天理良心は、自然に基づくものであり、私情に偏った人欲を、どうして欲しいままに、する事が許されようか。
世間の多くの聡明なる者は、誤って、貪り欺くことを、真理と解している。
天が人に授けた理。
これを、天理と、言う。
この、天理がどうして、能(よ)く知り、能く明なのであろうか。
それは、良心だからである。
良心とは、良知良能である。
何を良知良能と言うのであろうか。
それは、知らずして、知るのがこれ、良知で在り、能くする(習得による事無く、自然に能くするを言う)のが良能である。
天の人に授けるところのものは、本来は公平無私で、心を差し挟む事無く、人々に対して本来均等である。
従って、人々は皆、聖賢仙仏となることが出来るのであるが、何故、人々が皆、聖賢仙仏となる事が難しいのであろうか。
これには、多くの研究の余地がある。
天から授けられたところのものは、それは、あたかも、一握りの種子を巻き散らしたようなもので、世俗の衆生は、めいめいの環境や資質が、それぞれ少しづつ異なっている処がある。
或いは、父母の遺伝や教養、及びそれぞれ遭遇することも、一様ではない。
これは、大きく二つに分けて言えば、富貴と貧賤に拘らず、善と悪との二つの途(みち)にほかならないのである。
ある人は、生まれながらにして、能く知り、また、苦しんでこれを、明らかにする人もあり、また、学んで智を致す人もあるが、その知り、明らかにし、致すに及んでは、則(すなわ)ち、同一である。
これによって、天が授けるところのものは、多数が同じであると云う事がわかるのである。
ただ、後天の環境や、めぐり遇いによって、各種各様の人がいるので、それは、人心の異なることも、あたかもその顔が、めいめい異なっているが如くである。
ここで、善人については、暫く論じないことにする。
それは、善根夙慧のある人は、一度渡(すく)
えば、明らかに成り.一度(ひとたび)学べば、その天理の正を知るからである。
それに対し、不善の人は、何故渡(すく)い難く化し難いのであろうか。
それは、後天に於いての嗜好や私情に偏った人欲が習性となって、しまうからである。
たとえ、それが、いかに閉ざして覆われていても、その内心では、常に天理良心が働き現れている。
この現れは、別に本人が希望するところのものではなくても、それは、自然のあらわれである。
この僅かな現れを、疎かにし、本人がそれを重視しないので、一度(ひとたび)あらわれてもみな消えてなくなり、それだけの事に止まってしまう。
それは、私情に偏した力が強すぎるからである。
能(よ)く、このわずかな現れを重視して、これに反復して、追究し省察して、大切にすることが、即ち工夫を用いるところの、要点である。
小さい事を積み重ねて、大と成す事ができ、少ないものを積み重ねて多と成す事が出来るように、この僅かな現れを積み重ねて行けば、この、私情に偏った人欲は、日に日に減して行くのである。
朱子は、ここのところを工夫して頗る会得するところがあった。
彼が言うには、人々が心を修めるのに、これを説けば千言万言を費やしても、それを説き尽くす事は出来ず、その法門も非常に多くあるが、帰するところは、只、天理と人欲の争いに過ぎないのであると。
例えて言えば、天理と人欲は、吾が心中において、あたかも両軍が相対峠しているようなもので、天理が一歩進めば、人欲が一歩退きら人欲が一歩進めば、天理が一歩退くのである。
この工夫を用いる時には是非とも、しっかりと足を踏みしめて、必ず人欲に打ち勝つ信念を持って、少しもこれを揺るがせにすることは、出来ないのであり、昔の聖賢が朝に乾乾として、勤め励み、夕べに惕(おそ)れ謹しんで、戦々兢々として、戒慎恐懼したゆえんである。
また、もう一つの例えによると、修人の中のある人達は、この大道が平坦なる大通りであり、当然この大道を堅定不二の心を持って歩まねばならないと言う事を知っている。
しかし、また、別に一本の小路がある。
それは、ある一つの物事に君が引きずられて、知らず知らずのうちに、この脇の小路に足を踏み入れてしまうことになる。
そこで一体如何なる物事によって、君は引きずられるのであろうか。
この物事とは、或いは財貨、利益、名誉、地位や六根六塵あったり、要するに人々の愛好するところの物語である。
そこで一たび、この脇道に足を踏み入れてから後は.間も無くして身心上における非常な苦しみや、精神的な荒廃で、その苦痛に耐えられなくなるのである。
そこで夙根ある人は、この時になって初めて、道を間違い、是非善悪の判断が間違っていた事に気がつくのである。
この時になって、これら一切の誤りから、脱却しようと思っても、しかし、それは大変な事である。
それは、既によくない事に染まっているからである。
そこで必ず大なる明智と決心と犠牲を払って、はじめて、元の道に戻る事が出来、自己本来に復(かえ)る事が出来る。
これらの明智、決心と犠牲は、夙根(前世の修養)の厚い人にして、はじめて出来るのである。
或いは、別の種類の人は、これらのイバラの荒廃した道に入り込み、苦痛の段階に至ってもまだ、自覚する事は知らずに、さらに勇気を振い起こして、自分は奮闘するのだ、自分はイバラの荒廃した道を一掃して、今迄通行出来なかった小路を切り開いて、旅人の為に福利や便宜をはかり、その為に自分は勇敢に突進し、この小路を開く上での犠牲になるのだと、大声で叫んでいるが、しかし、これは徳を度(はか)らず、自らの力を量らず、道理に合わない事であり、それは、人々のみな、盲従すべきものでは決してないのである。
人々には、本然の良知良能があって、人々のすべて一切の表現「中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)れる」を明らかに弁ずることが出来るのである。
世俗にいる、ある人は自ら聡明てあると自惚れているが、その実、誤りと真理の違いは、たとえ修人でなくても、また、能(よ)く明らかに弁ずる事が出来るし、それらの人々の心中で考えていることと為していること等、一言一語、一行一動は皆、あたかも、たなごころを指すように明らかである。
従って、これを口に出さず黙して善を修悟する者は、吾が師匠であり、不善なる者は吾が資(たすけ)となる(自己にこれらの不善の有無を反省する資(たすけ)となる)のである。
御釈迦さまが、現身説法(現世に姿をあらわして法を説き衆生を済度すること)すること数十年にして、円寂(帰道、死亡)の前に弟子が数ヶ条について質問した。
その一ヶ条に、不信の弟子が、吾が仏(釈尊)
が円寂した後には、如何に処理するかと、御釈迦さま曰く、「黙擯」(黙してしりぞける)
と。
この二字に寓されている意について、各長老須菩提はみな、大いに覚悟った。
各弟子も又、頓(とみ・急に)に明らかとなった。
蓋し、修とは一心の誠に在り、誠でなければ道慈の根幹に到達できないのである。
全て一切の因果輪廻、天国、地獄は皆、自ら修め、自ら練り、自らの心に工夫を用いるのである。
天理良心は如何なる人といえども、これを滅却させることは出来ない。
只.自らのこころを修練して、みずからの功候を成す事に在る。
各位はそう思うであろうか。