中国最後の帝政であった清朝の末期、神仙道を修めた有名人に賈子羽という人が居た。
笹目秀和著「ストップ ザ 富士大爆発」より抜粋させていただきました。
山東泰安県の人で、俗に賈神仙と呼ばれていたが、この人の仙術は中国語随一と称され、当時は世界的にその名をとどろかせたものである。
帝政滅びて中華民国となった初め頃、南方の神仙術の大家 粱仙がある日ひょっこりと訪ねてきた。
粱仙は、賈神仙の霊力を試そうとして、言わば他流試合にやって来たということであるかな。
賈神仙は、これを遇するに至れり尽くせりで、山東人にしては、見たことも聞いたこともない、新鮮な南方の果実を出して接待し、料理も百種に近いもの、すべて、北方には、嘗て見たこともない珍種を出して、客人の肝を冷やしたということである。
これは、仙術による部品ん引き寄せの法を用いたものである。
辞去するに当たって粱仙は、これに応酬する意味か、懐中より、一個の蜜柑風の大きな果物を出して言うには、「本日、席を侍る各員と、将来兄弟の交わりを結ぶ意味で、一包中の一房を分食して、包皮を剥がせると、室中、十二人の主客に相当する十二房が出て来た。一同は、手を打って喜び、一房ずつ分け与えて居るところに、主家の小児がヒョロヒョロと入って来た。
人々はどうするかと思って粱仙の手許を見つめていると、十二房の外に子房が一つ付いていたのを見いだして、これをその小児に与えて、満足そうに笑みをたたえて、辞して去ったとあうことである。」
老子の流れを汲むと云われたこの神仙術は、実に中国の社会に風靡したものである。
民国の始め頃から欧州に於いてにも、異常なまでに関心を持たれ、ヒットラー政権下のドイツ新聞社あたりが、しきりに賈神仙を訪問して来たものであった。
ある時。ジョッフルという新聞記者がやって来て、「賈神仙、何か珍しい話を聞かせてください。」といって、神仙の客間に通された。
賈神仙は、「何もないですよ、まあお茶でも飲んで世間話でもしましょう。」と賈神仙はコップに、香り高い中国茶を入れて、テーブルの上にポンと置いたと思ったら、そのコップがテーブルにめり込んでしまった。縁だけが僅かにテーブルの上に残っていたのを神仙はみて、「ああ、これは少し力が入り過ぎたかな、」と言って、それを引き出してやった。と云うことである。
「まあ煙草でもどうぞ。」といって、煙草入れの箱を押してやると、その箱は四本の足が生えて亀となり、記者の近くまでテーブルの上をノコノコ歩き出したと云うことである。
客が帰った後、弟子たちに向かって神仙は、その煙草の箱を裏庭の木の下に、三尺土を掘って埋めて置けと言った。
弟子達はどういう訳かを問えば、「霊気を入れたので、六百年後には亀となって生まれ出る」といわれたそうである。
このように、天下を唸らせる法術を行っていた。
中国随一の神仙術者賈神仙は、何千という弟子が雲集して、常に門前市をなしていた。
民国十年に山東泰安県の程遠からぬ済南府に、至聖先天老祖が現化降臨し、道院が発祥した。
賈神仙は、幾千の弟子達な中から、高弟として目された十人ばかりの人を選んで、老祖の弟子となるべく、道院に送って寄越したのである。
そして、その時、弟子達に言った言葉は、心して味わうべきである。
「道院こそが、人心を正し、天下を救う大道である。わが神仙道は、法であり術であって、この法術を以てしては、真に人の心を救うことは、出来ない。
汝らは、今後わがほう術を顧みることなく、大道を学び、天下を救うことを心がけよ。」と言ってその高弟を道院に送ったのである。
笹目秀和著「ストップ ザ 富士大爆発」より抜粋させていただきました。