密かに、潜り、道を修める。
神の道とは、他人に知られず、褒められず。誉められず、自己責任にして、見返り無く、ただ、天の命のままに、それを行うのみ。
故に、他人の評価は決して、得られない。
もし、神事にて、自己の行いを宣伝しているならば、それは、人事の行いにて、無形なる、神の道ではありません。
神の鳴る、道とは、他人の評価を必要とせず、人知らず、行うのみであります。
それは、人が、行う、修道、道を修めるについても、同様であります。
神業なる言葉が、ありますが、神は火水であり、嚼むであり、業とは、因果律であり、カルマであり、人の働きであり、合わせれば、無為自然なる実相を誠意にて、自らの自神(自身)を示す道でもございます。
その自神が示す道をに於いては、毀誉褒貶は全く無用であり、ただ、神命、天命のままに、自己だけが知り、四知なる、「天知る、地知る、人が知り、我が知る」概念を超え、「天が知っていても、地が知っていても、人が知っていても、吾は関せず、我が道を示すのみ。」でございます。
自己顕示を一切表さないのでございます。
これを潜道と呼ぶ。
しかし、道を宣せねば、広まらず。
宣道もまた、重要であります。
宣と潜。
潜修して後、宣化。
それは仙道でもあり、大切でございます。。。
潜宣の道。それから離れているかどうかは、審神すれば、お金を得ているか、いないかで一目瞭然なりでございます。
神の道に企業無し。
神に金銭は必要無し。
扨て、ブログなんかで、我が境地を述べるのも、本質からすれば、潜道から離れてしまいます。
すみません、ごめんなさい。
しかし、参考なる言葉も必要なのであります。
されど、真の潜道とは。ひたすら、潜り続けて、決して表に出て参りません。
この働きを為す者を「神仙」と申します。
天網恢恢疎にして漏らさず。
老祖の弟子であれば、日々の坐こそが、潜道であり、真坐道こそが、潜道の奥義でもあるのです。
名も要らず、地位も名誉も金も官位も要らぬ者ほど、始末に、逐える者は居ない、しかし、その者こそが、ひたすら、地球軸を支え、天軸地軸の安寧をもたらすのである。
世に、北極老人や南極老人を名乗る者がおられます。
名のすべきは、役割であり、自己主張では無いのでございます。
ああ、かむながたまちはへませ。