稲荷とは、飯成りの神であり、人の世の衣食住を司る神である。
されど愚かな人間は稲荷を狐の神、商売繁盛の神、願望成就の神とする。
さらに自己の欲望の為に供物を捧げ、願望成就の為に使役しようとする。
結ばれる果あり。
狐霊を敬っている間は、福徳に恵まれるが、血筋の代が替わり粗末に扱われれば、逆に祟り、不幸や病気の連続性を示す。
豊受けの神、即ちウガノミタマは、人間に寄り添われる希有な神でございます。すべからく、国祖国常立尊の意向と霊性を兼ね備えられて居られます。
人が稲荷の神をウガノミタマ、豊受之神として、通じるか、狐霊として通じるかでは、、、三千世界の一度に開く梅の花の根本的な魂、霊主体従の御魂の持ち主か、あるいは、霊性を無視した、体主霊従の人間的な弱肉強食の御魂であるのかの、道分かれとなります。
ウガノミタマに眷族神あり。それは、狐霊でもあるが、神化されれば、龍神と成られる。ウガノミタマの眷族神を祟り神とし、除霊や封じ込め、狐霊を迫害される宗教団体もあるが、必ずしも、主神の意向を汲んではおられません。
霊界の狐界の消息は、人間の想念が入り込み、乱れに乱れている。されど、至純なる眷族神もおられるのである。
信仰とは血の繋がりにより、受け継がれる人もおられるが、信仰とは、自己の覚神の道開きでもあり、親より受け継がれたのは、あくまでも洗脳の部類に入るのかも知れない。
されど、きっかけは、親の信仰によっても、自己本来の主神への信仰に目覚める者もおられるので一概には言えませんが。
全ては御魂相応であります。
そして、稲荷信仰により狐霊を信じ、恵みを受け、恵みと子孫にその信心を残しても、時節と共に、残るのは祟りのみかも知れません。
信仰とは強制や受け継ぐモノに非ず。己自身の覚醒への道標であることを悟るべし。
私は、神に願望を祈らない。神とは、そもそも、人の願いを叶える存在であらざるから。
伏見稲荷の主神は、人類に優しき稀有の神なり。故に、伏見稲荷山には様々な祠に様々な神が祭られておられるのかも知れない。
今や海外からの観光地として有名な伏見稲荷大社。私の目的は稲荷山であります。
奥宮です。
稲荷山遥拝所です。ここから、稲荷山へ。
伏見神宝神社です。此処は稲荷山へ登るとすぐに脇道があり、そこを登ると現れます。伏見稲荷の管轄でない神社です。私は此処では、龍神さんを感じます。ここから、戻り、赤い鳥居の列に戻るのが正式なルートなのでしょうが、この道をさらに登っても稲荷山へ行けます。伏見稲荷の派手さが好きでありませんので、私はここから、大磐神社へ参拝し、そこから稲荷山へ向かいます。しかし、ここからのルートには様々な滝の行場がありますが興味を持たず、意識は主神へ。
大磐神社、磐座。かつてこの大磐の神より、稲荷山にて磐笛を賜りました。
この大磐神社の磐座をさらに登れば稲荷山の頂上付近に出られるのですが、今回は非常に強い台風の被害、倒木により、山道が消えてしまい、登れませんでした。
元来た鳥居の道まで、戻り頂上をめざしました。
稲荷山頂上付近には、ウガノミタマの磐座がございます。たぶん私しか参拝しておりませんが。磐笛、祝詞経神咒を奏上致します。
稲荷山を参拝される方は、必ず自分に合った祠があるとされます。
私は人間が造った祠に興味がありません。メインは大磐神社の磐座と伏見稲荷山頂上付近の磐座のみでございます。されど、なぜか、この天龍神社には、惹かれてしまいます。故に、此処の御手水を水業のお水として拝受致します。
国常の 神の心に 通えれば 誠の道を 示し開けくる。
豊受けの 神の心に 通えれば ウガノミタマは 共に歩まれる。
されど愚かな人間は稲荷を狐の神、商売繁盛の神、願望成就の神とする。
さらに自己の欲望の為に供物を捧げ、願望成就の為に使役しようとする。
結ばれる果あり。
狐霊を敬っている間は、福徳に恵まれるが、血筋の代が替わり粗末に扱われれば、逆に祟り、不幸や病気の連続性を示す。
豊受けの神、即ちウガノミタマは、人間に寄り添われる希有な神でございます。すべからく、国祖国常立尊の意向と霊性を兼ね備えられて居られます。
人が稲荷の神をウガノミタマ、豊受之神として、通じるか、狐霊として通じるかでは、、、三千世界の一度に開く梅の花の根本的な魂、霊主体従の御魂の持ち主か、あるいは、霊性を無視した、体主霊従の人間的な弱肉強食の御魂であるのかの、道分かれとなります。
ウガノミタマに眷族神あり。それは、狐霊でもあるが、神化されれば、龍神と成られる。ウガノミタマの眷族神を祟り神とし、除霊や封じ込め、狐霊を迫害される宗教団体もあるが、必ずしも、主神の意向を汲んではおられません。
霊界の狐界の消息は、人間の想念が入り込み、乱れに乱れている。されど、至純なる眷族神もおられるのである。
信仰とは血の繋がりにより、受け継がれる人もおられるが、信仰とは、自己の覚神の道開きでもあり、親より受け継がれたのは、あくまでも洗脳の部類に入るのかも知れない。
されど、きっかけは、親の信仰によっても、自己本来の主神への信仰に目覚める者もおられるので一概には言えませんが。
全ては御魂相応であります。
そして、稲荷信仰により狐霊を信じ、恵みを受け、恵みと子孫にその信心を残しても、時節と共に、残るのは祟りのみかも知れません。
信仰とは強制や受け継ぐモノに非ず。己自身の覚醒への道標であることを悟るべし。
私は、神に願望を祈らない。神とは、そもそも、人の願いを叶える存在であらざるから。
伏見稲荷の主神は、人類に優しき稀有の神なり。故に、伏見稲荷山には様々な祠に様々な神が祭られておられるのかも知れない。
今や海外からの観光地として有名な伏見稲荷大社。私の目的は稲荷山であります。
奥宮です。
稲荷山遥拝所です。ここから、稲荷山へ。
伏見神宝神社です。此処は稲荷山へ登るとすぐに脇道があり、そこを登ると現れます。伏見稲荷の管轄でない神社です。私は此処では、龍神さんを感じます。ここから、戻り、赤い鳥居の列に戻るのが正式なルートなのでしょうが、この道をさらに登っても稲荷山へ行けます。伏見稲荷の派手さが好きでありませんので、私はここから、大磐神社へ参拝し、そこから稲荷山へ向かいます。しかし、ここからのルートには様々な滝の行場がありますが興味を持たず、意識は主神へ。
大磐神社、磐座。かつてこの大磐の神より、稲荷山にて磐笛を賜りました。
この大磐神社の磐座をさらに登れば稲荷山の頂上付近に出られるのですが、今回は非常に強い台風の被害、倒木により、山道が消えてしまい、登れませんでした。
元来た鳥居の道まで、戻り頂上をめざしました。
稲荷山頂上付近には、ウガノミタマの磐座がございます。たぶん私しか参拝しておりませんが。磐笛、祝詞経神咒を奏上致します。
稲荷山を参拝される方は、必ず自分に合った祠があるとされます。
私は人間が造った祠に興味がありません。メインは大磐神社の磐座と伏見稲荷山頂上付近の磐座のみでございます。されど、なぜか、この天龍神社には、惹かれてしまいます。故に、此処の御手水を水業のお水として拝受致します。
国常の 神の心に 通えれば 誠の道を 示し開けくる。
豊受けの 神の心に 通えれば ウガノミタマは 共に歩まれる。