議事録のことが、いまだにニュースになり、公明党が国会でも取り上げるといい話は益々大きくなっている。1月22日に、NHKニュースをみて驚いてブログにしたが、そのときはまだ関心も低かった。私にしてみれば議事録で大変な目にあって以来、自分自身様々な会議のたびに議事録を作ってその大切さを知った。
その大変な目にあったというのは、私がまだ20代のころだった。始めに約10年勤めた理化学機器(当時の名称は、田葉井製作所)の会社(現在東証1部上場企業・環境試験装置)で、私が給与委員会(前年度は、会社に指名されて給与委員会に参加することになり、私が給与委員会の議長にえらばれた。給与委員会には総務課長も会社側代表として参加していた。)の仲間だったメンバーに呼び掛けて組合を作り、組合創立時に私は書記長(組合長になるのは嫌なので、その年の給与委員長W氏に御願いした。少しずるい面を私は持っていると思っている。)になった。この時組合設立時の給与委員会による賃金昇給は少なく不満が渦巻いていた。組合結成に失敗すれば、全金同盟でその後の組合発起人身の振り方の面倒を見てもらうことまで話しをしていた。
当時組合は大きく総評と同盟に分裂していて、今はいずれも連合になっているが、創立時に全金同盟の支援を受けた。組合役員とか運営方法も全金同盟の指導を受けた。(全金同盟は、創立時に組合発起人の間で上部団体をどこにするか協議し、以前給与委員会でコンタクトがあった全金同盟に組合設立を相談することにし、支援を受け加入することになった。)
組合設立時には会社の妨害工作もあり、業務中に極秘に組合参加の署名簿が上司の目を逃れ回覧される緊張した場面も経験したし、組合結成通知翌日には朝礼で社長から組合参加者も元の給与委員会労働委員会に戻るよう訓示があり、即刻組合幹部会を開き、全金同盟担当者とともに正式に不当労働行為の抗議を社長・役員に行なったりした。設立の翌年にはストライキを背景(その時闘争資金はなく、全員同盟の支援が頼りだった。)に大幅賃上げと時短を勝ち取った。そのようなことの決定をするため、定例と臨時の執行委員会が開かれた。執行委員会は、組合の日常活動では最高意思決定機関である。(組合の最高意思決定機関は組合大会)
私は、書記長として、組合三役と協議したり、団体交渉を行ったり、上部団体の地区協議会に出席したり忙しかった。無論、会社の日常業務は、一担当者として設計の仕事をこなした。そのようなわけで、組合関係の会議は週に何度かあった。会議の内容は全て詳細にノートに記録していた。詳細に会議の内容をノートに取るのは、仕事の進め方と同じ手法を、そのまま組合の会議に持ち込んだに過ぎなかった。
実は私が所属していた、技術部の設計業務(設計は、いくつもチームがあった。)では、営業や製造や資材や上司や外注先との打ち合わせが頻繁にあり、設計チームの会議や、技術部のチーフ会議等もあった。技術部の様々な会議では、毎回議事録が作成され、議題、報告事項、伝達指示事項、決定事項、未決・検討事項等に分類し出席者全員に議事録が配布され、次回の会議までに、各自の担当事項に関する報告をする必要があった。他部門や外注との打ち合わせは、技術部の会議と同じ様式で打ち合わせ議事録が作成され、出席者全員に配布され、上司、部課長にも配布された。
そのような議事録を見てた部長や課長から呼び出され、技術的に問題ありということで変更せよと指示されることもあった。特に技術部長の指摘は厳しく、おかげで技術部の技術レベルは、大企業と対等に渡り合うレベルにまで上がった。外注先に対しては、議事録を根拠に決定事項を確実に実施するよう要求し、出来ていない時は、無償で議事録で決定された要求仕様どおりに変更させた。
このように、日常業務で習慣化された、手法を組合の会議に持ち込んだはずであったが、組合の会議では、私は議事進行をリードしたが、議事録を作っていなかった。それでも組合の会議で、私が書記長として議題とか前回の会議の討議事項を提示し議事進行をリードできたのは、議事録に起こせるレベルの詳細なノートをとっていた為だった。
ところが、組合大会の前に私にとって大問題が起きた。組合長が議事録を出せといいだし、他の執行委員も全員組合長を支持した。やむを得ず、私は、手書きで丁寧な字で一年分の執行委員会の議事録を作成した。何日も睡眠時間を削って書いた。40年前はワープロやパソコンはなかった。完成した執行委員会議事録の手書きの原稿を執行委員会に掛け、チェックを受けて細かい点を修正し大変な目にあった。無論その間会社の仕事は日常どおりこなした。
組合大会前に、翌年度の役員留任を要請されたが、大変なので断り、その代わり私が書記局を組織し書記局に入って書記長を補佐するということで、職場の後輩の了解を取り後輩を書記長に推薦し、後輩は書記長になった。就任後は立派に書記長の役を果たしていた。
その後、仕事の面で別の会社でも、中間管理職や技術部門の責任者として仕事をしたが、始めに勤めた会社と同じような議事録をのシステムを採用し、実施した。
そのような私の経験から、政府機関の議事録のない会議なんて信じられなかった。ましてや原子力という最先端の技術を扱い、国民の生命と財産に関してまさに危急存亡の事態で、官邸では東京まで被害が及ぶことまで危惧していたといわれる程の深刻な歴史的大事件である。そのような事態に対応する会議が、どのような過程でそのような決定を次々と出したのだろうか。
議事録のない会議は、フィードバックのない言いっぱなしの会議であり、責任の所在も明確でない無責任な会議としか言いようがない。指示もその指示内容が本当であったのかどうかもチェックしようがないのだ。逆に議事録を作ったり口を挟むことは、その会議を実質的にリードすることに繋がることが多い。
民主党に限らず、与党が公約を守らなかったり、方針がぐらついたりするのも、政治家に言いっぱなしの体質があって、議事録を作成してそれに基づき仕事をコントロール・マネジメントする習慣が元々ないのかもしれない、と疑いたくなる。少なくとも議事録があって、それに基づいてプラン・ドゥー・チェックをする体質があれば、もっとスムーズに政策遂行が出来ると思うし、政治主導が確立できたはずだ。
思い出
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その大変な目にあったというのは、私がまだ20代のころだった。始めに約10年勤めた理化学機器(当時の名称は、田葉井製作所)の会社(現在東証1部上場企業・環境試験装置)で、私が給与委員会(前年度は、会社に指名されて給与委員会に参加することになり、私が給与委員会の議長にえらばれた。給与委員会には総務課長も会社側代表として参加していた。)の仲間だったメンバーに呼び掛けて組合を作り、組合創立時に私は書記長(組合長になるのは嫌なので、その年の給与委員長W氏に御願いした。少しずるい面を私は持っていると思っている。)になった。この時組合設立時の給与委員会による賃金昇給は少なく不満が渦巻いていた。組合結成に失敗すれば、全金同盟でその後の組合発起人身の振り方の面倒を見てもらうことまで話しをしていた。
当時組合は大きく総評と同盟に分裂していて、今はいずれも連合になっているが、創立時に全金同盟の支援を受けた。組合役員とか運営方法も全金同盟の指導を受けた。(全金同盟は、創立時に組合発起人の間で上部団体をどこにするか協議し、以前給与委員会でコンタクトがあった全金同盟に組合設立を相談することにし、支援を受け加入することになった。)
組合設立時には会社の妨害工作もあり、業務中に極秘に組合参加の署名簿が上司の目を逃れ回覧される緊張した場面も経験したし、組合結成通知翌日には朝礼で社長から組合参加者も元の給与委員会労働委員会に戻るよう訓示があり、即刻組合幹部会を開き、全金同盟担当者とともに正式に不当労働行為の抗議を社長・役員に行なったりした。設立の翌年にはストライキを背景(その時闘争資金はなく、全員同盟の支援が頼りだった。)に大幅賃上げと時短を勝ち取った。そのようなことの決定をするため、定例と臨時の執行委員会が開かれた。執行委員会は、組合の日常活動では最高意思決定機関である。(組合の最高意思決定機関は組合大会)
私は、書記長として、組合三役と協議したり、団体交渉を行ったり、上部団体の地区協議会に出席したり忙しかった。無論、会社の日常業務は、一担当者として設計の仕事をこなした。そのようなわけで、組合関係の会議は週に何度かあった。会議の内容は全て詳細にノートに記録していた。詳細に会議の内容をノートに取るのは、仕事の進め方と同じ手法を、そのまま組合の会議に持ち込んだに過ぎなかった。
実は私が所属していた、技術部の設計業務(設計は、いくつもチームがあった。)では、営業や製造や資材や上司や外注先との打ち合わせが頻繁にあり、設計チームの会議や、技術部のチーフ会議等もあった。技術部の様々な会議では、毎回議事録が作成され、議題、報告事項、伝達指示事項、決定事項、未決・検討事項等に分類し出席者全員に議事録が配布され、次回の会議までに、各自の担当事項に関する報告をする必要があった。他部門や外注との打ち合わせは、技術部の会議と同じ様式で打ち合わせ議事録が作成され、出席者全員に配布され、上司、部課長にも配布された。
そのような議事録を見てた部長や課長から呼び出され、技術的に問題ありということで変更せよと指示されることもあった。特に技術部長の指摘は厳しく、おかげで技術部の技術レベルは、大企業と対等に渡り合うレベルにまで上がった。外注先に対しては、議事録を根拠に決定事項を確実に実施するよう要求し、出来ていない時は、無償で議事録で決定された要求仕様どおりに変更させた。
このように、日常業務で習慣化された、手法を組合の会議に持ち込んだはずであったが、組合の会議では、私は議事進行をリードしたが、議事録を作っていなかった。それでも組合の会議で、私が書記長として議題とか前回の会議の討議事項を提示し議事進行をリードできたのは、議事録に起こせるレベルの詳細なノートをとっていた為だった。
ところが、組合大会の前に私にとって大問題が起きた。組合長が議事録を出せといいだし、他の執行委員も全員組合長を支持した。やむを得ず、私は、手書きで丁寧な字で一年分の執行委員会の議事録を作成した。何日も睡眠時間を削って書いた。40年前はワープロやパソコンはなかった。完成した執行委員会議事録の手書きの原稿を執行委員会に掛け、チェックを受けて細かい点を修正し大変な目にあった。無論その間会社の仕事は日常どおりこなした。
組合大会前に、翌年度の役員留任を要請されたが、大変なので断り、その代わり私が書記局を組織し書記局に入って書記長を補佐するということで、職場の後輩の了解を取り後輩を書記長に推薦し、後輩は書記長になった。就任後は立派に書記長の役を果たしていた。
その後、仕事の面で別の会社でも、中間管理職や技術部門の責任者として仕事をしたが、始めに勤めた会社と同じような議事録をのシステムを採用し、実施した。
そのような私の経験から、政府機関の議事録のない会議なんて信じられなかった。ましてや原子力という最先端の技術を扱い、国民の生命と財産に関してまさに危急存亡の事態で、官邸では東京まで被害が及ぶことまで危惧していたといわれる程の深刻な歴史的大事件である。そのような事態に対応する会議が、どのような過程でそのような決定を次々と出したのだろうか。
議事録のない会議は、フィードバックのない言いっぱなしの会議であり、責任の所在も明確でない無責任な会議としか言いようがない。指示もその指示内容が本当であったのかどうかもチェックしようがないのだ。逆に議事録を作ったり口を挟むことは、その会議を実質的にリードすることに繋がることが多い。
民主党に限らず、与党が公約を守らなかったり、方針がぐらついたりするのも、政治家に言いっぱなしの体質があって、議事録を作成してそれに基づき仕事をコントロール・マネジメントする習慣が元々ないのかもしれない、と疑いたくなる。少なくとも議事録があって、それに基づいてプラン・ドゥー・チェックをする体質があれば、もっとスムーズに政策遂行が出来ると思うし、政治主導が確立できたはずだ。
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