玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、虚空道。

2023-08-09 19:05:00 | 道院
鬼雷、先に述べます。

虚とは、空であり、空であれば、全て同一であり、故に無となる。そして、無とは、極であり、極とは、は終わりから始まりである。

無極にして、始めて、炁となる。

無極、霊極、亜極。それらを自然の運行と述べる。

荘子の言に、「唯道は、虚に集まる」とあり、荘子は、これを判り易く説き、万物の中で、知覚の作用を備えているものは、皆、呼吸をすることによって、生命を維持している。

その呼吸が十分に出来ないというのは、天の罪ではない。

天は、時々刻々休む事なく、穴を開けて気を通しているのであると。

ところが、人はこの、自然に従わず、かえって、この穴を塞いでしまうのである。

人の肺臓には、空虚な場所があり、これで、呼吸していると同様に、心にも、また空虚な場所があって、道を楽しむ事ができるのである。

室内にも空虚な余裕(ゆとり)がなければ、家庭の中でも争いが絶えないと同様に、心にも、道を楽しむ余裕が無ければ、六根の情欲によって、こころが塞がれ、乱れ、争う事になる。

己自身の胸中にも、虚空の天地が無ければ、道を楽しむ事が出来ず、深山幽谷が隠遁者の住処として、もてはやされるので、ある。

そこで、老子は、「道は沖(虚)にして、これを用う」とある。

そこで、また、土を捏ねて、焼き物を作るにも、土器を土器として、用をなすのは、その中の空虚な、部分にある。

そこで、一切の形あるものが、役に立つのは、その中の空虚な、形無き、無の働きがあるからである。

これと同様に、体の中の呼吸器は、中が空虚であるから、役に立つのであり、消化器も中が空だから、飲食物が、通って行き、血管も中が、詰まっては、血液は流れず、人の心も、物欲や物に囚われて、虚空の心が塞がってしまえば、霊妙不可思議な、働きが失われてしまうのである。



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慧真人訓、病気道。

2023-08-07 18:50:00 | 道院
鬼雷が先に述べる。

人が病を発症するは、因果に依る。

添加物を沢山、喰らえば、自ら破れ、癌となる。

ジャンクフードを沢山、喰らえば、自ら破れ、癌となる。

精製された、小麦粉による、食パン、ラーメンを喰らえば、全身の細胞は即座に拒否し、抵抗するが所以により、己が細胞は腫れる。

ああ、人が便利に食物を得る方針を得れば、飢えはしないが、因果により、人を滅ぼす一因と為す。

食物で言えば、精白とは、邪悪である。

砂糖、白米、小麦粉。

されど、此処で日本人の主食である、白米が、一番優しい。

されどされど、玄米に及ばす。

玄とは暗黒。砂糖は黒糖が一番。そして、小麦粉とは精製されない、黄金の全粒粉が一番である。。。

慧真人訓。

人は、皆、有形の病を治すことは知っているが、無形の病を治すことは知らない。

有形の病を取り除くことは、容易では無いが、無形の病を治すことは、更に難しい。

仮にも.無形の病が起きて来なければ、どうして、有形の病が生じて来るのであろうか。

そこで、無形の病が起こって来ないようにするには、どうすれば、善いのであろうか。

それは、人の予防の如何に懸かっているのである。

所謂(いわゆる)、人の五臓と言うのは、心臓、肝臓、脾臓、肺臓、腎臓である。

心臓の病が起きて来ると、物が言えなくなる。(鬼雷の妻が、心臓の手術をしたが、お喋りが止んだ様にはならなかった。病には個人差があり、訓文は参考にすべきのみ。)

肝臓の病が起こってくれば、怒りの気によって損なわれる。

脾臓の病が起きれば、食べても、その味がわからず、かつ消化しないのである。

肺臓の病が起こって来れば、水を生ずる働きが無くなって来るので、咳が出て来る。

腎臓の病が起こってくれば、五臓の最初に当たる、肝臓(木)に滋養を与えることが出来なくなる。

これが病の有形なるものである。


水(腎)が能(よ)く火(心)を尅(相手に打ち勝つ)して、(水が火を尅する)水を調え、火を能く金(肺)を尅して火を調え、金は能く木(肝)を尅して、金を調え、木は能く、土(脾)を尅して、木を調え、土は能く水を尅して土を調える。

このように、五臓がみな、その調和を得れば、病はどこから起こって来るというのであろうか。

ただし、これを調える、ところの方法について、皆の為に告げなければならない。

それは、喜怒哀楽の七情六欲がみな、病を招くところの源となるのである。

これを用いるのに、その中庸を得る事が出来なければ、病の原因と、なるのである。

喜びも度を越せば、木(腎)を傷(そこ)ない、怒りも度を越せば、木(肝)を傷ない、哀しみも度を越せば、火(心)を傷ない、楽しみも度を越せば、金(肺)を傷ない、この四つのものが一つでも傷なわれれば、土(脾)もまた、これに従って、傷なわれるのである。

土は万物を生育するところの母なので、金木水火の四つのものに、比べて特に大切であり。これを傷なってはならない。

故に、五臓を調和しようとすれば、土が最も重要である。

しかし、この四つの中で、一つでも傷なうことがあれば、土は、これに従って傷なわれる。

そこで、他のものと比べて、土を調和させることは特に容易なことではないので、これを実験によって証明する事が出来るのである。

土を傷なうということは、もし心に病があれば、食は必ず減少し、肝に病があれば、食もまた、必ず多く食べられない。

その他、肺や腎の如きも、いかなる病であろうとも、一たび病めば土(脾)を傷なってしまち、健康の時のように、飲食することもできなくなる。

土と即ち脾であり、脾を調和することは容易では無いという事が分かるので、また土は金木水火によって病を招くことが明白になったのであり、これが無形の病の内に発するところのものである。

また、外から来るものも気を付けなければならない。

それら陰陽風雨晦明などは、皆、病をまねくもので、これを、予防すべきには、どうすべきであろうか。

それは、陰に対しては、これを防ぐに陽を以ってし、陽に対しては、これを防ぐには陰を以ってし、陰陽相和すれば、病は無くなるのである。

風邪には、これを防ぐに、静を以ってし、動静が、全て適宜であれば、病はどこから入って来るのであろうか。

明には、これを防ぐに暗を以ってし、明暗相交われば、自然に合致し、戻る事はないのである。

しかし、その陰陽風雨晦明というものは、皆、陰に過ぎ、陽に過ぎ、風雨に過ぎ、晦に過ぎ、明に過ぎ、その中庸を得ていないところに病の原因がある。

故にこれを予防すれば、内外の病は入って来ないのである。

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孚聖訓、愚道。

2023-07-24 19:14:00 | 道院
愚とは、霊明の心が、モノに蒙(おお)われ、昧(くら)まされて、いる状態である。

それは、あたかも、鏡が塵やゴミに蔽われているように、鏡の本来の光明のはたらきを失うことはようになり、ただの、つまらない、物質となってしまう。

人の本性もまた、鏡と同じように、本来光明であるが、それが、私欲の塵に蔽われて、是非善悪を知らず、正邪を明らかにする事が出来ない。

故に是を愚と、言うのである。

この愚の字は、修道の大障害である。

そこで、聖人や哲人の書をよく読み、達人の教えを多く学ぶべきで、そうして、自らの心の光明が、もの(欲)に蒙(おお)われていて、その愚かな事を知れば、則ち、つとめて、智慧の明らかな者の、教えを受けて、これらの愚を取り除き。それによって、一盲、衆盲を引き(一人の盲人が多くの盲人を案内する、一人の愚者が他の多くの愚者に、指図する喩え)、ぞくぞくと、誤った邪道に入り込むことから、免れる事が出来るのである。

そうして、こそ、始めて修功は、日進月歩の勢いで進むのである。

また、全て蔽うところがあれば、必ずこれを蔽うところの物がある。

これを蔽うとは、また、必ず、その心に欲するところの欲望の対象となる物が存在するのである。

そうすれば、あたかも、魚が網に入るように、自らもその欲望の網の中には入り込んで、自由な働きを失い、また、自らの生命を縮めるのは、皆、欲望を貪るからである。

貪るところがあれば、智者といえども、必ず、心の霊明なる働きが蒙われてしまい、恋する(モノに執着する)ところが無ければ、愚者といえども、必ず智慧が明らかになる。

その、貪ると言う字が、また、愚となるところの本である。

それ、人の一生は、極めて短く、はかないもので、一旦物欲に、蔽われてしまうと、一生涯、目覚めることは、無く、そこから抜け出す事も出来ないのである。

昔から今まで、どれだけの英雄が、この為に失敗して、地位や名誉を失ったことであろうか。

また、どれだけ、仏道に志した人が、この為に、その真実の修道から離れて、邪道や魔道に堕ちたことであろうか。

数多くの地獄にある冤魂(冤罪で死んだ人の魂)、茫茫たる(はてしない)幽明(冥土と現世)
の間を彷徨っている、鬼畜は、いつまでも、その苦界から、抜け出す事が出来ず、これらも全ては、愚による害はないものは、無いのである。

諸子が、吾が門に入って、修道する以上、吾の教えを聴くことが出来、また、聖賢の経典を読み、心の霊明を蔽うところのものを取り除いて、愚の弊害に陥らないようにすべきである。

そこで、正道に随って、聖人の域に達し、塵や垢を取り除いて、その本来の光明に復(かえ)ることはわ修道の眼目であり、また、吾の望むところである。

吾が去愚の箴(しん)の中、「礼斉頂参するは、実に至迂なり。」の一語は、修道する人達が僅かにこの、表面的な儀式のみを
知っても、それはただ、求道の方法の一端を明らかにしたに過ぎず、得道(悟り)の境地では無いという、ことを示しているのである。

(鬼雷述べる。礼斎頂参とは、純粋に、イスラム教(イスラームの道を日本人が見れば、愚者のように、映るかも知れないが、その迂遠の道が、実に真の神道となる事が在る。多くの信徒は、酒を飲まず、メッカの方角に真神に至純を捧げておられる。決して個人的な祈りはされないのである。テロの輩と同一とするなかれ。)のように、神にのみ、帰一すれば、至善となるが、神に媚びへつらい、我が一族が神のお陰を受けたいとか、我一族の繁栄の為に、供物を捧げるとか、我が欲望の為に、神を利用する輩とは、実に愚者の代表なのである。)

決して、これらの表面的な儀式にのみ、固執し過ぎてはならない。

これらに執らわれなければ、智となり、固執すれば、愚となる。

正道でさえも、これに執らわれれば、このように愚となるのである。

ましてや、それが邪道の行いであれば、尚更のことである。

読者は決して、これを誤っては、ならないのである。







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孚聖訓、悪道。

2023-07-19 19:41:00 | 道院
悪とは、何であろうか。

我々の日常における想念の中に於いて、不正なる一念邪道に引き込まれるのである。

人として生まれた以上は、生まれると同時に悪(人心の欲望)も合わせ持って来たのである。

この悪の一字を具体的に述べると、人というものは、美(よ)いものを見れば、そこに惹かれて、そこで悪(欲心)が生じ、財貨というものを、手にする事ができると思えば、そこに悪(欲心)が働き、大きな勢力や高貴な地位を見れば、大いに繁栄することが出来るので、また、そこに悪(欲心)が芽生えるのである。

すべて、自分の無いところのものを、もし、これを手にすることが出来ると思えば、なんとかして、これを手に入れようとするのである。

このように、すべて、自分に無いところの、ものを手に入れようとする、欲心こそが、念々に人を邪道に引き入れて、悪業を生じる本となるのである。

悪を積み重ねて、息(や)むことがなければ、悪の濁流に押し流されて、源(もと)に帰る事を忘れ、そこから、種々の因(悪因)を生じ、それによって、種々の果(悪果)を招き、その結果、地獄鬼道(夜叉、羅刹、餓鬼等のいるところ)に淪(おちい)り、千万年にわたって、その源(もと)に回ることは、難しいのである。

そもそも、その初めの原因は何処にあるのかと言う事を突き詰めてみれば、それは、初一念の誤りによるのである。

そこで、修道の人は、この一念の懼るべきことを自覚すれば、初めて念が生じた時の、初一念のきざしを、審(つまび)らかにし、もし、それが善の一念であれば、これを押し広めて無窮(無限)にその働きを拡大すべきである。

もし、その初一念が不善であれば、その根株を取り除き、その枝葉を取り去って、その痕跡を止めず、再びこれが芽生えることのないように、するのである。

これが、「論語」でいうところの、「顔子能(よ)く過ちを弐(ふた)たびせず」、「三月(久しく)仁に違わない」ということである。


また、人の一念というものは聖賢となるのも、愚かしき者となるのも、すべては、皆、この一念にかかっているのである。

本来、善であるべき本性を昧(くら)まして、悪業を積み重ねる事は、明哲な者(賢人)がなるべき事ではない。

これが、悪を戒めるべき所以である。

悪業というものは、身の三つ(殺生、偸盗、邪淫)、口の四つ(妄語、両舌、悪口、綺語)、意の三つ(貪欲、瞋恚、邪見)で、これを十悪と謂い、これに相反すれば、十善となり、すべて、仏教の経典で、述べられている通りである。

また、人が悪に流され易いのは、その習わしによるのである。

しかし諸法は、無相(相がない)であり、悪もまた、無相である。

そこで、既に心より、生じた以上は、亦、心によって滅することを知らなければ、ならないのである。

もし、能く潛(ひそ)かに心懺悔して、外功(外に為した悪い行い)を以て、これを反省して、赦しを求(こ)い願い、内功をもって、未成(未だ生じてこない)の悪を阻止すれば、吾が本性は、本来清浄光明なのである。

そうなれば、諸天神仏が自然に感応され、たとえ、十悪の大罪悪を犯した人といえども、許されないことは、無いのである。

ましてや、一念の不正や誤りにおいても、なおさらのことで、言うまでも無い事である。

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孚聖訓、実道。

2023-07-18 18:16:00 | 道院
実とは、虚に対して言い、幻に対して言い、また、因(原因)に対して、果(結果)を言うのである。

全ての人が生まれるには、必ず、その因があり、上は聖人から、下は愚者まで、皆、その自(よ)って来る來源や、因とするところがある。

修道の人は、その因に順(したが)い、その果に循(したが)うべきであり、人の身分の高いことを羨んではならず、また、己の身分の卑いことを嘆いてはならない。

これが、真実なる実を守るところの一つである。

また、虚に対して、実と言うのは、たとえば、現在富貴な身分にいれば、その富貴は実であり、それに反し、貧賤は虚となり、その身分が貧賤にいれば、その貧賤が実であり、それに反し、貧賤は虚となるのである。

これがいわゆる、「位に素して、その他を願わず。」ということであり、修道を歩む者は、これに勤めねばければ、ならない。

これ、また、実を護るところの道である。

また、幻に対して、実と言うのは、前に述べた富貴や貧賤そのものが、みな幻影であり、たとえば、この富貴を得ても、喜ぶに足りず、また、これを失っても憂うるに、足りないのである。(それらは、すべて、一時的な幻影であるからである。)(貧しき者は幸いである、何故なら天国は彼らのものであるから。)

修道の人は、後天的(物質世界)の一時の幻影に惑わさられることなく、先天(実相世界)の永遠の真実を守り定めるべきである。

真の実とは、いかなるものであろうか。

それは、先天の霊炁(宇宙創造の無形の炁氣気)だけである。

先天の真の実は、何を以てこれを修めるのであろうか。


それは、吾が丹田を守ることに在るだけである。

丹田を守るとは、坐に於ける、守実の初歩の工夫である。

(鬼雷注 先天坐は、上中下の丹田に着相(執着)せず、任運自然に座るだげである。されど、果として、実を自然に備わせる。故に、無為に実を守る事となるのでございます。)
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