鶴に乗った仙人こと、笹目秀和先生。
かつて、朝鮮白頭山にて、また、チベット崑崙山において、二人の神仙(受肉された、本物の人間であり、特命を背負う神の使徒。)に出逢われた。
月の精気を喰らう秘法。太陽の精気を喰らう秘法を授かり、その二つを合わせて、「いずのめのみたま」と呼ぶらしい。
しかし、これば、先天坐における、水火の交わりでもあります。
余談ですが、太陽とは火であり、月とは、水であり、水火が交わり、自己、宇内において、初めて、「いずのめのみたま」、神人合一と申すのでございます。
秀和老師は、出口王仁三郎聖師や出口日出麿師とも、交流があったのは、事実でありますが、かつて、崑崙山行く前に、金毛九尾霊の邪魔が入ったさい、聖師と日出麿さんに会い、大本神を崑崙山へ奉じされた神事が、秀和さんの著者(神仙の寵児。モンゴル神仙邂逅記)に書かれております。
そこで、十和田湖の龍神こと、出口和明さん(出口聖師の孫)が、本人に取材されましたが、どうも話がコロコロ変わり、和明さんは、彼を信用することが出来なかったと、見聞しております。
秀和老師は、不当にシベリアに逮捕され、水牢(くるぶしまで、水を入れられる牢獄。激寒の最中、寝れず、ずっと立ったままであり、糞尿も垂れ流し。老師は糞尿に対しては、工夫されたが、人が生きていけない環境であった。)をも乗り越えたが、親切なる人から忠告を受け、共産党に全ての言われ無き、犯罪を自分がやったとされ、水牢から解放された。
秀和老師は、シベリアから奇跡的に解放され、日本に帰国。
帰国してからは、至聖先天老祖の弟子として、活躍し、笹川良一、正謙さんを道院に導いた功を受け、寿命を十二年賜った。
ここで笹目老師の道名を紹介しよう。
秀和である。
和に秀でる。
老祖の弟子には、必ず、道名を賜る。
みな、その人への修道の目標を示されておられる。
なんせ、笹目老師は、喧嘩早い。
彼は自己の正義を重んじる事百千倍。
笹川会長を道院に招き入れた功績もありましたが、かつて、碁の神様と謳われた、呉清源(道名は、弈霊)さんが、笹目さんが、独善が酷すぎると、笹川正謙会長に相談したところ、正謙さんが、そういう意見があると、笹目さんに申したら、笹目老人は、怒り狂い、それを言ったとされる、呉さんに、怒鳴りこみました。
そこで、組織としての東京紅卍字会(笹川会長)は、これを憂え、神様に判示を乞いました。
東京総院弟子正謙、奕霊は謹んでテイハン(神様にお伺いし、判断をお願いする)致します。
弟子秀和は院会に於ける和衷恭済を欠き、その障害となり、堅誠なる修方の敬遠して去る者も多く、道慈進展の妨げとなっております。
如何に処遇すべきか、謹んで判示を請います。
また、笹目老人も、自分は間違っていないが、優劣で言えば、追い出されそうなので、神様に取次を依頼しました。
弟子秀和。師の恩恵に浴し、前五年無給、後五年有給を以て、ここ十年を奉仕し、得たことを感謝し、厚恩にすがり、更に願わくば、近く離京して、塵世の俗務(鬼雷述べる。私は左官職人で有るが、それぞれの職とは尊いでものあり、全ての人々が経済(世を経し、民を済(すく))っていると考えます。秀和老師が神様に尽くすのみが、正しく、天職とされておられるニュアンスは、間違っていると考えます。)に就職するのは、已むなきに至るかも知れず、院に職宣院掌簎と坐院の指坐職を増加し、賜わらば、幸甚に存じます。(ここで笹目老人は、神様に、道院の役職を過去の功績を交えて、欲し、それにより、東京総院に居座ろうとされた。)
黙真人判示。
「秀和は、院会に服務して、十年以来、その辛労は、記録するに足るものがある。
たた中(神様に対する信仰)に秀でているが、和を失っている。
それ、和というのは、天下の達道である。
特に院会は、道慈を以て綱要となし、誠正和平を尊ぶのであり、これが東京総院の額である。
ただ、汝が誠正和平にもとづかなければ、ならないのであり、すべての修方は、みな、この四字を以て基とする。テイハンしたところは、全て判った。
別に判示を聞け。」
この後、東京総院は、更にフーチをテイハンした結果、全ての役職を休職とし、秀和老師に、退職金(慰労金)を支払い、秀和老師は、東京を去るが、多摩道院を建設する兆しとなる。
多摩道院。ここでは大いなる功績となす。
しかし、香港のフーチ(正当な老祖の霊を受けた人が行う神様、爾来。)と台湾のフーチ(半分が老祖の霊を受けた人と全く老祖から許されていない人が行った土公神の自動書記)が争うようになると、笹目老人は、権威ある道職を安く命じ、皆んなに与える、台湾フーチ重んじ、台湾フーチが正しいとされ、(香港のフーチは、台湾フーチに魔が入ったので即刻、出された訓文を焼き払うよう、言われたが、台湾の多くの人々は神様から多くの役職を貰ったと喜んだ後なので、それを未練とされ、道を違えた。)、結末、予定寿命より、早く天からお向かいが来られました。
若いうちの間違いは、正しやすい。
老人の間違いは、正す事は困難であります。
翻れば、私、鬼雷も老人の域に足しつつあります。
そこで、何時も考えるのは、「私は、何時も間違っている。私は、常に正しくない。」
正義なんて、ものは、糞食らえ。
ハマス、ウクライナに正義あり。
イスラエル、ロシアに正義あり。
人間が、どちらかに、取り憑くだけで、神様は、どちらの味方もしないと考えます。
なんせ、神様は教義や、真理にあらず。
神様は、運行。自然の運行。
そこに、喜怒哀楽善悪正邪過去未来なんて、なんくるないさあ。
ただ、日本人として、生まれ、神に仕えるものは、滅美ある中で、足掻く、地球神の為にその御心に添うのみ。
破壊と再生。
再生は美しく、人の自助努力あり。
破壊は多くの民の生命を失う。
いずれ到来する、破壊の波。
やれやれだ。
それまで、精一杯、足掻くのみ。
次代の世代の為に。
自ずから、徳(自己の神)を明らかにして、全てを調和すべし。
明和あるのみ。