最近神戸の震災や、東日本大震災の被災者のドキュメントで独居老人の孤独死にまつわる話や、それに近い話がよく取り上げられた。
このような話を耳にすると、自分では孤独死するような独居老人になったつもりはないが、外的環境から見れば、私の場合、直系親族も既になく、60代後半ながら独身で資産もなく生活保護程度の年金暮らしで毎日接触する友人はいない、という条件だけで見れば、構造的には該当するかもしれないと思った。
しかし、別の側面から見れば全く違う面も持っている。
実際、自分自身で今の環境が、負け惜しみでなく、別に不遇とは思っていない。
例えば、このように、一方通行であっても、ブログを書き外部にじぶんの考えや感じたことを発信し、図書館に行って本を借りて読み、ジムやプールに通いいろんな年代の知人も出来て話しをし、古代史や野鳥の会といった趣味の会にもたまに参加したりしている。(以前はかなり積極的に参加していた)
もう少し、経済的に恵まれていれば申し分ないのだが、このようないろんなコミュニティーやサークルへの参加の中でそれぞれ違った側面での知人・友人が出来ている。
更に、少なくとも、月に数回は西天満の現代美術系の画廊を回っていて、それ以外に知り合いの作家の個展にはよく出かけるし、懇意にさせてもらっている作家や画廊オーナーもいて会えば、よく雑談もする。
展覧会のパーティーにも参加して、知り合いの人達と歓談することも多い。
このように見る限り、私の場合はある意味、一定程度の社会との接点を持っているといえそうだ。
もし私が、定年までサラリーマンで、趣味が無かった場合、多分今よりはるかに孤独な人生になっていたに違いない。
その意味で、私もよく参加するが、同窓会が盛んな意味も、よくわかる。
逆に、社会との接点は、自分自身で積極的に開拓すべきものかもしれないと思う。
例えば、私の場合を例に取れば、野鳥の会の場合も参加して間もない頃は、周囲に溶け込めずなじめなかった。
しかし、月に何度か参加するうちに、顔見知りが出来、話をするようになった。
そのうち、その人を通して話の輪が更に広がり、だんだんと会に溶け込んで、探鳥会の帰りには、駅前の喫茶店で野鳥の話や、世間話をするようになり、たまに、帰りに炉辺焼きで一杯やるようにもなった。
(この話は25年以上前の話)
その間、会に参加する人は、人間関係を構築する以前に、来なくなる人が多かった。
その気になれば、人間関係は、職場であれ、町内会であれ、趣味の会であれ、ネット上であれ、どこでも築ける。
ただし、自分を良く見せて対応しようとしたり、自分を隠そうとすると、お互い心のバリアが出来て、友達づきあいは出来にくくなるのだろう。
お酒を飲むと、飲み友達になりやすいのは、お酒の力でお互いに自分を開放する作用が働いているのだろう。
しかし、体が衰えて動けなくなると、自分の好きなことは出来なくなり、サークルやコミュニティーにも参加できなくなり、社会との接点が切れ孤独になる。
その意味において、私がジムやプールで体を鍛えるのは、先ず体が運動を要求していることと、加齢による体力低下の防止や遅延をさせ、出来る限り長く社会との接点を持った活動をするためである。
こうしたことは、老若男女にかかわらず時間の経過とともに、全員の身に降りかかることである。
だが、社会的弱者の方の場合は、社会との接点や交流を持ちにくいので、健常者が逆に積極的に社会的弱者に接するべきなのであろう。
私も、10年前までは、こんなこと真剣に考えたこともなかった。
今はとにかく可能な間に、筋力UPや持久力をUPさせて、誰も避けることの出来ない老化の進行に備えたい。
このような話を耳にすると、自分では孤独死するような独居老人になったつもりはないが、外的環境から見れば、私の場合、直系親族も既になく、60代後半ながら独身で資産もなく生活保護程度の年金暮らしで毎日接触する友人はいない、という条件だけで見れば、構造的には該当するかもしれないと思った。
しかし、別の側面から見れば全く違う面も持っている。
実際、自分自身で今の環境が、負け惜しみでなく、別に不遇とは思っていない。
例えば、このように、一方通行であっても、ブログを書き外部にじぶんの考えや感じたことを発信し、図書館に行って本を借りて読み、ジムやプールに通いいろんな年代の知人も出来て話しをし、古代史や野鳥の会といった趣味の会にもたまに参加したりしている。(以前はかなり積極的に参加していた)
もう少し、経済的に恵まれていれば申し分ないのだが、このようないろんなコミュニティーやサークルへの参加の中でそれぞれ違った側面での知人・友人が出来ている。
更に、少なくとも、月に数回は西天満の現代美術系の画廊を回っていて、それ以外に知り合いの作家の個展にはよく出かけるし、懇意にさせてもらっている作家や画廊オーナーもいて会えば、よく雑談もする。
展覧会のパーティーにも参加して、知り合いの人達と歓談することも多い。
このように見る限り、私の場合はある意味、一定程度の社会との接点を持っているといえそうだ。
もし私が、定年までサラリーマンで、趣味が無かった場合、多分今よりはるかに孤独な人生になっていたに違いない。
その意味で、私もよく参加するが、同窓会が盛んな意味も、よくわかる。
逆に、社会との接点は、自分自身で積極的に開拓すべきものかもしれないと思う。
例えば、私の場合を例に取れば、野鳥の会の場合も参加して間もない頃は、周囲に溶け込めずなじめなかった。
しかし、月に何度か参加するうちに、顔見知りが出来、話をするようになった。
そのうち、その人を通して話の輪が更に広がり、だんだんと会に溶け込んで、探鳥会の帰りには、駅前の喫茶店で野鳥の話や、世間話をするようになり、たまに、帰りに炉辺焼きで一杯やるようにもなった。
(この話は25年以上前の話)
その間、会に参加する人は、人間関係を構築する以前に、来なくなる人が多かった。
その気になれば、人間関係は、職場であれ、町内会であれ、趣味の会であれ、ネット上であれ、どこでも築ける。
ただし、自分を良く見せて対応しようとしたり、自分を隠そうとすると、お互い心のバリアが出来て、友達づきあいは出来にくくなるのだろう。
お酒を飲むと、飲み友達になりやすいのは、お酒の力でお互いに自分を開放する作用が働いているのだろう。
しかし、体が衰えて動けなくなると、自分の好きなことは出来なくなり、サークルやコミュニティーにも参加できなくなり、社会との接点が切れ孤独になる。
その意味において、私がジムやプールで体を鍛えるのは、先ず体が運動を要求していることと、加齢による体力低下の防止や遅延をさせ、出来る限り長く社会との接点を持った活動をするためである。
こうしたことは、老若男女にかかわらず時間の経過とともに、全員の身に降りかかることである。
だが、社会的弱者の方の場合は、社会との接点や交流を持ちにくいので、健常者が逆に積極的に社会的弱者に接するべきなのであろう。
私も、10年前までは、こんなこと真剣に考えたこともなかった。
今はとにかく可能な間に、筋力UPや持久力をUPさせて、誰も避けることの出来ない老化の進行に備えたい。