散歩者goo 

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私流の大地震対策を考えた。(訂)

2013年04月14日 23時34分59秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
(訂正:S波のスピードがまちがっていたので、訂正しました。<計算式は正しい値を使用>)20130415

3.11の後、あのような大地震が起きた時、とっさにどうするべきか、いつも頭の中でシュミレーションするようになった。

始めの頃は、揺れだすとすぐに、机の下に潜り込むことしか頭に浮かばなかった。
しかし、最近は、この長屋は古いだけに巨大地震で倒壊する可能性が高いので、とっさにもっと安全な場所に逃げ込むことを考えた。

今の段階では、一番安全な場所は、路地に出て家の横の駐車場である。
従って、揺れが大きいと感じたら、すぐに表に出て隣の駐車場に逃げることを考えている。

しかし、直下型で逃げる時間もない場合、上がり框やその踏み台と、玄関の土間の間の隙間に逃げ込めばよいと考えている。
上がり框(あがりがまち)である三畳間と玄関の間のガラス障子の敷居まで、玄関の土間から約50cm近くの高さがある。
上がり框の敷居の下は、レンガ積みの土台の表面にコンクリーを塗っているので、屋根が落ちても多分重さに耐える。
更に玄関の土間と、上がり框の間に、高さ30cm程の踏み台が作ってあるので、その隙間に逃げ込めば、とりあえず建物に押しつぶされて圧死することはなさそうだ。

ということで、今後家に居るときは、突然大きく揺れる直下型地震の場合は、時間がないので、とっさに玄関の上がり框とその踏み台のあたりに逃げ込むことにする。
南海トラフ等の巨大地震の場合は、我が家の場合計算すると15秒程度の余裕があるので、5秒程度の時間で貴重品を袋に入れ、その後服を持って玄関の引き戸を開いて表に出て、駐車場に逃げ込むことにする。
これは、起きている場合でも寝ている場合でも共通であり、これからイメージトレーニングをするようにしたい。
ただ、寝ている場合は、着替える時間はないので、服だけは持って出るようにしたい。

大地震が発生して逃げる場合の事前準備として、常に貴重品や水と非常食や懐中電灯やラジオを即まとめて逃げることの出来る同じ位置に置いておくことも大事だろうし、自分で数ヶ月に一回程度非常収納物を収納する演習も実施しすることも必要だろうと思う。

ついでに、南海トラフ型の大地震の場合逃げることの時間を計算してみた。
家から、紀伊半島沖の震源までの距離を300kmとすると、伝わるスピードの速いP波の最も遅い場合の時間と、スピードの遅いS波が最も早く伝わる時間差が、小刻みな揺れを知ってから、大きな揺れが来るまでの最小時間となる。(従って通常はそれ以上の余裕時間ができる。)

P波の速度は5-7km/秒なので、P波が到達するまで、最長で300/5=60秒 (小さな上下動)
S波の速度は3-4km/秒なので、S波が到達するまで、最短で300/4=75秒 (大きな横揺れ)
で伝わる。
P波の小刻みな上下動の微震動を感じてから、S波の大きな横揺れが来るまで、最短で15秒のタイムラグがありそうだ。
先に書いたように、15秒あれば、貴重品と服としっかりした底の厚い靴を持って家を飛び出して外に逃げ出巣ことが出来そうだ。
繰り返しになるが、事前にすぐに持ち出すものを、極短時間でナップサックに詰め込めるよう配置しておくことが鍵になることは言うまでもない。

津波等の備えは、地震が収まってからの話である。

参考
ウイキペディア 地震波(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E6%B3%A2)
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昨日記130413土(15/6晴 M6.3の大地震 工業高校同窓会 酔い覚ましの散歩)

2013年04月14日 13時17分34秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日、寝床で夢を見ていると、地震で目覚めた。
がたがたと揺れていて揺れも大きい。
即飛び起きて、いつも頭の中で緊急事態を想定して対処を予定している行動をとった。
そのまま布団から這い出し、3畳の間と玄関の間のガラス障子を開け、玄関の入り口の引き戸の鍵を開け、引き戸を開らき、パジャマのまま表に飛び出た。
多分この間数秒で終えたと思う。

玄関の入り口の引き戸の扉を先ず開かなければ、万一家が変形したり倒壊する時は、家の中に閉じ込められ、その中で負傷したり死んだりする可能性があるのだ。
表では誰も出ていなかった。
すぐに玄関に入り地震の揺れの様子を見ながら玄関の踏み台に座った。
地震が終わったので、玄関を閉め、TVの地震速報を見た。
やはり、それなりの大きい地震だった。
ひとしきり地震速報を見て、再び布団に潜り込んだ。
もう、眠ることは出来なかった。

その後、昼前から高校の同窓会に出かけた。
12時から阪急梅田駅横の飲食店で同窓会をすることになっていた。
大きなチェーン店なのだが、飲食店のひしめき合う梅田では、看板も目立たない。
事前にPCで場所を確認していたが、一瞬迷いかけたが、ほぼ迷うことなくたどり着けた。

出席者は、既にほとんど来ていた。
工業高校の同窓会は10年ほど前から、毎年この時期にやるようになり、電子工業科の5組6組の二クラス合同の同窓会であるが、そもそも電子工業科は、5組6組の2クラスしかなく、学年ごとにクラス替えが行われ、ほぼ全員一度はクラスメートになったか、もしくは顔見知りである。
休み時間中は、友達やクラブのメンバーを訪ね、クラス間で行き来しているものも多かった。

同窓会は、十数名の出席で電磁気学を教えていただいたI先生も来られていた。
人気図書にもなった電子物性論の本を執筆された下村先生は、数年前他界されたという。
その本は、我々が学生時代はゲラ刷りで教えてもらっていて、丁度工業高校を卒業した頃にその本が出版されて、当時の学会での最先端の知識と理論を分かりやすく解説したことで大学から高専や工業高校にも人気があり、多分20年以上売れていたと思う。
当時我々は、工業高校でありながら、文字通り最先端の技術を学んでいたのが自慢である。
(学生当時は、自分達がどんなことを学んでいるか分からなかったが、技術者になって過去を振り返ると、大学に匹敵する高度な技術を学んでいたことがよく分かった。事実、当時学んでいたことの参考書は、本屋に行っても見当たらなかった。)

出席した同窓生の中で、阪大から民間企業に就職しその後大学教授になったK氏は数年前に大学を退職し、確か、民間企業から京大の研究所に入り、その後原子力関係の助教になった、N氏は先週退官して、今も研究所から問い合わせの連絡が来ているという。
それ以外に、今回欠席したが、阪大で教員をしている同窓生が一人いる。(多分退官している?)

この同窓会の出席者の中に、女性も3人いる。
彼女等とは同じクラスになったことがない。
当時工業高校には、女性はいなかった。
彼女等は女性技術者の先駆者でもある。
以前の同窓会では、当時の技術の現場での女性差別の話を聞いた。
設計できる能力がありながら、お茶くみや図面焼きをさせられたりしたという。

彼女達は退職後も色々活動していて、NPOの理事長をしていた人もいる。
昔話や、今の近況報告で盛り上がり楽しく過ごせた。
メインの、同窓会は会費3500円で精算後6414円あまったので、東日本大震災へ寄付することになった。
その後、2次会を、喫茶店でやって夕方お開きになった。

私は、友人達と別れて、酔い覚ましを兼ねて、ワインパーティーをしているところがあると記憶していたので、訪ねていったら誤りだった。
その後天神橋筋の古本屋へ本を探しに出かけ数軒の古本屋を回ったが、目的の本はなかったが、掘り出し物を見つけたが、買わずに帰った。
歩いた距離は、約4kmでよい覚ましには程よい運動であった。

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