを憐れんで、老祖はかつて一度も公開されなかった秘訣を以って法となし、五教(仏教、道教、儒教、キリスト教、イスラム教)の奥旨を統合し、以って用となし、世人悉く、その仁善祥和の本性を習得せしめ、世界をして平和に相互扶助せしめ、以って大同盛世(差別をつけぬ極めて公平な世の中、すなわち天地と一体になる)の境に達することを人々にこいねがい希望するために至聖先天老祖は降臨されたのであります。」

世が乱れ、大地が塗炭に還り、人類と生物を死滅から救うために顕れた神が至聖先天老祖。先天の一炁胞。

私は、人々が老祖をどのように捉えるか、等は人それぞれの勝手で良いと思います。あくまでも御魂相応。

老祖出現により、その老祖の門に入った者は必ず、道名が与えられます。道名を拝命した者こそが、老祖の弟子となります。それは、老祖が六万年に初めて降臨された時よりの縁。道名を拝命した者は道院紅卍字会から入った者、別な宗教団体から入った者、ワールドメイトから入った者、様々です。全ては縁であり、道名を持つ者こそが老祖の弟子でございます。

至聖先天老祖の弟子は、先天坐の秘と心印を得ることが学ぶことが出来ます。老祖の当体ともいうべき、太乙北極真経は消劫の言霊秘法であるとともに、先天坐法の奥義書でもあります。

先天坐法とは坐を実践することにより天人合化の道に至ります。心を鎮め、妄念を放出すれば、気が調います。気が体を正常に周れば、血液は速やかに流れ、脳と臓器は活発になります。体に元気が出れば、更に気は体を廻り水車の如く、各丹田、チャクラを鈍い回転から解き放ちます。これが潜在能力の開花です。チャクラは回転力を増し、輝き出します。ここに、物事からの執着に離れ、真の内なる神との出会いがあります。これを私は「小周天」と呼びます。

内なる神に目覚めた者は神の真実を悟り、外なる神への依存から解き放たれます。ここに、はじめて外なる地域の神々と対等に出会い、交わりが無心に出来るようになります。ここに、先天坐を行すれば、自己が御柱となり、神々との交流と、御柱は地球意識と触れ、坐柱はポールシフトと交わり、地球を安定にさせるのです。これを私は「大周天」と呼びます。

吾が師、老祖は坐をとても、大切になされておられます。先天坐を学びながら、それを行わない者は是を悟らねばなりません。老祖が悲しみます。

老祖の弟子の役割でいえば、未だ、潜伏する劫を弭化(災害や災いが起きる前に、先天の内にその因を抹消すること)することであります。

老祖の弟子たちは、秘伝の鎮心経、神化呪をはじめとする、多くの神呪経を唱える事ができます。各地域に散らばっているために、道院内で誦経による弭化、消劫が出来にくいのが現状です。しかし、日本には多くの神社が、神域があるので、神々と協力し、潜伏する劫を化することができます。老祖の弟子は縁ある神と合化し、悪業を化さねばなりません。
道院の秘伝の言霊を使えるのは、なんせ、老祖の弟子のみであるのだから。

炁楽仙女さんの著書で「鎮心経」がたま出版で発売されておられるので、老祖の弟子たちは参考にされれば良いとも考えます。


戦争が起これば沢山の人々が死にます。家屋や自然が燃え焼かれます。地震が起きれば、他の災劫も誘発し、津波、火事、家屋の倒壊により、不幸が訪れます。台風は土砂災害を呼び、風雨も人を不幸にします。そして、災害の因とは人間の悪想念、悪業が地球に潜伏し、地球から破裂するように引き起こすのです。故に老祖の弟子たちは、目に見えざる兆しを坐により、神呪、経により、弭化していかねば、多くの悲劇を生むのです。


人の多くは個人的悩みを抱えています。仕事の悩み、人間関係の悩み、家族、恋愛もろもろ。そして、多くの人が苦難の道を歩んでおられます。しかし、個人の悩みとは永遠です。尽きることはありません。しかし、ここで、一念奮起し、世の幸せの、多くの人々の安全のために、活動していただければ、個人の悩みをその瞬間忘れることが出来ます。これを「大義」と申します。義とは人の為であります。そして、その因果は必ず廻ります。善因は善果に、悪因は悪果に。それが早いか遅いかはわかりません。

しかし、果を求めず、大義に生きる。私は悩みも、苦しみも未だに尽きませんが、「義」は確かに気分が良いのであります。

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無限道

2013-11-09 19:47:06 | 大道
人の天性は同じ木の実。

孔子の弟子、顔回は相対世界、つまり、人間種のむなしい、物質世界の価値観に囚われ無かったため、相対世界では貧しく、その姿は不細工であり、異性から敬遠される存在で、彼の信を知る人は、少なく、貧困ゆえに、友も少なかった。しかし、聖人はその当体、魂の発露を感得し、真の彼を観た。聖人は孔子である。
貧しく不細工、その姿は、垢に覆われ、異臭を放ち、それでも笑顔を絶やさない、人間に、違和感を感じぬ者は無いのです。それでも孔子は、彼を観た。

孔子は垢に覆われた人間に何を観たのであろうか。人の内なる神の発露を観たのである。

今の人は外観で人を見定める。人の真奥を観れる、覚者は少なく、身分、学歴、仕事、会社、親、親戚、先祖、血縁、霊等で判断する。ゆえに内なる神を覚神しない人間は、天の目は開かれていないのである。

確かに霊界の世界には、階級があり、序列があり、次元の壁がある。これを観る霊能力者は、見たままの世界観に陥る。さらに、龍神界等、眷属界に使役される人間は、階級、次元が大事であるとし、これを尊称するのです。

顔回は、「暁、舜何人や、私も何人や」と言いました。暁や舜は古代の聖王です。今の世で言えば、釈迦やキリストは、私と同じ人間ですと言いました。出口聖師に言わせれば、同じ糞製造機であると言うかもしれませんね。

いやいや、釈迦やキリスト、出口王仁三郎は、高次元の存在で愚かな人間と同一出来ないと言う、霊系もあります。それも一理、しかし、自己を限定する以上、釈迦やキリストの前に、永遠に跪き、自己の真なる宇宙を顕わすことが不可ともなりますが。

至聖先天老祖と言う神霊、出口王仁三郎は「大国常之立大神」とサニワされましたが、出口王仁三郎を観て、述べた神示は「尋仁の天性は生まれながらに受けたる所は人と同じ木の実。その誠なるに因って能くその道を成じ、その信ずるに因る故に能くその心を成ぜり。これ僅かに日本一の明哲なるのみならず、亦東亜大陸の先覚者なり。その悟る所を以ってすれば、僅かに東亜一方の危を安ずるにかかわるのみならず、その行ずる所を以ってすれば、実に以って世界人群物類の平安を酋むるに足るなり。」

日本最大の霊覚者、出口王仁三郎と言えども、根源神から派生した同じ木の実なのです。その天性には、差別はありません。違うところは、篤誠のみが違うのみ。熱烈な大本狂信者、オニサブラー事、鬼三郎依存者達からは批判され、怒られるでしょうが。

誠とは自分の真心。聖人と人間の違いは、簡単に言えば、至誠の発露の違い。ゆえに中庸の書物は「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。」と述べているのです。

人は、誰でも、釈迦になり、キリストになり、聖師ともなれる事を知るべきです。尊敬すべきは尊敬し、決して、垣根を造らない。自分で、限界の垣根を定めない事が、道なのです。どのような人でも、無限の可能性を秘めているのです。

「たとえ、その夙根(前世での修行の基礎)や智慧や境遇、功候造詣などは、人によってそれぞれ同じではないが、ただその天性の善によって、その仁愛の徳を広め、人としての道理を全うし、道慈によって救い、人を救うところの真実の効果を実証する事が出来れば、皆同じように道を覚ることが出来るのである。」

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