バブルが弾けてから、何の経験もなく、たまたま十三で南米の民芸雑貨をしていた時に、隣に画廊が開店した。
隣の画廊のオーナーに勧められ、アメリカに行って、アメリカから版画を輸入するルートを見つけたのが、ギャラリーを始めるきっかけだった。
その後、一年ほどして、上本町の石が辻町で小さなギャラリーを開いた。
来客も少なくなったが、具象絵画の個展をしていると、たまに作品が売れた。
その後、現代絵画の作品を扱いだすと、来客は増えたが全く売れなくなった。
貸しギャラリーを企画するが、借り手もなく、ギャラリーの経営は行き詰った。
その当時、母は足が悪くなり、病院通いをし、そのうち脳梗塞を起こし入院した。
ギャラリー経費は、今までのたくわえと、作品の販売代金で何とかまかなっていた。
母が元気な間は、母と同居していたので、自分の食費の心配は要らなかった。
ところが、母が入院してからは、母が入院した為に、入院費も必要となり、食事も自分で作らなければならなくなった。
年末に病院んが年末年始態勢になり、母が帰宅する前には、認知症の症状も出始めた。
年末年始に、一時帰宅し年明けから転院することにした。
帰宅して数日すると、夜になると、認知症の症状が出た。
私を他人と思い、「お世話になりました」、と言われたときは、ドラマのシーンでなく目の前で起きていることだとと思うと同時に、母が突然遠くに去ったような気がして、泣いた。
年が明けて、母を転院させた。
新しい病院にも母は、徐々になれた。
認知症は、収まっていた。
ギャラリーの経営は好転するきざしはないので、新聞の求人広告を見て申し込み、正月明けからアルバイトをすることにした。
午前6時前から9時までの3時間のビル掃除の仕事だった。
仕事場は、御堂筋に面した金融系大企業の子会社だ。
仕事をし始めて間もない、1月17日、私は自転車で御堂筋の直前まで走っていた。
遠くに、稲光がし、木が揺れていた。
自転車で走っている私は、にわか雨が降る前の風が吹いていると思っていた。
カラカラというシャッターの音が聴こえ、誰がこんな早朝にシャッターを開けているのかと思った。
ところが、前をよく見ると木や電線が風もなく大きく揺れているのに気付いて、もしや大地震かと思い自転車を止めたとたん、余り経験したことのない、バランスを崩し倒れそうな大きな揺れを感じた。
南海地震が来たのではないかと思った。
その後掃除を担当しているフロアで予定通り清掃をした。
途中、何度かグオーという地鳴りとともに襲ってくる大きな余震は、怖かった。
掃除途中で、パラパラと社員の人が上がってくるが上がってこなかった。
7時過ぎになって、このフロアに勤務している人が来た。
御堂筋線は、全面運休しているとのことだった。
徐々に、この会社の人でターミナルから歩いてきた人が上がってきたが、詳しい情報は何一つ分らなかった。
掃除チームのリーダーの指示により、少し早い目に掃除を切り上げた。
自転車で、母親のいる病院に直行した。
外では、車も人通りも極端に少なかったが、建物の倒壊は、見られなかった。
病院に着いて、ロビーでTVを見ていると、震源が、中部地方といっていたのが、変わりだした。
そして、神戸で高速道路が倒れている映像や、建物が倒壊している情報が入っている最中だった。
TVの信じられない光景に、目が釘付けになり、日本の神戸で現実に起きている出来事に鳥肌が立った。
想像を絶する惨事が神戸で起きていて、大量の死傷者や避難者が出ていると思った。
母の病室に行ったが、母は怖かった言い、私の顔を見て安堵した顔を見せた。
その後は、家に帰ってもTVを見続け、あるときは悲惨な状況を聞き一人涙を流した。
かなり日がたってから、神戸に行くことがあった。
途中で見た、ぺしゃんこになった家を見て、地震の被害はTVで見たものと全く違うことを、肌で感じた。
多分地震・津波・原発・水害・火事といった災害は、遭遇したり、現場にいるのと、TVで知った知識と全く違う物だろうと思っている。
現実は、多分TVで見るよりはるかに悲惨なのだろうと思う。
その年に、ギャラリーを老松通りに移して再開した。
母が亡くなったのは、その年であった。
隣の画廊のオーナーに勧められ、アメリカに行って、アメリカから版画を輸入するルートを見つけたのが、ギャラリーを始めるきっかけだった。
その後、一年ほどして、上本町の石が辻町で小さなギャラリーを開いた。
来客も少なくなったが、具象絵画の個展をしていると、たまに作品が売れた。
その後、現代絵画の作品を扱いだすと、来客は増えたが全く売れなくなった。
貸しギャラリーを企画するが、借り手もなく、ギャラリーの経営は行き詰った。
その当時、母は足が悪くなり、病院通いをし、そのうち脳梗塞を起こし入院した。
ギャラリー経費は、今までのたくわえと、作品の販売代金で何とかまかなっていた。
母が元気な間は、母と同居していたので、自分の食費の心配は要らなかった。
ところが、母が入院してからは、母が入院した為に、入院費も必要となり、食事も自分で作らなければならなくなった。
年末に病院んが年末年始態勢になり、母が帰宅する前には、認知症の症状も出始めた。
年末年始に、一時帰宅し年明けから転院することにした。
帰宅して数日すると、夜になると、認知症の症状が出た。
私を他人と思い、「お世話になりました」、と言われたときは、ドラマのシーンでなく目の前で起きていることだとと思うと同時に、母が突然遠くに去ったような気がして、泣いた。
年が明けて、母を転院させた。
新しい病院にも母は、徐々になれた。
認知症は、収まっていた。
ギャラリーの経営は好転するきざしはないので、新聞の求人広告を見て申し込み、正月明けからアルバイトをすることにした。
午前6時前から9時までの3時間のビル掃除の仕事だった。
仕事場は、御堂筋に面した金融系大企業の子会社だ。
仕事をし始めて間もない、1月17日、私は自転車で御堂筋の直前まで走っていた。
遠くに、稲光がし、木が揺れていた。
自転車で走っている私は、にわか雨が降る前の風が吹いていると思っていた。
カラカラというシャッターの音が聴こえ、誰がこんな早朝にシャッターを開けているのかと思った。
ところが、前をよく見ると木や電線が風もなく大きく揺れているのに気付いて、もしや大地震かと思い自転車を止めたとたん、余り経験したことのない、バランスを崩し倒れそうな大きな揺れを感じた。
南海地震が来たのではないかと思った。
その後掃除を担当しているフロアで予定通り清掃をした。
途中、何度かグオーという地鳴りとともに襲ってくる大きな余震は、怖かった。
掃除途中で、パラパラと社員の人が上がってくるが上がってこなかった。
7時過ぎになって、このフロアに勤務している人が来た。
御堂筋線は、全面運休しているとのことだった。
徐々に、この会社の人でターミナルから歩いてきた人が上がってきたが、詳しい情報は何一つ分らなかった。
掃除チームのリーダーの指示により、少し早い目に掃除を切り上げた。
自転車で、母親のいる病院に直行した。
外では、車も人通りも極端に少なかったが、建物の倒壊は、見られなかった。
病院に着いて、ロビーでTVを見ていると、震源が、中部地方といっていたのが、変わりだした。
そして、神戸で高速道路が倒れている映像や、建物が倒壊している情報が入っている最中だった。
TVの信じられない光景に、目が釘付けになり、日本の神戸で現実に起きている出来事に鳥肌が立った。
想像を絶する惨事が神戸で起きていて、大量の死傷者や避難者が出ていると思った。
母の病室に行ったが、母は怖かった言い、私の顔を見て安堵した顔を見せた。
その後は、家に帰ってもTVを見続け、あるときは悲惨な状況を聞き一人涙を流した。
かなり日がたってから、神戸に行くことがあった。
途中で見た、ぺしゃんこになった家を見て、地震の被害はTVで見たものと全く違うことを、肌で感じた。
多分地震・津波・原発・水害・火事といった災害は、遭遇したり、現場にいるのと、TVで知った知識と全く違う物だろうと思っている。
現実は、多分TVで見るよりはるかに悲惨なのだろうと思う。
その年に、ギャラリーを老松通りに移して再開した。
母が亡くなったのは、その年であった。