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本日で短期アルバイト終了!! 嬉しい
さて、昨日(1/1)は29・30・31日と続いたアルバイト後の休日だった。
そして今日(1/2)夕方まで働いて、短期アルバイト終了した。
昨日の朝は、NHKの伊勢神宮の式年遷宮のドキュメントを見て、始めは、天皇賛美の番組かと思ったが、しっかりとした最新の学術的研究成果も入れたいい内容だった。
この件に関連して、書きたいこともあるが、長くなるので止めておく。
今日の、出雲大社編が見れなかったのが、残念だ。
朝は、雑煮を作って食べたが、お酒を飲んだので、少し昼寝してしまった。
お雑煮といっても、いつもの温野菜に餅を入れただけのことだ。
しかしここ数年調理はすべて電子レンジのみでこなしている。
毎年お雑煮を作るが、毎回必ず始めの数回は大失敗している。
加熱しすぎて、餅が溶けるのだ。
始めのころは、餅がどろどろに溶けて餅の膜が覆っていた。
昨日も餅の形が崩れ、半分溶けていた。
年賀状で、住所間違いで返送されていた年賀状を、新しく印刷し投函した。
それから、元日の午前中から、スーパーに不足している食材を買出しに行く始末。
その後、今日の朝食の準備も出来ていないので、いつものように8食分の食材を切分け、とりあえず午後の雑煮を作った。
更に昼食後、今日のアルバイトのオニギリが無かったので、昼食用のオニギリ分も含め10食余りのご飯を炊き、1食ずつ小分けにしてラップに包み冷凍した。
元日早々から、このような、こまごました家事に時間をとられたため、昼というより夕方から、住吉大社に初詣に行った。
住吉大社の祭神は、九州の宗像大社の沖ノ島と関連するし、住吉大社は摂津一の宮であり、その立地は海から大和へ入る入口に当たる。
朝鮮半島への航路に近い沖ノ島で何度も行われた大規模な沖ノ島祭祀は、古墳時代から奈良時代にかけての国家的祭祀の可能性があり、海の正倉院とも称せられている。
大和に出来た初期巨大前方後円墳群が作られた後、巨大古墳の造営は大仙陵古墳(仁徳陵)や誉田御廟山古墳(応神陵)のある、河内、和泉に移る。
それには、どういう政治軍事国際情勢が関連したのか。
当時は大和は連合王権だったといわれる。(天皇ではなく、大王であった。)
お参りしながら、当時の古代史に思いを馳せた。
最新の考古学や文献資料は、新しい古代の日・朝・中関係や古代の政治経済軍事や宗教の状況を少しずつ解明しつつある。
韓国の南部に存在する、日本独自の墳墓である前方後円墳は、何を意味するのか興味は尽きない。
(前方後円墳の起源は日本であり、弥生時代末期からの系譜がたどれるが、その要素は弥生時代に各地域の独自に発展した墓制の要素が含まれていることが分かっている。
因みに、韓国南沿岸地域の古代伽耶諸国一帯にある前方後円墳の成立は日本の古墳時代中期以降の短い一時期に作られた。)
遅い夕食後、昼前に切り分けた8食のうち4食分の食材を使い、温野菜のセットを4セット作った。
今日のアルバイトの準備も含め、夜中の12時までかかり、結局寝たのは1時前だった。
アルバイトへの影響を心配したが、幸いアルバイトに影響は出なかった。
本日で短期アルバイト終了!! 嬉しい
さて、昨日(1/1)は29・30・31日と続いたアルバイト後の休日だった。
そして今日(1/2)夕方まで働いて、短期アルバイト終了した。
昨日の朝は、NHKの伊勢神宮の式年遷宮のドキュメントを見て、始めは、天皇賛美の番組かと思ったが、しっかりとした最新の学術的研究成果も入れたいい内容だった。
この件に関連して、書きたいこともあるが、長くなるので止めておく。
今日の、出雲大社編が見れなかったのが、残念だ。
朝は、雑煮を作って食べたが、お酒を飲んだので、少し昼寝してしまった。
お雑煮といっても、いつもの温野菜に餅を入れただけのことだ。
しかしここ数年調理はすべて電子レンジのみでこなしている。
毎年お雑煮を作るが、毎回必ず始めの数回は大失敗している。
加熱しすぎて、餅が溶けるのだ。
始めのころは、餅がどろどろに溶けて餅の膜が覆っていた。
昨日も餅の形が崩れ、半分溶けていた。
年賀状で、住所間違いで返送されていた年賀状を、新しく印刷し投函した。
それから、元日の午前中から、スーパーに不足している食材を買出しに行く始末。
その後、今日の朝食の準備も出来ていないので、いつものように8食分の食材を切分け、とりあえず午後の雑煮を作った。
更に昼食後、今日のアルバイトのオニギリが無かったので、昼食用のオニギリ分も含め10食余りのご飯を炊き、1食ずつ小分けにしてラップに包み冷凍した。
元日早々から、このような、こまごました家事に時間をとられたため、昼というより夕方から、住吉大社に初詣に行った。
住吉大社の祭神は、九州の宗像大社の沖ノ島と関連するし、住吉大社は摂津一の宮であり、その立地は海から大和へ入る入口に当たる。
朝鮮半島への航路に近い沖ノ島で何度も行われた大規模な沖ノ島祭祀は、古墳時代から奈良時代にかけての国家的祭祀の可能性があり、海の正倉院とも称せられている。
大和に出来た初期巨大前方後円墳群が作られた後、巨大古墳の造営は大仙陵古墳(仁徳陵)や誉田御廟山古墳(応神陵)のある、河内、和泉に移る。
それには、どういう政治軍事国際情勢が関連したのか。
当時は大和は連合王権だったといわれる。(天皇ではなく、大王であった。)
お参りしながら、当時の古代史に思いを馳せた。
最新の考古学や文献資料は、新しい古代の日・朝・中関係や古代の政治経済軍事や宗教の状況を少しずつ解明しつつある。
韓国の南部に存在する、日本独自の墳墓である前方後円墳は、何を意味するのか興味は尽きない。
(前方後円墳の起源は日本であり、弥生時代末期からの系譜がたどれるが、その要素は弥生時代に各地域の独自に発展した墓制の要素が含まれていることが分かっている。
因みに、韓国南沿岸地域の古代伽耶諸国一帯にある前方後円墳の成立は日本の古墳時代中期以降の短い一時期に作られた。)
遅い夕食後、昼前に切り分けた8食のうち4食分の食材を使い、温野菜のセットを4セット作った。
今日のアルバイトの準備も含め、夜中の12時までかかり、結局寝たのは1時前だった。
アルバイトへの影響を心配したが、幸いアルバイトに影響は出なかった。