玄徳道

道を語るブログです。

関羽雲長 関聖訓、氣練道。

2023-07-15 19:50:00 | 道院
人が道を修めるのには、自ら専一にして、集中することが大切である。

一に集中して、他のものによって、惑わされ無い者は、その内候と外功は、自ずから、深遠となって、その運用も自由自在となる。

何を専と言うのであろうか。

目に専一とするところがあり、これに集中すれば、神は渙(ち)ることなく、耳に専一とすることろがあり、これに集中すれば、その精は漏れる事が無く、口に専一とするところがあり、これに、集中すれば、その炁は必ず凝ることになり、鼻に専一とするところあり、これに集中すれば、その霊は必ず聚(あつ)まるのである。

そこで専一にして、これに集中するとは、どう言う事であろうか。

それは、みな、後天的な意識が無く、また、有形の色相も無いところから、言を尋ね、意を究めるのである。

先天の功候は、本来静定にして、安定しており、それが長期にわたって、固まってくれば、その功は純粋となり、その修は専一となり、その心もまた、内に主催者が確立するのであり、そこで、静定安定の状態から運用面に入るだけである。

この運用のはたらきは、静定の極地より、出て来たものである。

しかる後に、至善の地(心の本来)に止まることが、できるのである。

すべての運行は、循環して、またもとの、始めに復ってくる。

それには、その軌道から、はずれることは無く、これを真の専一と言うのである。

もし、後天的の人欲の妄念や、幻相の意識がはたらいているにも関わらず、これにこじつけて、これを正当な功候とみなせば、自らを欺き、人を欺くことになり、どうしてそんな事が許されようか。

大道には、所謂(いわゆる)、先天と後天の区別がなく、それを先天と後天に分けるのは、先天の天理と、後天の人欲が、修道の主体となるからである。

また、修道の面から静を天理といい、動を人欲という。

また、健にして、自ら強めるものを天理といい、自ら惑い、惰(おこた)る者を、人欲というのである。

天とは各人が生まれ、各々(めいめい)に、賦与されているものであり、そこで、天がある以上、そこには、必ずその理がある。

この、理のあるところの、その本性はかならず清く、一貫しているのである。

いわゆる、人とは、後天的な、名称でこれを人と称する以上、その霊は、万物の中で最も優れている、そこで、その人心を正して万物の霊長としての本性を回復して、はじめて、先天に返ることが出来るのである。

人は天と地の中間にいて、この中庸の道を守り、その修養の功候は、動を欲するか、静を欲するか、いずれもみな、これを決するのは、心である。

その心の動きが正しければ天理に合しないものは無く、もし、心の動きが不正であれば、妄動して、人欲となる。

静にして、正しいものは、必ず専一にして、その運用は自由自在である。

もし、静にして、これを正しく守る事ができなければ、心には主体性が無く、枯木や、燃え尽きた灰のようになって、たとえ静であっても、そこには、私心により、沈滞してはたらきがなくなり、そこには、、必ず人欲が介在しているのである。

そこで、いわゆる、修めるには、いささかも、人欲や雑念が、介在して、自己の本来の性霊を惑わしては、ならないのである。

いわゆる、坐をするにも、堅固でない者には、竅(人体の神秘)を語ってはならない。

坐して恒(不変)で無い者には、専一継続を語ってはならない。


坐して正しく無い者には、氣の運行を、語ってはならない。

坐して、心が平坦で無い者には、氣の貫通を語ってはならない。

坐して、恬滴で無い者には、氣の昇降を語ってはならない。

坐して、安寧(やすらか)で無い者には、守る事を語ってはならない。

このように、坐の工夫は、難しいことは、真に不可思議なものである。


しかし、また、坐の易しい面は、坐がその正しい軌道によって動けば、その氣は、自ずから運(めぐ)るのである。

坐をして、心が定めるようになれば、河車(丹田、チャクラ)が、自ら通じるのであり、坐をして、無心無為となれば、心神は、外に馳せることなく、坐して、執われることが無くして、任脈と督脈が自ずから、通じて、上、中、下の三丹田の純陽は、自ずから円明となり、その恍惚の間に自ずから、明心見性して、真の主宰を体得することが出来るのである。

坐の易しいことは、実にこのようなものではなかろうか。

そこで結論としては、坐の易しくもなければ、難しくもない。

ただ、心が光明正大にして、自ずから定まり、人欲のために惑わされる事が無ければ.坐の工夫は自ずから進んで自由自在となるのである。

坐に志す者は、自ら悟るのである。


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老祖訓、人の救われる道。

2023-06-24 19:46:00 | 道院
全ての基礎は、自分の心にある。

今世及び、来世を救おうとすれば、先ず、自分の身を修めることから、始めるべきである。

万行は、一より.始まり、全ての行いの基礎は、一心が自ずから主体となる。

末は、本より始まり、彰(あきらか)なものは、微かなものは微かなものより始まる。

結果というものは、原因より、始まる。

そこで、原因のない結果はというものは、ありえないし、また、結果の無い原因というのは、ありえない。

このようにして、一切の因果というものは、この心から.離れる事は出来ないのである。

それは、例えて言えば、これがあれば、それに関連して、それが現れてくるし、これが生じてくれば、それに関連してそれが生じて来る。

そこでもし、これが無ければ、それは現れて来ないし、これが滅びてしまえば、それよ滅びてしまう。

心中の一念の僅かな、差がやがて、千里万里の大きな誤ちとなる。

初めに慎むことは比較的容易であるが、しかし、終わりになってその結果を挽回する事は難しいのである。



故に、よく、その始めを慎む者は、その終わりを全うすることが出来る。

又、よくその身近な事を慎む者は、それが、やがて、遠いところにまで、影響を与えて来るという事を知っているのである。

そこで始めに、その根本を重視し、これを慎むのである。

その寄って来る原因について言えば、霊(明)と昧(迷い)の分岐点、人間と禽獣の違いは、ほとんど微かな一点にある。


その心中の妄念に打ち克つことが出来れば、それは、聖賢となる、ところの始まりであり、屠刀(牛や豚を殺す鋭利な刃物であり、これが転じて人の物欲を指す)を放下するのは、仏となるところの始まりである。

これを最初の原因の段階で慎み、これを最初の微かな段階でその、兆しを審らかにして、見極め、この心を、昧ますことなく、これを始めに明らかにするのである。

己れ自身の誠を篤くするにも、これを始めに修めるのであり.吾の四顔(一乞い願わくば上乗に至らせ給え、一乞い願わくば、真諦を得さしめたまえ、一乞い願わくば、功候を得さしめたまえ、一乞い願わくば、衆生を済度なさしめたまえ。)を実践するのにも、この自己の欲望に打ち克つことに始まるのである。

能(よ)く、その為すところを押し広めていくにも、その行いに始まるのである。

たとえ、その夙根(前世でのその修行や基礎)や、智慧や境遇、功候造詣なとば、人によってそれぞれ、同じくでは無いが、ただ、その天性の善によって、その仁愛の徳を広め、人として道理を全うし、道慈によって己を救い、人を救うところの真実の功果を実証することが出来れば、皆同じように、道を覚ることが出来るのである。
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黙真人訓、究坐道。

2023-05-29 21:24:00 | 道院
坐の真の意義は、ただ、静を凝らすことだけである。


どうして、静を凝らさなければ、ならないのであろうか。

それは、後天に生まれて來てから、すべて、一切の物質によって、誘惑されるからである。

これらの誘惑は、みな六根(目、耳、鼻、舌、身、意)によって、六塵(色、声、香、味、触、法。眼で見て色塵となり、耳で聞いて、声塵となり、鼻で嗅いで香塵となり、舌で嘗めて味塵となり、身に触れて触塵となり、意に着して法塵となる。)となる。

知らず、覚らずのうちに、心が外のものに、囚われて、常に妄念妄想をめぐらし、元気を損傷し、それによって、先天の炁は、日に日に、衰弱して、固有のエネルギーを消耗し、尽くすのである。

(鬼雷注 固有のエネルギーとは、人の魂力であります。今の人は、自己の根源なる親神を知らず、ただ、惰性に、世の習慣の中で、生きているのみであります。多くの聖人や哲人のように、何故自分が生まれたのか、何故、生かされているのか、疑問を持たれ、自己の生来の役割を知ろうとする方が非常に少ないのでございます。)

吾が道の坐功では、初歩の入門を形坐と云う。

どうして、形坐を以って入門とするのであろうか。

それは、形坐を以って入門としなければ、上乗に至ることが難しいからである。

坐椅子をもって徐々に習坐し、平々坦々として、損なうことが無いようにするのである。

坐功は悠久のものであり、その成就した者は、少なく無いのである。

坐功は先ず、形坐より始まり、心坐に入り、心坐より、息坐に進むのである。

息坐は、黙(一念不生)を悟り、これが坐の根本であり、先天の坐でもある。

それは、恰も、胎児が生まれてくる前に、氣海(母親の胎内)に平坐している状態であり、そこには、少しの雑念も意念なども、存在しないのであり、それは、なんと無為自然ではなかろうか。

息坐とは、先天の炁霊の坐である。

故に、形坐より、心坐。そして、心坐より、息坐に進むのである。

そこで、心坐の工夫には、何か守るべきところがあるのであろうか。

形坐と心坐の工夫を用いるところは、同じであろうか。

もし、心が外の物に囚われて、混乱している状態で、この心を集中して、安定させることは、非常に難しいのである。

例えば、芸術などを習練する場合に、素晴らしい演技や、スリルが多くあるが、当事者は至極平静無事であるが、観客は、これを素晴らしいと賞賛するのである。

ある者が言うには、この種の芸術は人々が
誰でも習練して体得出来るものでは無いのであると。

しかし、その実、決して人々が習練して、得られないものでは、ないのである。

ただ、その苦しみに耐えて、習練することが、出来るか否かにかかっているだけである。

この習練が成就した後には、心中に少しも苦痛が無く、ただ、快適を感じるのは、どうしてであろうか。

それは、内に充実して、定まるからである。

内に充実して、定が確立されれば、坐功において、すでに一度の功候に達したのである。

形坐は、心を練り、氣を練り、質を錬る所以である。

心坐は念を空とし、竅(穴交)を虚とし、自然の運行に任せ、以って先天の炁霊の自然の活力をのばし、適合される所以である。

息坐は、先天の炁霊の自然に坐し、ただ平黙だけである。

平黙を行う事が出来れば、息坐は自ずから、功を現すことが出来る。



形坐の工夫は、用いるには、反復くりかえし、しばらく困難があったとしても、竅を守り、また、念を清めることである。

守るということに固執することなく、また、息坐の工夫を用いてはいけない。

あまり、守ることに固執すれば、目眩がする。めまいがすれば、滞ることになる。


心坐で守る事は、心の本来の主宰(内在神)を守ることであり、端然として、位を正す(黄中通理=中和の位に居て、正を体得する事が.これ、位を正すなり。)だけで、自ずから、能(よ)く六通四闢(六通とは、陰陽風雨晦明に通じることであり、四闢とは、四方が開けること。)して、以って中和を致すが出来る。ただ、それだけである。

このようにして、和の光が充実してくれば、直晶(陽氣)は自ら昇り、曲汚は自ずから滅びてしまうのである。


坐は、必ず悟らなければならない。

坐の経訓を能く悟ることである。

悟れば必ず黙することが出来るのである。

念が無い時は、一たび感ずれば通じ、一たび通ずれば、即ち悟り、一たび悟れば、化し、一たび化せば、明らかとなる。

吾が師(老祖)は、平黙の二字を以って坐功の主旨と為しているが、それは、坐功の秘伝だけでなく、もし能く平黙を得ることが出来れば、一時の先天の炁霊の感通があり、前もって、予知することもでき、本性を見ることも出来るのである。

たとえ、それが一時的であっても、継続して、日に日にこれを発展させれば、成功することも出来るのである。

それには、必ず継続することが最も大切であり、一面では心氣を平にし、黙静を修めるのである。


静の一字は、形坐の時期においては、時間的な制約を受けるのである。

この、静は四度(一度=4分)より始まり、八度、十六度、三十二度などと、時間の制約を受けるのである。

坐らない時には、坐っている時の静には及ばないのである。


心坐の習練は、たとえ坐らない時においても、形坐の時と同じように錬るのである。

たとえ、暇で何にも無い時に、心を練ると言う事は、比較的容易である。

これは、暇で何にもないので、この心があまり、乱れていないからである。

一旦事ある時には、心坐を練ると言う事は難しい。

それは常にそのことのためにら心配するからである。

更に事が思うように行かず、意気消沈している時や、怒り心頭に発する時に、心坐を錬ることは、更に難しいのである。

されど、それを克服するには、修練することを知り、習練に志すことである。

最初は習練しても上手くいかないが、この志しを変えることなく、必ず再三再四錬るので、そこで成果があがるようになるのである。

最も心配するのは、一度習練しても上手く行かないので、中途に挫折してしまうことである。

それでは、効果を上げることは出来ないのである。

天下の事はみな、粗より、精に進み、錬ることによって得られる。

学んで時々刻々にこれを習うようにすれば、必ず最高の玄妙の境地に至るのである。

それには、必ず人知れず、苦労をして、一途に貫いて、習練に励み、これを学び、悟り、実行していけば、善いのである。

いかに高遠な理想をもっても、千里の道も一歩からであり、高い山に登るにも、低い処から、登り始めるのである。




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孚聖訓、劫道。

2023-03-03 20:33:00 | 道院
沙宝。

雲宝。

孚聖、妙山より、命を奉じて来たる。

紛紜たる、世劫。

道は昌(さか)んに、なり難し。

黒闇の夜長く。

夢も亦、長し。

首を回(めぐ)らせば、白雲多く変幻す。

田は滄海に帰し新桑に変ず。

世上の劫は已むことなく、人心は陥溺して、これを救うにも救うことが出来ず、これを消すにも消す事ができない。

ここで劫を消したとしても、あそこで、劫が大きくなり、絶えず、劫を消していっても、劫は、益々大きくなっていくのは、どうしてであろうか。

どうして、科学が昌明(さかん)になれば、なる程、災劫が益々荒れ狂ってくるのであろうか。

たとえ、多くの災劫の発生を観て見ても、人事で想像が出来ない程、悲惨である。

戦禍や、水害火災、震災、空の難、海の難などが断(た)えず、発生しており、また、各種の癌性の腫瘍、新型コロナウィルス、エイズ、エボラウィルスの如き難病奇病などは、直接にせよ、間接にせよ、科学によってもたらされたもので、医薬といえども、これが為に効力を失い、人事では如何ともし難いし、神事でも、また、徒(いたずら)に期待に答えることは、出来ないと叫ぶだけである。

しかし、為すことの出来ない者は、これを捨ておいて、何もしないようである。

これは、吾が修人の当然あるべき、考え方では無いのである。

修人なる老祖の弟子は、皆、四大宏願(救済、上乗、真諦、功候)を抱いて来た者であり、為すべき事はもとより、心力を尽くしてこれを為すべきであり、為すことの出来ないようなものも、依然、その心智を尽くして、試みにこれを為すべきであって、全ての一切の如何せんともし難いと言うことで無ければ、決して中途で、辞めたり、することはしないのである。

道を打ち立て慈を宏めるところの精神もまた、当然こうあるべきである。

大道が世に行われるようになって、百五十年近くになる。

その間に受けた所の艱難困苦及び、種々の障害はどれだけあったか、わからない。

しかし、聖神仙仏の劫運を消弭しようとする、大決心は従来の、未だかつて少しも、その志が退いたことがない。

それどころか、劫が酷ければ、酷いほど、益々これらを消弭することに努めるので、道が一尺高くなってくれば、魔もこれによって一丈に成長するという節は、根拠の無い、とりとめの無い事であると見なすことが出来る。

ただ、吾が修人が、誠心誠意力を尽くして、多くの人の志を一つにして、一致団結し、全力をもって劫魔に挑戦し、多くの人と心を一つにすれば、至誠は、終わりには必ず、災劫をことごとく消して、道慈の光は昌(さか)んとなり、太平の世界を見る事が出来る。

しかし、これを言うことは難しくないが、これを行う事は難しいのである。

各方は、共にこの任を、重くして巨大な任務を担(にぎな)うのである。

それ、共に勉めよ。






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黙真人訓、神道。

2023-02-20 22:15:00 | 道院
道を学ぶ者は、必ずその身を調柔し、その気を調柔して、はじめて神に合し、最後には想念がともに止み、気息も又尽きて、はじめて無に合するのである。

何故に、神が無に合して、はじめて道に入る事が出来るのであろうか。

それは、天下の物はみな、有より生じて、有は無より生じてくるからである。

調柔の二字は、調について論ずれば、調整、調養、調正などなど、一様ではない。

柔とは則ち、和である。

身を調正するとは即ち、道の理によって身を修めるので、身が調わなければ、則ち精を損ない、その行為は不当で、でたらめとなり、その行動は傲慢となるなど、一様ではない。

その身を調柔するとは、その身の不当なところを調和して、当を得るようにし、不和なところは、以て和を得るようにし、不正なところは以て正を得るようにすることである。

故に身が調柔しなければ、精を傷(そこ)なって疾病を招き易いのである。

心が調柔しない者は神を失い、神を失う者は、又種々の異なった現象があらわれる。

ある者は自ら又これを、覚り、人はこれを知っていながら、そのなった原因がはたして、どこにあるのか解らないのである。

気が調柔できない時には、時(つね)に暴虐の気を起こして重大なる疾病を招くだけでなく、さらに早死にする者も、どうしてそうなるのか、その原因が明らかでないのである。

吾が道院では坐功を積んでいる者は、その病を招く原因について、多くがこれを明らかに理解している。

而(しか)し神が無に合し、気息も又尽きると言う事は、又善く悟り、勤め修め、功候の深純なる者でなければ、これを明白にすることは、出来ないのである。

例えて言うならば、老子がいうには、「気を専(もっぱ)らにし、柔を致して能(よ)く嬰児たらん」と。

何を気を専らにするといい、何を以て柔を致すのであろうか。

生まれて一年にみたない赤子というのは、元気を未だ散じることなく、乾体は未だ破られることなく、百に一つも知る事が無いとは、まさに、これ気が専らになったところの妙であり、百に一つも能がないとは、まさに、これ和を致すところの妙である。

そこで気を専らにして、柔を致すは、無知(知ることなく)無欲(欲することなく)無思(思いなく)無慮(慮(おもんぱか)ることなく)にして、神気が故に能(よ)く一を抱き、魂魄が故に能く相随う所以である。

或いは、修練の士がいて、神気を収め蔵しているといっても、それはただ、その妄想を除き、その呼吸を調えているだけで、神は気に入る事ができず、気は神に帰する事ができず、真息は相依る事が無い。

故に一を抱いて気を専らにし、柔を致すこと、嬰児の如く、自然の妙を有する事が出来ないのである。

この一節の要点は、元気を充ち固め、乾体を充ち固めて、無知無欲無思無慮にして、功を用いる事に在る。

そして、神気が自然に一を抱き、自然に真息が相依れば、凡息は自ら尽きるのである。

もし、如何にして一を抱くか、如何にすれば、真息が相依るかを、人為的に尋ねれば、その相に着(執着)することによって失われ、功を進める事は出来ないのである。

天地は柔和を以て万物を生じ、厳粛を以て万物を殺す。

柔和とは生気であり、万物はこれを得て、生じるだけでなく、万物で能くこの気を存する者もまた、長久でいられるのである。

厳粛とは殺気であり、万物はこれを得て、死するだけでなく、万物で自ら、その気を造る者で早死にしない、ものはないのである。

この意義を明らかにする者は、万物の理と同じであり、則ち身を修める者は、先ずその性情とその気質を調え、我が身をして、常に生の方に処(お)るようにして、自らの死の因を造らないようにすることである。

且つ柔弱は、春夏の気であり、人がこれを得て生ずれば、性情は平和となり、事を行っても、寛恕となり、自ら是として、固執する事無く、勝とうとして、人と争う事無く、公平無私の心を以て、天地和平の気を養い、その身の生気を培養すれば、その気は、自然に長久となり充ち固まるのである。

故に、「人の生や柔弱にして、死や堅強なり、万物草木の生や柔脆なり、死や枯槁なり」と言っているが、これは老子の心坐の方法である。

これは、ただ、一二の例を挙げて、以てめいめい坐功に勤める者の参研の対照とし、真経の奥妙を悟り、坐とともに、功候を進めて、これを明らかにするのである。

自然に純任(まか)せるのが先天の坐法であり、それがとりわけ重要である。

能く求めずして、得るところの境地に至れば、恬適爽快である。

四大皆空の時は、天地との間に界(さかい)がなくなり、無相無知にして、渾然と合して一となる、これが上乗の妙である。

もし、よく功を用いれば真経も又、その要点を明らかにすることは、難しくないのである。

礼義孝弟謹行は、これ、その要点である。

「一たび他念があれば、胚胎は皆非である。」

すなわち、謹行礼義孝弟でなければ、たとえ、君の坐がどんなに、良くても、たとえ、真経が全部わかったとしても、その功を成就する事は出来ないのである。

これは、その一端を挙げて言ったのである。

坐功の功候を大成させるには、ただ、坐功のみを積んで、意を誠にして、心を正し、身を修め、知を致して、至善に至り、明徳を明らかにすることが無ければ、これを学ばずして、目的に到達する事は出来ないのである。

吾は新修のために、進言し、善くこれを悟ることを望むのである。
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