散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

仏教の般若心経と大乗・小乗仏教の違いについて(追)

2013年04月10日 17時02分57秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
仏教の経典や歴史に興味を持ったのは、20代の中頃は休みの日に、暇つぶしに京都や奈良の名所旧跡を歩いた。
それが、きっかけで仏像に興味を持ち古寺を回わり、和辻哲郎の古寺巡礼他、亀井氏や佐和氏の仏像の心と形関係の何冊かの本を読んだのが、経典や仏教へ興味を持ったきっかけだった。
その後は、西洋哲学やバロック音楽の関係でキリスト教にも興味が向き、仏教関係や東洋哲学に接することは少なくなった。

その後、20代終わりに失業しているときの暇つぶしに、発掘調査のアルバイトをしたことがきっかけで、考古学や文化人類学に興味を持った。
考古学では飛鳥以降に仏教関係の遺跡が増えるので、それに関連して改めて仏教も注目するようになった。
更にシルクロードブームのときに、仏教に関する関心が高くなり、お経関係の本も読んだりしたが、未だに仏教の歴史と宗教の本質が良く分からないまま、現在に至っている。

ところが先日、NHKTV番組の100分de名著の「般若心経」のテキスト(90ページほど)を、数時間で一気に読了した。
番組は見てなかった。
本の内容は、お経の内容の解説だけでなく、お経の成り立ちと、上座部仏教=大乗仏教の本質とが書かれていた。
興味があって、仏教経典に関連した、新書版の本も読んだが、今回読んだ内容は衝撃的だった。

このテキストの著者(佐々木閑)によると、釈迦の唱えた仏教と、般若心経は全く別物だという。
釈迦は涅槃を目指すためには、一切の業(善悪を含む)を捨て、煩悩を消す生活スタイルを求めたという。(自分を変える)
即ち「自利」=悟りに近づくために、自分の煩悩を消すための修行をすることである。
釈迦は、現世的善行は業を生むから涅槃を目指すものは、世俗の善行もしてはならないといったという。

しかし、大乗仏教では修行しなくても業の因果則から逃れられるアイデアを考えたという。
即ちそれが利他や廻向(えこう)という考え方だという。(徳を積む)
出家しなくても善行を積めば悟りが開かれるとした考えという。
そして般若心経に神秘主義を持ち込み、般若心経の最後の呪文を唱えることで救われる形になったという。
このように見ると、大乗仏教の成立過程にも興味がある。
(釈迦の死後数百年後に仏教教団の会議があり、上座部と小座部に別れたという。)

多分、この話はタイやスリランカ等の東南アジアの小乗仏教と、中国・朝鮮・日本の大乗仏教との根本的な違いなのであろう。(小乗仏教には般若心経はない。)
大乗仏教には、お釈迦様以外に多くの仏像(大日如来 阿弥陀如来 薬師如来・・ )があるし、それを表現したマンダラもあるが、小乗仏教はどうなのだろう。
薄い本であるが、根本的な問題をうまく説明していると思うと共に、この著者の分析が正しいとすると、同じ仏教でも、大乗仏教と、小乗仏教が大きく違うということがわかった。

仏教は、言うまでもなく日本文化の根底をなす要素の一つであり、意識的・無意識的に係わらず、日本文化や我々の意識や行動に大きな影響を与え続けている。
日本文化の基層を考えることは、日常にその影響下にある我々日本人の行動・意識・思想そして、これからの在り方を考え分析するときに大いに参考になる。

今後も機会があれば、西洋哲学と並行して仏教関係の本も読んでみたい。

参考
大乗成立過程と、スリランカ伝経典の来歴について。(中身の非常に濃いブログであるが、専門的過ぎてよく分からない)
以前のブログが無くなっていたので、同じタイトルのブログを探しリンクを貼っています。<2017年3月29日>

末尾にリンクしたブログ「宗教を語る」は大学の研究者が書いたものかも知れませんが、参考になる部分が多いので紹介しておきます。(著者に関しては末尾にコメントを記載しています)
全体的に学術的に書かれているように見えますが、別の専門分野から見ると、そこまで言い切れるのかなと思われる記述や、陰謀説や小説に近いものも少なからずあります。また新興宗教に関する批判の記述や、韓国関連の記述等も、かなり特定方向の価値観によるバイアス(個人的信念?)に基づいた意見である可能性も否定できないと思っていますし、その論拠が明確でない部分も多くあります。この感想については、私はこのペンネームの著者の記述内容に関してはほとんど無知であり、あくまで単なる私的感想であることを申し述べておきます。
宗教や芸術は論理ではなく価値観で支配されているので、どれが正しいということはできないと思っています。
(価値観<民族意識や宗教観も含む>は信念や信仰や好みと同じで、論理・理屈ではなく比較できない。<例えばジャズとクラシック音楽と演歌のどれが優れているということは、好みの問題で優劣の比較はできない。文化に関しても同じで、文化人類学的視点に立てばよくわかる。>歴史学は価値観ではないが、その立証には文献批判や考古学からの論証が必要。近年各種年代観も、そうした新しい物証の発見により大きく変化している。)
(この著者は禅宗関連の学者ないし宗教者ではないかと勝手に想像していますが、研究グループがグループで作成した可能性もあります。しかし、参考文献を分析すると一般書も含まれているし、内容に上記のように学術的でない断定も多くみられ、思想的に偏ったところもあり、著述家集団と一部宗教家や研究者が集団で作った可能性も否定できません。)
宗教を語る


散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより



コメント (1)

昨日記130409火(18/10晴 ジム 時速10km10分 時速9.5km5分)

2013年04月10日 11時52分54秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日午後からジム・プールの共通定期を買いに行き、そのままジムでトレーニングをした。
体調は悪くなかった。
前回同様、始めにじそく10kmで走り。その後時速9.5kmで走る予定だった。

いつも走る前にウォーミングアップとして時速5kmで約1分歩くが、よく考えると余り意味がなさそうに思えた。
そこで昨日は、新しいことをしてみようとした。
時速10km11kmでそれぞれ1分間ずつ走った。
それほど息も上がらず、足の筋肉への負担も感じなかった。
その後、トレッドミルを一旦止めて、今度は、時速10kmで走った。
10分間何とか走ったが、限界に近かった。
その後スピードを10kmから9.5kmに下げたが5分しか走れず、息が上がりトータル15分間走ってランニングを終えた。
記録を書くときに、前回の記録を見ると時速10kmで5分間走りその後時速9.5kmで25分間走っていた。
てっきり前回は時速10kmで10分間走っていると思っていたが、5分間だった。
どうりで、息が上がり苦しくて、いつもの半分の時間のトータル15分間でリタイアした理由が分かった。
時速10kmで1時間走れるようになるには先が長そうだ。
その後、筋トレをした。
コメント