玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、天道。

2023-02-18 17:42:00 | 道院
天理良心は、自然に基づくものであり、私情に偏った人欲を、どうして欲しいままに、する事が許されようか。

世間の多くの聡明なる者は、誤って、貪り欺くことを、真理と解している。

天が人に授けた理。

これを、天理と、言う。

この、天理がどうして、能(よ)く知り、能く明なのであろうか。

それは、良心だからである。

良心とは、良知良能である。

何を良知良能と言うのであろうか。

それは、知らずして、知るのがこれ、良知で在り、能くする(習得による事無く、自然に能くするを言う)のが良能である。

天の人に授けるところのものは、本来は公平無私で、心を差し挟む事無く、人々に対して本来均等である。

従って、人々は皆、聖賢仙仏となることが出来るのであるが、何故、人々が皆、聖賢仙仏となる事が難しいのであろうか。

これには、多くの研究の余地がある。

天から授けられたところのものは、それは、あたかも、一握りの種子を巻き散らしたようなもので、世俗の衆生は、めいめいの環境や資質が、それぞれ少しづつ異なっている処がある。

或いは、父母の遺伝や教養、及びそれぞれ遭遇することも、一様ではない。

これは、大きく二つに分けて言えば、富貴と貧賤に拘らず、善と悪との二つの途(みち)にほかならないのである。

ある人は、生まれながらにして、能く知り、また、苦しんでこれを、明らかにする人もあり、また、学んで智を致す人もあるが、その知り、明らかにし、致すに及んでは、則(すなわ)ち、同一である。

これによって、天が授けるところのものは、多数が同じであると云う事がわかるのである。

ただ、後天の環境や、めぐり遇いによって、各種各様の人がいるので、それは、人心の異なることも、あたかもその顔が、めいめい異なっているが如くである。

ここで、善人については、暫く論じないことにする。

それは、善根夙慧のある人は、一度渡(すく)
えば、明らかに成り.一度(ひとたび)学べば、その天理の正を知るからである。

それに対し、不善の人は、何故渡(すく)い難く化し難いのであろうか。

それは、後天に於いての嗜好や私情に偏った人欲が習性となって、しまうからである。

たとえ、それが、いかに閉ざして覆われていても、その内心では、常に天理良心が働き現れている。

この現れは、別に本人が希望するところのものではなくても、それは、自然のあらわれである。

この僅かな現れを、疎かにし、本人がそれを重視しないので、一度(ひとたび)あらわれてもみな消えてなくなり、それだけの事に止まってしまう。

それは、私情に偏した力が強すぎるからである。

能(よ)く、このわずかな現れを重視して、これに反復して、追究し省察して、大切にすることが、即ち工夫を用いるところの、要点である。

小さい事を積み重ねて、大と成す事ができ、少ないものを積み重ねて多と成す事が出来るように、この僅かな現れを積み重ねて行けば、この、私情に偏った人欲は、日に日に減して行くのである。

朱子は、ここのところを工夫して頗る会得するところがあった。

彼が言うには、人々が心を修めるのに、これを説けば千言万言を費やしても、それを説き尽くす事は出来ず、その法門も非常に多くあるが、帰するところは、只、天理と人欲の争いに過ぎないのであると。

例えて言えば、天理と人欲は、吾が心中において、あたかも両軍が相対峠しているようなもので、天理が一歩進めば、人欲が一歩退きら人欲が一歩進めば、天理が一歩退くのである。

この工夫を用いる時には是非とも、しっかりと足を踏みしめて、必ず人欲に打ち勝つ信念を持って、少しもこれを揺るがせにすることは、出来ないのであり、昔の聖賢が朝に乾乾として、勤め励み、夕べに惕(おそ)れ謹しんで、戦々兢々として、戒慎恐懼したゆえんである。

また、もう一つの例えによると、修人の中のある人達は、この大道が平坦なる大通りであり、当然この大道を堅定不二の心を持って歩まねばならないと言う事を知っている。

しかし、また、別に一本の小路がある。

それは、ある一つの物事に君が引きずられて、知らず知らずのうちに、この脇の小路に足を踏み入れてしまうことになる。

そこで一体如何なる物事によって、君は引きずられるのであろうか。

この物事とは、或いは財貨、利益、名誉、地位や六根六塵あったり、要するに人々の愛好するところの物語である。


そこで一たび、この脇道に足を踏み入れてから後は.間も無くして身心上における非常な苦しみや、精神的な荒廃で、その苦痛に耐えられなくなるのである。

そこで夙根ある人は、この時になって初めて、道を間違い、是非善悪の判断が間違っていた事に気がつくのである。

この時になって、これら一切の誤りから、脱却しようと思っても、しかし、それは大変な事である。

それは、既によくない事に染まっているからである。

そこで必ず大なる明智と決心と犠牲を払って、はじめて、元の道に戻る事が出来、自己本来に復(かえ)る事が出来る。

これらの明智、決心と犠牲は、夙根(前世の修養)の厚い人にして、はじめて出来るのである。

或いは、別の種類の人は、これらのイバラの荒廃した道に入り込み、苦痛の段階に至ってもまだ、自覚する事は知らずに、さらに勇気を振い起こして、自分は奮闘するのだ、自分はイバラの荒廃した道を一掃して、今迄通行出来なかった小路を切り開いて、旅人の為に福利や便宜をはかり、その為に自分は勇敢に突進し、この小路を開く上での犠牲になるのだと、大声で叫んでいるが、しかし、これは徳を度(はか)らず、自らの力を量らず、道理に合わない事であり、それは、人々のみな、盲従すべきものでは決してないのである。

人々には、本然の良知良能があって、人々のすべて一切の表現「中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)れる」を明らかに弁ずることが出来るのである。

世俗にいる、ある人は自ら聡明てあると自惚れているが、その実、誤りと真理の違いは、たとえ修人でなくても、また、能(よ)く明らかに弁ずる事が出来るし、それらの人々の心中で考えていることと為していること等、一言一語、一行一動は皆、あたかも、たなごころを指すように明らかである。

従って、これを口に出さず黙して善を修悟する者は、吾が師匠であり、不善なる者は吾が資(たすけ)となる(自己にこれらの不善の有無を反省する資(たすけ)となる)のである。

御釈迦さまが、現身説法(現世に姿をあらわして法を説き衆生を済度すること)すること数十年にして、円寂(帰道、死亡)の前に弟子が数ヶ条について質問した。

その一ヶ条に、不信の弟子が、吾が仏(釈尊)
が円寂した後には、如何に処理するかと、御釈迦さま曰く、「黙擯」(黙してしりぞける)
と。

この二字に寓されている意について、各長老須菩提はみな、大いに覚悟った。

各弟子も又、頓(とみ・急に)に明らかとなった。

蓋し、修とは一心の誠に在り、誠でなければ道慈の根幹に到達できないのである。

全て一切の因果輪廻、天国、地獄は皆、自ら修め、自ら練り、自らの心に工夫を用いるのである。

天理良心は如何なる人といえども、これを滅却させることは出来ない。

只.自らのこころを修練して、みずからの功候を成す事に在る。

各位はそう思うであろうか。

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黙真人訓、修道。

2023-02-13 20:31:00 | 道院
時のある所、機がこれによって生じてくる。

機は、どうして生じてくるのであろうか。

吾が心の感応によるのである。

吾が心はどうして、能(よ)く感じるのであろうか。

それは、一誠が中に蔵され、運(めぐ)るからである。

中は炁霊感化の本である。

心が道慈に在りて、大公至正の心で、偏った欲望の私心(利己心)が無くして、はじめて、感応の顕現は、吾が心に悟るのであり、吾が心は一虚空の包(宇宙)であり、能くこの能力がある者は、功候の修進にある。

功のあるところ、候を養うところは、均しく平生の人に応待し、物に接し、世に処して、事を処理する上において、テストするのである。

たとえば、心が能く止水の如く、また明鏡の如く清らかで、事物が発生して来るや、ひとたび、照らして、そのしかる由縁の故を知り、そのしかる所以の理を明らかにし、その事が過ぎ去ってしまえば、跡を残すことなく、いぜん本然に復する。

本然とは自然であり、自然と天地とは、合一し、万物と合一する。

この種の修果は、皆、一誠によって修行して得たものである。

天地の運化については、人々が偉大にして、深遠なことは、測り知ることができない事は、皆知っている。

然(しか)も無心にして、為せば、為さざるは無いのである。

この一点より、坐功の上乗の修練方法を悟る事ができ、また世に処して、事を処理する上に於いて、人に対して、紛争を解く上での一切の妙訣を悟ることができる。

このの字の工夫は、知ったからといって、すぐ、実行するできるものでは、決してない。

必ず、一切の幻想、一切の妄想を取り除いて、はじめて能く工夫を用いて、真の効果を得ることができるのである。

各方は、みな吾が師の弟子(至生先天老祖の弟子、道院の修方を指す)にして、経訓は非常に多く、宝物も豊富である。

もし、能く心を潜(ひそ)めて、密(ひそ)かに修めて、自ら(真の自分自神)を得ることができれば、成就しない、道理は無いのである。

ただ、最も恐ることは、この山(青玄道)に登っていながら、他の山を見ては、もっと高いのではないかと思い、この山で埋蔵されている宝物を発掘して得る事が出来ないのに、他の山には宝物発掘する上での何か、近道があるのではないかと思い、もし、他の山に、真の近道があるか否か、埋蔵されている宝物が比較的豊富であるか、否か、我の願望を達成させてくれるか否か、を問うたとしても、確実にこれを知ることは、出来ないのである。

しからば、どうして、このように異なったものを見ては、心がその為に移り変わって、新奇なものを好むという、心理が働くのであろうか。

それは、経訓に、対して深く研究して、その玄奥を得ていないので、別にその秘奥を尋ねようとする、一念によって、動かされるからである。

ほかの山の宝物は、必ずしもあてに、なるとは限らず、吾が山の宝物は、すっかり、荒廃してしまっているのである。

古人が読書するのに、朱子を以って論ずれば、普段この一章(天の命ずるこれを性と謂い、性に率(したが)うこれを道と謂い、道を修めるこらを教えてと謂う。)において、その玄奥を深く明らかにすることは出来なかった。

いかに期間が長期にわたろうとも、必ず、この一章を悟解して後に、はじめて第二章を読むことが出来るのである。

現在は乱世の故を以て、人心の多数は、時流に流されて、動いているので、いかなる工夫を用いるにせよ、その上面(うわつら)を得ただけで、一知半解である。

それでも、自らその博学と能力を誇り、通りいっぺんの学問で、人の師となっている。

吾が院会(道院紅卍字会)の同修は、皆、一誠を発願して、四つの願を宏めている。

ある者は、少数ではあるが、ほしいままに、社会の俗流を観て、俗務を以て本とするところの者は、言語行動において、完全に真誠を失ない、かつまた、誠を実に愚かなことで、時代の流れに合わないと見做している。

したがって、お互いに騙し合い、一点たりとも、真実の現われが無いのである。

修人とは、いわゆる、人を修める者であり、範を立てて、世間の人の手本となるので、したがって狂瀾(荒れ狂った大波)が盛んに荒れ狂っているのを救い、滔滔たる時流の悪い、風習に流される事なく、不撓不屈の精神的ささえとなるのである。

十目の視る所、十手の指す所、みな、警しめ戒めて、深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如く、聖者賢者すらも、時々刻々に謹慎(つつし)んだのである。

我々修人は、道院において、求修して、一修人となった以上は、一言一行、一事一務についても、常に次のように考えるべきである。

それは、外部の人は、我々が如何なる責任を負って、いかなる道慈を修めているか知らないのである。

ただ、君の一言一語、一挙一動、一事一務の上において、君の為していることが、はたして自分の為にやっているのか、はたして、道慈に合致しているかというところより、君のその人物がはたして、修行の工夫を為しているか、はたして、道慈に合致しているかを評定するのである。

彼らは、院会の各人を修人の代表と見做し、当然、修行したものが身体的に現れて来ると思い、道慈を代表しているので、当然、為す事が道慈の宗旨に合致しているものと思っている。

もし、君たち自分自身の自らの心の、この一点に関心を持って、能く実践して、この一点が実行できれば、話すことは、みな教訓手本となって、みんなが自然にこれを称賛するようになり、自ら巷間に知れわたるようになり、たとえ、上乗の宣闡資料を用いなくても、能く人々の心中に深い印象を与える事になる。

これは自然の感応によって、その功徳が賞賛されるのである。

さもなければ、たとえ、最高の宣闡資料があって、人々がそれを一見して、立ち所に感動して来たとしても、それを述べた人と接触し、その人が宣闡資料に書かれているように、立派でなく、さらに観察してみると、言行不一致のところが多くあると、言うことがすべて手本となると云う、イメージに疑惑を生じることになる。


したがって、私(黙真人)は、しばしば次のように主張している。

それは、内部を完全に整理して、修人各方がみな、自分をよく修め、中(うち)に誠なる者は、外にあらわれるのである。

吾人があるいは、自己の言行の不当なところに気が付かなくても、岡目八目で他人はよくわかるので、君が彼に対して道を語り、修を研(きわ)めると言っても、彼ははっきり、わからないのであるが、然しながら、君が誠であるか否か、修めているか否か、何を修めているか、何を考えているかについては、外部の人は、一たび接触して、君の談話を聞き、君の行動を観察すれば、一目瞭然である。

これは、如何なる道理によるものであろうか。

何故、自分の間違いに対し、自分で気付かず、他人がかえって、能く一目瞭然で全てわかるのであろうか。

それは、我々に過失があるのは、全てみな、欲望の心があるからで、一たびこの心があれば、この心の為に、障(さえ)ぎり蔽(おお)われて気が付かないのである。

孔子の弟子である子路は、自己の過失を指摘されることを聞けば喜び、顔子は過失の二度を繰り返さなかった。

これらは、皆修行の功候に対し、積極的で、勇敢であった。

現在の普通一般の人は、夙根(前世から受け継いだ修養の徳)や夙慧(先天から来る叡智)が無く、また、読書して、理を明らかにすることが出来ず、ある者は、自分にはたして、過失が有るや否やも知らず、ただ自分と考えの合わない人には、勝手に粗探しをし、勝手に人に教訓して、自分は他の人より、一段上であるので、このようにしてもよいと、思っている。

これは、すべて、修行の錯覚である。

これを修め省みて、悔い悟り、全てこの平易にして、身近な小さなところにおいて、先ずこれをよく修め、一切の習性や俗性、悪い習慣をすべてみな、取り除いて正義正心を以て修行をし、気質を変化し、心を清くして、欲を寡(すくな)くするところの本とするのである。

これは、我々が行路を、一緒に歩む上での第一歩の足かせである。

もしも、われわれが、この一歩をおろそかにして、大股で速やかに前進しようと思っても、必ずひっくり返り損傷することは、間違い無いのである。

この時と言う字は、時には人心によって造られ、この機というのは、時には欲望の為に蔽(おお)われてしまうのである。

願わくば、各地の男女同修がわれわれ、院会社に、至聖が壇に降りて訓を垂れること数十年、我々は必ず、院会社を試験場と見做し、我々の候行がこの数年来、はたして、合格したのであろうか。

はたして、何点とれたのであろうか。

自分で検討して明らかにすることは、はたして心に恥じる事は無かったであろうか。

偏向に任せ、習慣となった俗性に偏することは無かったであろうか。

道慈の真に合しないことが無かったであろうか。

求修の四大宏顔に叛く事が無かったであろうか。

悪因非行があっても、悔悟懺悔することを知らなかった事は無かったであろうか。

一々吾が心において、自ら省み、自ら覚り、自ら改め、自ら修めるのである。

現在の時機(とき)は、最後の機会である。

皆んなが共に目醒め、自覚して、自らを渡(すく)い、人を渡(すく)うことを希望する。




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荘子物語、自分自神を知る道、心斎2。

2022-11-10 20:57:00 | 道院
中国では、数千年前から天地日月星辰の動向を把握して暦を作った。

このように、遥か遠くある日月星辰を明確に捉えているが、最も身近な自分自身の事については、全く無知である。

そこで荘子は、自己の内面を開発する具体的な方法を提起している。

それは総括するのが荘子の「心斎」の二字である。

「心斎」とは全ての煩悩や妄念、妄想をきれいに洗い流して心を清浄にすることである。

それを日本語では、「みそぎ」と言う。

「みそぎ」とは、一身の罪や穢れを水で取り去ることである。

(鬼雷述べる。先天坐でも、水を主体として、様々な穢れを浄化する。自ら身体の虚の中で生成した炁水により、客火(欲望の火)を化し、炁火とし、炁火が炁水と交わり、水火既濟の象を示し、全ての災いの元なる劫を弭化するのであります。)

また、儒教では、己自身の煩悩や欲望に打ち勝って、天理にかえることであり、また、人心を克服して道心にかえることである。

仏教では「明心現性」と言い、汚れた心をきれいにし、明らかにして、元の本性にかえるのである。

人は、六根(眼、耳、鼻、舌、身、法)によって外界の物を認識する事が出来るが、六塵が生じ、六つの汚れたものが、六賊となり、人の心を汚染するので、これを元の清静心に帰復させるのである。

本性に還るとは、自己の内面の仏に会う事を言うのである。

道教では、「谷神死せず」と言うが、谷神とは、山と山の間の空間を谷間と言い、それは虚空を意味している。

死せずとは、生々已むことなく、永遠に悔やまされる事が無いことである。

人がもし、虚霊の本体を養う事が出来れば、道を悟ることが出来るのである。

それは、形も無く、影も無く、捉えることも出来ないのである。

故に谷神は常に死せずと言うのである。

荘子は、人間社会において、自己を開発し、自己を認識する能力を物語に託して我々に教えている。

心の中の斎戒沐浴を略して「心斎」と言っている。

この物語は、孔子とその弟子の顔回の名を借りて語っている。

ある日、顔回が、孔子に対し、「私は世の為国の為に力を尽くしたい。その為に暴虐なる国王に制裁を加えたいと思っています。」

孔子が言うには、「それは止めた方がいい、若し、行けば暴虐なる国王により、迫害を受けて殺される事になる。」

顔回が言うには、「私はどうしても世の中に出て、国の為に仕事をしたいのです。」

孔子が言うには、「神はあまりにも軽率すぎる。それは、自分自身の事をはっきり認識していないからである。そこで世に出て何をやっても皆失敗する。先ず大事な事は、自己を認識することである。」

「どうすれば自己を認識出来るのですか。」

「それは心斎です。心斎とは、心の中のミソギであり、また、心の中の斎戒沐浴です。」

孔子が言うには、世間の全てのことは、「心斎」の二字について語られている。

孔子曰く、「志を、一点に集中して、耳をもって聴く事なく、心をもって聴くのであり、心をもって聴く事なく、気をもってこれを聴くのであり、耳をもって聴く事なく、聴くことがは耳に止まるが、心は符(念慮)に止まるのである。

気とは、虚空にして、物に対応するものであり、ただ、道は虚にのみ、集まる。

虚とは「心斎」である。」

その実、我々の目は一方では外界を観察し、また一方では、内面を観察する両方面の作用がある。

そこで、外界に対しては、広大無辺なる天地万物を観察し、内面(精神的世界)に対しては広大深淵なる世界を観察するのである。

外界世界が如何に大きいか、内面の世界が如何に深いか、が判るのを見通すのである。

我々の多くは、一生涯、外界にのみ目を奪われて、自己の内面に対しては、無関心であり、自己が何物たるかを知らないのである。

また、我々の成長の過程においては、多くのことは父母や兄弟や先輩などの考え方や意見などに左右されて、影響を受けて一人前となるのである。

多くの問題無く、順調に成長した人は、成功や失敗の経験が無く、そこで、内面が深く掘り下げる事が出来ないのである。

しかし、ながら、儒教の孔子、孟子、道教の老子、仏教のお釈迦様などは、皆、この「心斎」の功夫を体得した人達である。

老祖訓

人は誰か過ちの無い者がいようか。

その過ちを隠せば、その過ちは真の過となり、その過ちを悔いるが故に、それは過ちとならない。

悔いると隠すの区分はほんの僅かの間(魔)に起こる。


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荘子物語、自分自神を知る道1。

2022-11-09 19:07:00 | 道院
荘子は、孔子の名を借りて、一つの物語を紹介している。


「昔、一羽のカモメが魯の国の宮殿に飛んで来た。

魯の国の王さまは、この珍しいカモメを尊重して、宮殿の中で飼う事にした。

そして、最高の音楽を演奏して、このカモメの歓心を買い、更に美酒や美食を以って歓待につとめた。

しかし、この世にカモメは困惑し、戸惑って、美酒を、飲まず、美食を口にせず、悶々として、楽しまず、三日にして死んでしまったのである。」

荘子が言うには、これらは、人の考えをカモメに押し付けて失敗したのである。

カモメを飼育する方法を以ってカモメを飼えば問題は無かったのである。

仮に、人の好みや礼儀作法を以ってカモメに強制しても、カモメはこれを、全て受け入れることは出来ず、カモメの習性に任せるのである。

このような考え方や、やり方はわれわれの日常の生活に、於いてもつねに存在するのである。

これは、自分の友達やまた、親子親戚に対しても、常に人は自分の考え方を人に押し付ける傾向がある。

我々は、常に親の考え方を子供に押し付ける傾向がある。

そこで、子供の時から将来の事を考えて、あれこれと色々な事を学ばせる。

例えば、三歳になるとピアノを学ばせ、四歳になると絵を学ばせ、五歳になるとバレエを学ばせ、六歳になると、小学校に入っても何か優れたものを小さい時から教育するのである。

更に小学校に入っては塾に行って補習し、この様に受験勉強の為に学ばせ、受験戦争に勝ち抜く事が出来るのである。

これらの親の身勝手な考え方を押し付けた結果、逆に悪い結果をもたらす事もある。

これに付いて、荘子は次の様に述べている。

「昔、南海の帝王にシュンという人物がおり、また、北海の帝王にもシュンと言う人物がいた。

南海と北海は遥かに遠くかけ離れていた。

この二つの国の帝王が会見する時は、常に中央の渾沌の国であった。

この渾沌は未だに開発されていない混沌の状態であった。

この渾沌の王様は、誰に対しても親切で友好的であった。

そこで南北の帝王が渾沌の国で会見する時には、至れり尽せりで、南北の帝王は大変世話になって、御恩返しをしようと思い、二人で相談した。

その結果、渾沌の国王には眼が無く、耳が無く、鼻が無く、口が無く、それでは、世間の全ての快楽を味わうことが出来ず非常に不自由な身であった。

一般の人には眼があり、耳があり、鼻があり、口があるが、渾沌には、この七つの穴が無く、世間の快楽を味わう事が出来ないので、何とかわいそうな事ではなかろうか。

そこで七つの穴を開けて快楽を楽しむ事が出来るようにしてやろうと考えた。

それから、二人の帝王は毎日、渾沌の身に七つの穴を開いてやった。

最後に七つの穴を開けた時、渾沌は死んでしまった。」

この物語は、渾沌が七つの穴を開けた為に、自己の本体を失ってしまった。

彼が生きているのは、渾沌の本体を堅持しているからであり、また、渾沌の体こそが、天地宇宙の本体でもあった。

そこで天地宇宙に七つの穴を開ければ、その本体を失ってしまうのである。


いわゆる、人間が成長の過程において、学校や社会から多くの教育を受けて、われわれの七つの穴が、一つ一つ、開かれて行き、この様にして社会的な人物が養成されて来るが、しかし、われわれ本来の純朴にして、素朴な本性は、これによって、徐々に失われていく。

正に渾沌の本体より、遠くかけ離れることになる。

それでは、荘子の物語は、人間社会と何ら関係がないのであろうか。

その実、われわれにとって、最も身近にして重要な問題である。


これを一つの物語として、次に紹介してみよう。

「昔、一羽のタカがおり、小さい時から、他の鶏と一緒に養育してきた。

そこで、タカは、自己も鶏と同じような生活をしてきたので、遠く飛ぶ事が出来ないと思っていた。

主人がこのタカを飛ばせようとして、あらゆる訓練をしてきたが、無駄で何の役にも立たなかったと失望した。

そこで主人はタカを見捨てて、高い崖から突き落とした。

そこでこのタカは未だ大地に到達するまでに、必死になって羽を動かしたので飛べる様になった。」

これはどうしてであろうか。

それは高い崖の上から突き落とされたので、必死になって羽を動かし、そこでタカ本来の天性が甦ったのである。

もし、機会が与えられなければ、一生涯この能力が埋没されたままでいたのである。

多くの人は、自己が最も愛する仕事に巡り会う事が出来ず、生活の為に、やむなく働いている人が多いのである。

現在、われわれの仕事の中で、自分の才能を発揮する仕事に恵まれず、また、自己の才能を発揮する機会も無い為、従って、自己の内にある優れた、潜在能力は永遠に日の目を見る事が出来ないのである。

更に生涯を自己の生命を燃焼させる事なく、終わってしまうのである。






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黙真人訓、月燈三昧経道。

2022-11-01 21:13:00 | 道院
仏教の月燈三昧経で、お釈迦様が言われるには、或る人が冥坐しておられた、この冥坐とは、黙坐(黙して坐す)のことである。

この冥坐には、十種類の功徳やご利益がある。

この十種類とは何であろうか。

第一に、心が澄んでいて、濁らないということである。

第二に、心が住(とどま)っていて散乱しない。

第三に、三世の諸仏が加護してくださる。

第四に、正法(正しい覚りの行いや方法)を実行する。

第五に、仏の慧智を疑わない。

第六に、恩恵を疑わない。

第七に、正法を誹謗しない。

第八に、善く戒律を守って犯さない。

第九に、調伏に到る(身・口・意によって作られた三つの罪業を消滅して心身を調和する)のである。

第十に、四つの無礙智を実証する。

この十種類の功徳や利点について、討論してみよう。

これらは、静黙の坐の全ての工夫を説明している。

坐によってこれを修め悟り、これを実証して最後に得道する事が出来るのである。

第一の心が澄んで濁らないと言う事は、坐の工夫を用いる上での最も主要な主旨である。

修養には、いろいろな方法があるが、全ては、一心にあるのである。

そこで、心を明らかにし、心を清め、心を浄(きれ)いにし、心を修め、心を練るのである。

心は、あたかも止まっている水のようであり、また、心は明らかな鏡のようでもある。

修養の方法とは、その心を清らかにする事であり、それによってその心が明らかになってくるのである。

しかし、心には清らかな時もあれば、濁っている時もあり、心が明らかな時もあれば、また、くもり濁っている時もある。

暗く濁っている心とは、それは後天の事物(金銭財貨や名誉地位や権力等等)によってかき乱されるからである。

この清らかにして明らかな心を求めようとするならば、必ず静坐によらなければならない。

その後天のかすを清める事によって、はじめて、止まっている水の様に不動にして清らかになるのであり、また、明らかな鏡の様に光ってくるのである。

住という字は、月燈三昧論のお経では「四禅八定」といっている。

心が外のものにとらわれて、放失し、五欲の中にのめり込まないようにするのである。

それは即ち「止まる事を知る」と言う意味である。

そこで「止まる事を知って然る後に心が定まる事が出来、定まる事を知って、はじめて心が静かになる事が出来、静かになる事を知って、はじめて心が安らかになる事を知って、はじめてこころを慮(おもんぱ)かる事が出来、慮る事を知ってはじめてら道を体得(悟りを開く)する事が出来るのである」。

「至善に止まる」とは、それは、後天の五欲に侵される事が無く、これを信じてこそ、はじめて正覚(正しい悟り)の偉大な行いを、実証する事が出来るのである。

仏の智恵とは、最高無上の正しい智恵であり、それを仏教では、名付けて「阿耨多羅三藐三菩提」というのである。

また、一切の智恵を名付けて「薩般若」と言うのである。

そこで、これを信じて疑う事なく、仏恩を知って、その仏恩に善く報いるのである。

自分自身の私欲に随う事なく、正しい法を誹謗する事なく、誠信を以て正しい法を弘めるのである。

これを善く禁止するとは、己自身の身や口の意念の三業を慎んでこれらの過ちを犯さないようにするのである。

身業とは身の行いによって罪業を作る事であり、口業とは言を以て罪業を作ることであり(禍は口から出るの意味である)、意業とは不正邪悪な念が妄動する事によって罪業を作ることである。

身業と口業とは外にあらわれる。

意業とは、自分自身の想念であって他人は誰も知ることが出来ないのであり、只自分一人だけがこれを知っているのである。

故に聖人や賢人は、誰も見ていない所や誰も聞いていない所に於いて、自分自身の想念の中で、妄念妄想や煩悩が起きないように懼れ慎むのである。

第九の調伏に到るとは、身・口・意の三つを制御して陰陽を調和させるのであり、これによって罪業が制伏し、全て一切の悪い行いや悪い言葉や悪い想念を取り除き、その後四つの無礙智を実証することが出来るのである。

無礙智とは、法(法則)にとらわれる事が無く、義(道理)にとらわれる事が無く、辞(言葉)にとらわれる事が無く、楽しんで無礙智を説くことである。


北極真経で云うには、今や下元で先天の炁が止む季節である。

人欲や妄心に打ち勝つ心を練る事なく、また、坐る事が無ければ、道を打ち立てる事は出来ないし、また、心を修める事もなく、道心を守る事がなければ、大道は永遠に衰退してしまう。

善は何を以てこれに帰し、悪は何を以てこれを除くのであろうか。

魂魄の争いは終に息(や)む時がないのである。

魂は清真の中に於いてどうして上に升(のぼ)るのであろうか。

魄の魔はどうして潜かにこれを浄化させるのであろうか。

黙して妙霊に、転ずるのは全て、坐を練る事にある。

坐が堅くなれば気が固まり、その後に精が結ばれ、精が結ばれた後、神が凝るのである。
(注 気は精の根であり、精は神の舎(いえ)であり、「精・気・神」は後天の三宝であり、この三者が完全無欠になれば、「一胞の円霊はその天命の真に復する」のである。)

そうすれば陰陽は中枢に合して、動静の分ち得べし、はたらきは調和されるのである。
(「動静分ち得べし」とは陽の動・陰の静・男の動・女の静と各々その分限が定まっている事を言う。)

倫背は相互に関連していて、そうすれば、思欲は化して清霊となり、心に随って上下するのである。
(注「倫背相関して」とは、人身の背骨は全身の主要なる幹であり、五臓六腑のそれぞれの筋道や神経などは全てがこの背骨に繋がっている。)

正霊は結ばれて直晶となり、自ら升り、曲汚は自ら泯(ほろ)びてしまい、いわゆる善の本性が初めて具(そな)わるのであるが、人の形体に具わっている六根六塵の習性によって惑わされ、それによって悪の方に遷(うつ)り変わって行くのである。

真炁を守らなければ、真陽は消滅しやくす、そこで陽が消えて陰が亡びれば地獄に陥る事になる。

陽が成ずれば、陰が散じ化して一に合ずるのである。

これによって天楽を得るのである。

この所に登れば、永遠に輪廻の劫に陥ることなく、また永遠にこの世に生まれて来る事も無いのである。


恭しくこの一節に参じてみるのに、全ての坐功の経過による深遠にして妙なる境地を充分に発揮している。

惜しむらくは、修める者は善性がたとえ初めて具わっても、基礎が未だ固まっていない時には、往々にして、身体の六根六塵によって惑わされて悪の方に染まるのであり、それによって中途で挫折してしまう者がいるのである。

悪の道に染まっても、それによって悟る事が出来ず、たとえ悟っても、帰って来る事の出来ない者もまた、いるのである。

成功と失敗の主要な時期に於いて若し、心がしっかりと堅く定まっておらず、しかも外の幻影に迷わされ、引きづられている者もまた、いるのである。

若し、この一節を能(よ)く悟って誠を堅持し、恒是(心が安定してこれを永く持続すること)するには、坐を長く続けて練れば、永遠の天楽を得る事が出来るのである。

いつまでも、輪廻の劫に陥ち入る事が無ければ、永遠にこの世に生まれて来ないのである。

一片の清霊は先天の炁の中にあり、その天の極楽の趣きや、その素晴らしさは、これを悟り体得する事が出来るのである。

すべては、吾自身の一心がこれを如何に求め、修めるかにかかっているのである。

各位はどう思うであろうか。

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