玄徳道

道を語るブログです。

天地人道

2013-11-07 21:33:01 | 大道
天地は本来無心であり、地球は運行回転し、生生化育している。人身もまた小天地であり、一身の成長、働きは自己の善悪に偏り、知らずしらずして一生を波乱万丈に過ごしている。

天地が出来てから、人も生来し、万物が生生化育する陰陽の氣から生死の流動、淘汰、化育、また、輪廻の回転が生まれた。

天の時を知り、地の利を執り、人の和を生かす。

天の働きとはなんであろう。星星の運行。輝ける生命の絆、太陽の恵み。月の引力による満ち潮。四季折々の、風雨の働き、雷雨、台風、雪、霧、霜。季節に応じて様々な変化を顕わす。そして、天の働きは不変であり、変化は知らない内に訪れるのです。

地の働きとはなんであろう。天の働きから得た水を受け、山の気ともいうべきマグマの隆盛を合し、山岳を形成し、水は低き所を流れ川となり、海となり、空を飛ぶ生命、地中に生きる生命、大地に生きる生命、生きとし生きる全ての生命を育てる。即ち、地の働きは生生化育し、万物が生じ変化するのです。

人の働きとはなんであろう。頭上は天に通じ、足は地で接し、心は万物と調和します。そして、行動には因果があり、陰陽に支配されている。そして、その変化には必然的なものがあります。ゆえに人は、天地と相通じ、相互互助をもたらすのです。ゆえに人は万物の霊長とされます。
人類が生誕した際、人の心は純朴で、私心、欲心がなく、上は神と通じ、下は精霊と接し、人とは和し、神と霊と人は調和の世界で生きていた。人は草木、動物とすらも心を通わせていました。
人類に所有欲が生まれ、便利を求め、差別意識が芽生えてから、人は神に通じなくなり、草木の言葉も受け取れず、科学の進歩を人類の誇りに思うようになりました。ここに万物と調和する道を放棄し、万物に害する存在となり、多くの種族の生命を滅亡させ、尚且つ、空気をも汚し、海を汚染し、地球のオーラすらも、我良しの悪想念で穢しています。
しかし、人の働きは聖人、神人、哲人、真人等を優れた人材を輩出し、偉大な足跡も残しているのも真実です。

人の働きは変化しやすい様です。人間性の善悪が定まりにくく、不安定であり、正となれば邪となります。その理由は嗜好欲が外より攻め、邪悪が内より誘い、内なる神を覆い、心を乱し、邪悪なる世界が正しいと思わせるからです。
神聖仙仏はこれを心配し、ありとあらゆる救済法を考えて活動する所以はこれを救うためなのです。

天地の間に充ち満ちているのは皆「道」であり人は道と一心に貫通しているのです。心がもし、この道と本体の働きを統一し、人間として踏み行うべき人倫の道や行いがこの心を拠り所とすれば、全ての一切が皆正しくなるのです。

もし、地域、地域に、道に目覚め、覚者、神人が現れれば、その人物の出す、「正氣」が天地、万物と和し、その地域の災刧を未然と消滅させる事が可能となると考えます。

「人身は一つの小天地であり、天地は一つの大人身である。吾が身より、吾が心より、吾が行いにより、工夫を用いるようにすれば弭化の道功、救済の慈功は半分の努力により倍の効果を挙げることが出来るのである。」

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最高無上の慈悲道

2013-11-05 19:22:04 | 大道
何を以って慈悲行と言うのでしょうか。観世音菩薩は甘露水を以って衆生の苦しみを癒し、不動明王は一切憤怒の世相で障害や悪魔を遠ざける。七福神は努力する庶民を応援し福を授ける。地蔵菩薩は六道に彷徨う諸々霊を導く。されど、神霊の働きは守らずして守り、感合してはじめてその働きを知る存在であり、神仏の働きに無私の施しであるのが感化する者に解かる真理であります。彼らの慈悲行に依存する人は道から離れます。

我々の人間の慈悲行とは、生きとし生きる全ての生命を至福の境地へ導く事です。その為には何をしなければならないのでしょうか。自分自身を救うことから始めなければなりません。自分を救うと言うことは、自己の魂による自神への目覚めであり、自己の正しい本性が発揮され、根源的神へと回帰される覚神を得ることであります。
自己を済度、救い、はじめて他を救済する事が可能となります。そして、即ち救済とは、自身が修養、修道により、練磨葛藤を得て、輝ける御魂の発露であり、その霊光により、神霊と合化し、大いなる共済の光が、生きとし生きる存在から惨禍や穢れを取り除き、正しくない人々を救い、その根源なる神へと回帰する道を示す事であります。

しかし、最高である慈悲行とは至聖先天老祖の道であるのです。これを「弭化」と申し上げます。弭化とは、災いが未だ現れない前に、これを無くし、刧が現れない前に、これを自然に消滅、「化」することです。

今の地球環境は、人の想念、霊界が妄りに乱れて、刧が積り、その悪業を治めようとする地球神は苦神されております。人の心の「我良し」の悪意は増え続けて、地球のカルマとなっているのです。まして、科学文明による環境破壊は加速し、地球自体は自浄作用に奮いたたねばなりません。異常気象は起こるべきして起き、全世界における自然災害は、止む事は無く、増え続けるでしょう。この地球に潜伏するカルマを未然にふせぐ道が弭化であります。人がすでに災刧の蜘蛛の巣にかかる前に、救う為に弭化を施し、蜘蛛の巣を祓うのであります。この弭化の行を行えば、人をして、災刧の恐怖から免れさせ、地球をして、正常の運行を成ささせるのです。言わば人と神とを惨禍から救うことを意味しているのです。

老祖の弟子であれば、鎮道弭刧経を授けられ、弭化道に参画する資格が出来ている以上、後は実践あるのみです。
一般の人であれば、言霊の学を学び実践する事で、真なる魂の発露である真言を発する事が出来れば、祓いの機能は十分にあると考えます。言葉は神なのですから。

「天地は生を好み、殺生を好まない。人間は善を宝とし、善を行うことが福を招くところの原因となり、因果の理は本来間違うところはないのである。」


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三五教 中和道

2013-04-21 22:05:34 | 大道
大本教の出口王仁三郎聖師はその著、「霊界物語」に於いて、三五(あななひ)教と謂う神の教えが述べられています。元々は黄金山の麓に混乱紛糾の世を救うべく埴安彦の大神が現われ五大教という教義を立てられてました。そして、霊鷲山麓の玉の井の郷に現われた、三つ葉彦の神の教理を三大教といいます。霊界物語では三大教と五大教の救いの教えが統一し、「三五教」と成り、真の救いの道を天下に宣伝する事になっていますね。

老祖訓 「天の道を奉じて世界を化し、世界を善導するには必ず先ず東よりしなければならない。」

大正12年の関東大震災が起きた時に道院紅卍字会は神命により救済品を東京震災復興局に届けました。もう一つの神命は道院紅卍字会と同じ主旨目的を持つ、新しい宗教団体と提携し、世の災刧を弭化すべく日本の神戸に道院を創ることを目的とされていました。しかし、いくつかの宗教団体を訪ねましたが提携に値する団体はなかなか見つかりません。最後に綾部の大本教にいきつきました。
出口聖師は道院の候素爽と面会をし、大本の救世の神業について詳細をかたり、キリスト教の信者でもある候素爽にバイブル聖句の疑問点をも明快にし、更に霊界物語第六巻の三大教、五大教の統合を指し、「貴方が来られることは既に神界から知らされておった。道院紅卍字会こそが世界の五大宗教(仏教、道教、儒教、イスラム教、キリスト教)を統合する聖なる宗団(五教同源)であり、万教同根を主旨とする大本と手を携えて世界を平和に来たらすことは神界の仕組みである。」候素爽もこの事に非常に驚嘆し、大本と道院の不思議な神縁を出口聖師と共に喜び、大本と道院の提携が成立しました。戦前は日本の大本支部には合わせて道院の看板も掲げられ、大本皇大神と同様に至聖先天老祖の神位もお祭りされてあったようですが、出口王仁三郎尋仁聖師亡きあとは、廃されたようですね。

日本の神道は古来教えは無く、自然のままに、素直に明るく前向きな大御心で至仁至愛の神にしたしみ、多くの善行を為し、多くの幸あう言霊をもって言向け和す、大調和の精神であります。これこそが維神の道であります。

古来より大陸の教えは自己修練、修身に基づき、克己復礼、中庸をもって道とします。常に心中に誠を掲げ、偏りを排し、自己を偽りません。

かつて、和の大本。中の道院。維神と、教義の統合こそが中和となったのです。「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中る、これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して天地位し、万物を育す。」しかし、神界の仕組みもまた障害があるのです。神を信ずるものでも、御神業が御人業となり、人の欲心が邪魔を為すのです。

出口尋仁聖師は大本と道院の繋がりを大切にされていました。しかし、石化の刧による大本の弾圧、中国では赤化(共産主義)の刧により、道院は壊滅、一部香港台湾のみに残されました。

戦後、大本は復活。二代様までは御神位に「至聖先天老祖」の神位がありましたが…。道院も東京総院が出来ましたが、大本との提携は無いようです。

しかし、形にこだわる事もなく、大本の精神は「霊界物語」にあります。道院は「先天坐法」を以って道とします。この二つを自己に於いて、練磨すれば、ここに吾が三五(あななひ)の道が開かれるのです。あななひの道を歩むこそが「いづのめ」への開化となるのです。光は東方より、万物の救いの成就を為す者は東より始まらねばなりません。東瀛にある日本人の役割もまた重要なのです。ああ、神人は何処に。

「葦原の中津御国はさやぎ居り救わせ給え伊都能売の神」

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大放棄 捨道

2013-02-18 13:41:43 | 大道

かつて、真の悟り、実相世界、涅槃を体現した釈尊は19歳の時に、生きとし生きるもの全ての苦しみを救済すべく、釈迦族の王子の地位を捨て、富貴を捨て、家族を捨て、ありとあらゆるものを捨て、苦行生活に救済の道を求めました。生きるとは、死ぬとは、病とは、老いるとは、彼の心を悩ませた結果の行動です。富もあり、地位もあり、愛すべき人もあり、普通の人間であればとても、捨てられません。釈尊はおそらく直観的に実相世界が何たるかを感じ、現実世界である相対世界(陰陽即ち吉凶、善悪に囚われている世界)に真実の世界がない事を覚り、虚空の中に仏道を求め、普通の人では為し得ない、大いなる放棄を行ったのでしょう。

出口王仁三郎、尋仁聖師も述べておられます。「信仰の為ならば、地位も財産も親兄弟も知己も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功利心や自己愛の精神では、どうして大宇宙に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした悲痛な絶望的な決心がなくては、この洪大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神様に触れることができようか。」この言葉は真実です。至言であります。

真神に至る道に世俗的な幸福を求めることは断じてありません。少しでも享楽を望み、幸福を望むのであれば、たとえ、長年の修養により丹を練り、丹を成就し自己の中の宇宙を完成させたとしても、欲望の業火ににより丹を破り自らが焼いてしまうのです。

釈尊には釈尊の宇宙が有り、尋仁聖師には王仁三郎の宇宙が有り、人それぞれの役割があり、それぞれが歩みの中で覚悟、覚神を顕わしたのです。ゆえに例え、今ここで家族を、国を、愛する人を捨てたからと言って、悟りが啓ける事は絶対に在りません。そして釈尊が中道をとなえたのは、自己の全てを捨てた苦行生活の修行では悟りを得られないことを悟った結果です。出口聖師も自己愛の精神を否定し、自己犠牲の精神を述べられていますが、彼ほど、人を愛する篤情の持主はなかなかいません。

要は大放棄の覚悟あるのみです。

「真の救世をこころざす者の共通の思いは、人類の罪業一切を一身に担いあがなおうとする悲壮な覚悟である。己の繁栄や権勢、名望を望む心を捨て去り、自己は塵、ゴミのように踏みにじられ卑しめられようとも、自らが望んで背負い、人類の罪業、刧数の弭化、消刧を図ろうとする。」

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四つの誓願道。

2013-01-03 17:57:33 | 大道
もとより聖書では神は言(葉)霊であります。そして、日本では古来より言葉は言霊であり、言霊には神が宿り、天地も動かすことが出来ると言います。そして言霊とは本来神との盟誓であり発する言霊は違えてはならないものです。

道院で求修を、老祖の弟子たらんと欲するのであれば、神の御前にて四つの誓願を発せねばなりません。是は至聖先天老祖との儀式であり、盟約であります。自分自身の言霊で「願わくば功行を修めんことを。」「願わくば真諦を得さしめんことを。」「願わくば上乗に到らんことを。」「願わくば衆生を度せしめんことを。」そして最後に「もし、願言に背(そむ)かば上天これをみそなわさせ賜え。」(この言葉は多く誤解をされますが、違約して、落ちこぼれても、それでも、御身(老祖)に添なえさせてください。の意です。)そして、「誠」一字の署名を為します。

この四誓願は言わば、己を救い修め、人を救う礎であります。

功とは内的に坐や心を修める事です。真の本性を明らかにし、真の自己を悟る事です。行は外に向かい、ボランティアや自己の財により他人を救う事であり、人に法、道を説き人を救う事です。

真諦とは宇宙の真理であり、万物の運行、陰陽の働き、真の宇宙太極を覚る事です。

上乗とは真理を会得、体得し、揺るがない境地を得、無我を超えた無極の境地に至る事です。

度とは救いであり、生きとし生きる衆生全てに善なる感化を与え、化刧し救済する事です。

老祖の弟子にとってこの発願は重要であり永遠の指針であります。自分の言霊で述べた以上、そこに盟約があります。そして、この誓願を為した事もある私は、いまだに懺悔しおおいに反省せねばなりません。いまだに未熟者だからです。

「もし大道の自然を修め明らかにすること目的とし和衷共済を指針とするならば四願を決しておろそかにすることはできない。」

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