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私は、ブログを書くときは、いつもワードで下書を書いてから、それをコピーして投稿している。
ワードに関しては、変換ミスが余りにも多く、不満があるが、これを言い出すととまらないので止めておく。(お金があれば、日本の別のソフトを使いたいがこれで辛抱している。)
直接ブログの投稿用フォームに書くと、事故や操作ミスで書きかけのものがすべて消えてしまうことがあり、過去に何度も「しまった」という思いをした。
書き方を下書方式にしてから4-5年になり、それ以降投稿に関するトラブルは無い。
ただ、ほとんどの場合書いてそのまま投稿することが多いので、私のブログには誤変換や文章の乱れやタイプミスや、句読点のつける位置の悪さが目立つ。
特にコピペで文章の段落をまたいで変更した場合、消し忘れが残っていたために意味の分からない文章になったまま投稿されていた例もあった。
そのため数日以内にブログに訂正や追加をすることは多く、よく読まれているブログは、後から読み直して修正を加えたり、記事の訂正追加をしている。
ブログの下書のファイルは、雑記帳も兼ねているので、思いついたブログのテーマや書きかけの下書とか、参考資料のコピーやリンクも多く入っていて、46ページにもなっているので、主な項目にブックマークをつけて、頁の冒頭に各ブックマークのタイトルを、目次代わりにつけた。
これに似た雑記帳は、アクセスでも自分で設計して作っていて、一時期良く使っていたが、便利はいいが、なぜか最近使っていない。
ワードの雑記帳の内容を、アクセスに一本化したほうがよさそうだと考えているが、書きながら考えるときは、調査した項目にブックマークを付けて集めておいて、必要に応じジャンプしたほうが考えをまとめやすいと予想している。
昨日は朝から昼前までそうしたことに関連した作業をした。
以外に書き散らした下書は多く、ほぼそのまま投稿できるものもあるが、キーワードの羅列だけの構想だけのものも多い。
理化学工学系列や医療健康関係とか、歴史考古学資料等は、学術的正確さも必要なので、資料の取り扱いやリンク先の信頼性には注意を払っている。
人文科学の、哲学的なものや美学論争は、人間の価値観がベースになっていて、ベースとなるパラダイムが変わると変化するので、その言説が一定の価値観定義を正しいとした場合の相対的なもので真理は無いと考えている。
例えば、歴史に関しても歴史観が国によっても全く違うことや、例えば考古学上の年代観も未だに学者の間で違うことを見ても、その根拠が人間的主観で左右されていることは明らかである。
芸術に関しては、属人的ファクターがすべてといってよいかも知れず、各人好みも違うので、芸術論争や美術論争をしても話がかみ合わないことが多い。
例えば、日常的に使われる、現代美術という言葉でさえ定義は、学者により違うし、定義される作品の範囲も違う。
ある作家は、富士山の絵を八の字芸術とこき下ろしたが、別の人は大観や北斎の作品に心酔しているといった例を見ても、芸術的評価に科学のような絶対基準(だれが実験、計算しても違う方法で何度繰り返しても再現性があり、同じ結論に到達するものが、真理。)がないことは明らかで、その基準(その世界の行動や構造・構成の根底にある原理や基準や考え方:パラダイム)に則った評価でしかないと思っている。
だから、違う価値観で作られた作品を、別の価値観で評価評論することは、無意味なのである。
だが、世の中には、そうした無意味な論争の事例は多く、権威と尊敬される人たちでも平気でそのような過ちを犯すし、同時に混乱もする。
そのような価値観の違いについて具体的に言えば、義太夫をハードロックを聴く聞き方では、聴けないだろうし、日本の古い具象の洋画を見る目で現代美術を見ることはできないだろうし、尺八や三味線を現代音楽やジャズに使うことができても、日本民謡を聴く聴き方で、前衛音楽や、ノイズを聴くことは困難だろう。
しかし私は、日本民謡も現代音楽も聴くし、古い日本の洋画も現代美術もよく見る。
多くの音楽好きの人は、多くのジャンルの曲(例:クラシックも歌謡曲も)を聴く人が多いし、美術愛好家も同様だ。
経験的に見ると、鑑賞者の多くの人が、美術や音楽分野で、複数のジャンルの観かた聴き方を習得しているようだ。
芸術芸能の世界では、それぞれの分野ごとに独自の世界を持っているので、多くのジャンルを鑑賞できると言うことは、それだけ人生を豊かにしてくれるということにもなると思う。
日本では、先生と呼ばれる存在は全人格的に尊敬される場合が多く、センセイと称される人の言動はすべて正しいと付き従う人が多いが、大間違いである。
センセイやお師匠さんは、その人の才能や実績が評価されている分野での専門家であって、分野が違えば、素人である。(多くの才能を同時に持っている人もたまにいるが。)
それを、自慢げに自分の専門外の分野のことまで、間違った<勘違いや理解不足も含む>事実やいきさつ(事実は価値観とは無関係なくだれが見ても同じ)を生徒やフォロワー(追従者)に語ったりする人も良く見かけるが、裸の王様状態で見苦しい。
又、生徒やフォロワーは先生のすべてを無批判に正しいとして学ぼうとする人が多い。
そもそも芸術や学問の分野においては、表現や学問の基礎は先生なり師匠に習う必要があるが、あるレベル以上は、自分で勉強し研究し創造していくしかないのである。
その時点では先生や師匠は良きライバルとなるのだ。
技術的にある程度のレベルになっても自立せず、先生や師匠の教えを請うのは、芸術家としては単なる追従者でしかなく、芸術でなく習い事になっているのかもしれない。
この場合、先生なり師匠の能力が、生徒や弟子の能力よりはるかに高すぎたり、生徒や弟子の勉強不足や努力不足の場合、そのようなことが起きると考えられる。
自分が本物の芸術家・表現者を目指しているなら、先生の深い観かた考え方ならどのような指摘をするか考えるのも良いが、それを乗り越えたより新しく深い考え方で表現するという気概を持たない限り、新しい本当の表現者・芸術家にはなれないと思う。
伝統文化・芸能や工芸の場合は、習い事・伝承は、非常に価値あることであり、伝統芸能の師弟関係は、生活の仕方、行儀作法を含めた伝統芸能文化であるため、上記の考えとは異なる部分があり、伝統文化として尊重されるべきだろう。
先生については、自分を育ててくれた人であり、自分が持っていない深い経験は尊重されなければならないので、いつまでも尊敬の対象であることに変わりはない。
ずいぶん話が横道にそれたが、昨日午後から布施のホームセンターに行き、ワイヤ製の棚(システムシェルフ)を購入した。
表に置いてある、温室用の棚が、プランターの重みに耐えられず、プラスチックの梁が撓みだしたのだ。
良く似たすべて金属製の温室セットがあったが、高いのでホームセンター内で棚ラック類を探し回った。
最終的に、ワイヤ製の自在棚が耐荷重も十分いけそうなので、今使用中の温室セットの棚より小さいが、何とか代替として可能だろうと判断して購入した。
自転車で行ったので、持ち帰るとき大きすぎて前かごに入らないし、かつかなり重いので、仕方なく自転車の荷台のゴムひもを購入し、荷台に縛り付けて帰った。
私は、ブログを書くときは、いつもワードで下書を書いてから、それをコピーして投稿している。
ワードに関しては、変換ミスが余りにも多く、不満があるが、これを言い出すととまらないので止めておく。(お金があれば、日本の別のソフトを使いたいがこれで辛抱している。)
直接ブログの投稿用フォームに書くと、事故や操作ミスで書きかけのものがすべて消えてしまうことがあり、過去に何度も「しまった」という思いをした。
書き方を下書方式にしてから4-5年になり、それ以降投稿に関するトラブルは無い。
ただ、ほとんどの場合書いてそのまま投稿することが多いので、私のブログには誤変換や文章の乱れやタイプミスや、句読点のつける位置の悪さが目立つ。
特にコピペで文章の段落をまたいで変更した場合、消し忘れが残っていたために意味の分からない文章になったまま投稿されていた例もあった。
そのため数日以内にブログに訂正や追加をすることは多く、よく読まれているブログは、後から読み直して修正を加えたり、記事の訂正追加をしている。
ブログの下書のファイルは、雑記帳も兼ねているので、思いついたブログのテーマや書きかけの下書とか、参考資料のコピーやリンクも多く入っていて、46ページにもなっているので、主な項目にブックマークをつけて、頁の冒頭に各ブックマークのタイトルを、目次代わりにつけた。
これに似た雑記帳は、アクセスでも自分で設計して作っていて、一時期良く使っていたが、便利はいいが、なぜか最近使っていない。
ワードの雑記帳の内容を、アクセスに一本化したほうがよさそうだと考えているが、書きながら考えるときは、調査した項目にブックマークを付けて集めておいて、必要に応じジャンプしたほうが考えをまとめやすいと予想している。
昨日は朝から昼前までそうしたことに関連した作業をした。
以外に書き散らした下書は多く、ほぼそのまま投稿できるものもあるが、キーワードの羅列だけの構想だけのものも多い。
理化学工学系列や医療健康関係とか、歴史考古学資料等は、学術的正確さも必要なので、資料の取り扱いやリンク先の信頼性には注意を払っている。
人文科学の、哲学的なものや美学論争は、人間の価値観がベースになっていて、ベースとなるパラダイムが変わると変化するので、その言説が一定の価値観定義を正しいとした場合の相対的なもので真理は無いと考えている。
例えば、歴史に関しても歴史観が国によっても全く違うことや、例えば考古学上の年代観も未だに学者の間で違うことを見ても、その根拠が人間的主観で左右されていることは明らかである。
芸術に関しては、属人的ファクターがすべてといってよいかも知れず、各人好みも違うので、芸術論争や美術論争をしても話がかみ合わないことが多い。
例えば、日常的に使われる、現代美術という言葉でさえ定義は、学者により違うし、定義される作品の範囲も違う。
ある作家は、富士山の絵を八の字芸術とこき下ろしたが、別の人は大観や北斎の作品に心酔しているといった例を見ても、芸術的評価に科学のような絶対基準(だれが実験、計算しても違う方法で何度繰り返しても再現性があり、同じ結論に到達するものが、真理。)がないことは明らかで、その基準(その世界の行動や構造・構成の根底にある原理や基準や考え方:パラダイム)に則った評価でしかないと思っている。
だから、違う価値観で作られた作品を、別の価値観で評価評論することは、無意味なのである。
だが、世の中には、そうした無意味な論争の事例は多く、権威と尊敬される人たちでも平気でそのような過ちを犯すし、同時に混乱もする。
そのような価値観の違いについて具体的に言えば、義太夫をハードロックを聴く聞き方では、聴けないだろうし、日本の古い具象の洋画を見る目で現代美術を見ることはできないだろうし、尺八や三味線を現代音楽やジャズに使うことができても、日本民謡を聴く聴き方で、前衛音楽や、ノイズを聴くことは困難だろう。
しかし私は、日本民謡も現代音楽も聴くし、古い日本の洋画も現代美術もよく見る。
多くの音楽好きの人は、多くのジャンルの曲(例:クラシックも歌謡曲も)を聴く人が多いし、美術愛好家も同様だ。
経験的に見ると、鑑賞者の多くの人が、美術や音楽分野で、複数のジャンルの観かた聴き方を習得しているようだ。
芸術芸能の世界では、それぞれの分野ごとに独自の世界を持っているので、多くのジャンルを鑑賞できると言うことは、それだけ人生を豊かにしてくれるということにもなると思う。
日本では、先生と呼ばれる存在は全人格的に尊敬される場合が多く、センセイと称される人の言動はすべて正しいと付き従う人が多いが、大間違いである。
センセイやお師匠さんは、その人の才能や実績が評価されている分野での専門家であって、分野が違えば、素人である。(多くの才能を同時に持っている人もたまにいるが。)
それを、自慢げに自分の専門外の分野のことまで、間違った<勘違いや理解不足も含む>事実やいきさつ(事実は価値観とは無関係なくだれが見ても同じ)を生徒やフォロワー(追従者)に語ったりする人も良く見かけるが、裸の王様状態で見苦しい。
又、生徒やフォロワーは先生のすべてを無批判に正しいとして学ぼうとする人が多い。
そもそも芸術や学問の分野においては、表現や学問の基礎は先生なり師匠に習う必要があるが、あるレベル以上は、自分で勉強し研究し創造していくしかないのである。
その時点では先生や師匠は良きライバルとなるのだ。
技術的にある程度のレベルになっても自立せず、先生や師匠の教えを請うのは、芸術家としては単なる追従者でしかなく、芸術でなく習い事になっているのかもしれない。
この場合、先生なり師匠の能力が、生徒や弟子の能力よりはるかに高すぎたり、生徒や弟子の勉強不足や努力不足の場合、そのようなことが起きると考えられる。
自分が本物の芸術家・表現者を目指しているなら、先生の深い観かた考え方ならどのような指摘をするか考えるのも良いが、それを乗り越えたより新しく深い考え方で表現するという気概を持たない限り、新しい本当の表現者・芸術家にはなれないと思う。
伝統文化・芸能や工芸の場合は、習い事・伝承は、非常に価値あることであり、伝統芸能の師弟関係は、生活の仕方、行儀作法を含めた伝統芸能文化であるため、上記の考えとは異なる部分があり、伝統文化として尊重されるべきだろう。
先生については、自分を育ててくれた人であり、自分が持っていない深い経験は尊重されなければならないので、いつまでも尊敬の対象であることに変わりはない。
ずいぶん話が横道にそれたが、昨日午後から布施のホームセンターに行き、ワイヤ製の棚(システムシェルフ)を購入した。
表に置いてある、温室用の棚が、プランターの重みに耐えられず、プラスチックの梁が撓みだしたのだ。
良く似たすべて金属製の温室セットがあったが、高いのでホームセンター内で棚ラック類を探し回った。
最終的に、ワイヤ製の自在棚が耐荷重も十分いけそうなので、今使用中の温室セットの棚より小さいが、何とか代替として可能だろうと判断して購入した。
自転車で行ったので、持ち帰るとき大きすぎて前かごに入らないし、かつかなり重いので、仕方なく自転車の荷台のゴムひもを購入し、荷台に縛り付けて帰った。