散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

昨日記140114火(底冷えと服の断熱について 古墳と神社)

2014年01月15日 12時27分56秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
天気 晴 ―mm 7.4 -0.5℃  58% .1.4m 北東

今朝も厳しい寒さが続く。
それでも昨日の朝の最低気温が-0.5度より高くなっていて、室温も7度台だった。
机に向かっていても、足元からの底冷えを感じる。
多分輻射熱が大きく作用しているのかもしれない。
放射される輻射熱は絶対温度の4乗に比例するので、周囲の温度より温度差が出来ると、少しの差であっても結構輻射熱は出るようだ。
そのように考えると底冷えで、冷えるということもうなづける。

輻射熱は、光や紫外線や電波やレーダー用電磁波と同じ電磁波の一種の赤外線によるもので、それらは単に波長の違いだけで区別され、その性質も違ってくる。
赤外線も遠赤外線も波長の違いだけで、同じ電磁波の一種であることに変わりは無い。
そうした電磁波で波長の短いものは、障害物があると遮断される。
輻射熱は赤外線なので、途中に遮蔽物を置くと遮蔽物に輻射熱が伝わり、その先には輻射熱は伝わらない。

そのことは、ストーブや焚き火にあたっていて、その前に人が立つと暖かくならないことをよく経験するが、そうした事例でも良く分かる。
ある物体の温度が周囲より高くなれば、輻射熱による熱拡散が発生し熱が放出されるので冷やされる。(それ以外にも空気中であれば対流が起こり、物が接していれば伝導により熱が温度の低いところへ流れ冷やされる。)
例えば、暖かい体があって、床や空気が冷たければ、そこに向かって輻射熱が発生する。
多分これが輻射熱の体感する底冷えの感覚と思う。

人間は、衣料を着ることで、熱伝導や輻射による熱の放出を防いでいる。
即ち、衣類の熱抵抗により熱の流れを小さくすることで人体を保温し、外部に露出した服の表面温度(服の表面温度が高いほど、熱は多く外部に放出される=薄着は熱の放出大・厚着は熱の放出少)は、熱の伝導・対流・輻射により熱が放出されて服の表面温度が、服の熱抵抗(断熱の度合い)に応じて下がる。
この服の熱抵抗と外気温(空気の温度)や周囲(壁・床・地面・空)の温度差で、体から出て行く熱量が決まる。
体の発生する熱量が、体にまとった服から放出される熱量に追いつかなければ、やがて体温は下がり、冷えや寒さを感じることになる。
その意味で身に付ける衣服は、衣料の持つ断熱作用(熱抵抗)で服の外気温や床との温度差を小さくし、輻射熱や熱伝導や対流で奪われる熱を抑えている。
分かりきった結論だが、上記のことから底冷えする場合は、更に着込んで服の表面温度と、床面との温度差を小さくすることで熱の輻射による放出を抑えるのが良いようだ。
輻射熱に対しては、毛羽立ったボアが輻射に対する障害物となり、かつ空気層を作ることで伝熱や対流による熱放出を防ぐので輻射も含む防寒対策に有効なのだろう。

最近急に寒くなり、底冷えがしだしたので、寒さ対策強化のため夕方から、買物に出かけた。
先日も述べたように、マットの下の断熱がフローリングの底冷えに対し放熱が増加しの充分断熱が出来ていないため、自力で暖かくならないので、先ず断熱シートを買うことにした。
ホームセンターで、断熱シートを見つけたが、高かったので他を探していると、キャンプ用のマットを見つけた。
約1畳分が600円台と安かったので購入した。(アルミ箔面付き・断熱シートと同じ)
その後、スーパーに行き、オーバーズボン代わりの防寒ズボンを購入した。
まだ値段は一部商品は下がっているが、この寒波の影響で買いが続いているようで、多くの商品は年末と変わらない価格だ。

昨夜は、早速マットの下に断熱シートを追加して寝たが、今朝目覚ましで起こされたとき、ポカポカ日よりの春のような感じで、とても心地よく、もっと寝ていたかった。

スパーの帰りに、カフェにより本を読み、少し難解な考古学関係の本を読み終えた。
日本の神道の起源とも関連する話だが、最近、纏向遺跡と伊勢神宮や、出雲大社との関係を直接結び付けようとする説が高まっているが、本当にそうなのだろうか。
纏向遺跡は、箸墓(卑弥呼の墓とも言われる最古の前方後円墳といわれる)や三輪山(元伊勢)のふもとにあり、弥生末から古墳時代初期の遺跡で、いわゆる卑弥呼の時代の遺跡で考古学的にも非常に重要な遺跡だ。
古墳時代の祭祀は3世紀の最初の前方後円墳といわれる箸墓の直前から、古墳時代終末期の6-7世紀まで続く。
その古墳の祭りは徐々に明らかになりつつあるが、時代とともに変化している。
(前方後円墳はヤマト王権と関係した古墳といわれている。)

古墳時代の神社は無いといわれる。
仏教が、古墳時代の終末期のころ渡来した。
仏教の寺院は固定した立派な建物であった。
神社の宗教施設としての構成という考え方も、仏教の影響も受けた可能性があるかもしれないという意見もある。
伊勢神宮の成立は、武力で政権を奪取(壬申の乱:大海人皇子(後の天武天皇)が天智天皇の太子・大友皇子<弘文天皇>の近江朝廷を滅ぼした、古代史上の最大の内乱。)した天武天皇(676)の意思を継承した持統天皇の時代前後という説もあるが詳細は不明である。
確かなのは698年には伊勢神宮があったという。
彼女は、自分の息子に皇位を継がせたかったという。
そのときに絶対王政的祭政一致の天皇制を整え、その装置として伊勢神宮が必要であったという見方も成り立つ。
「天皇」号の成立は7世紀後半といわれる。(ウイキペディア:天皇)
天武天皇が武力で政権奪取するときには、伊勢東海を含む中部地域の舎人関係の豪族の支援無しには、壬申の乱を勝利しえなかったのではないかとも思われるし、そうした関係を考えるのも面白い。
読了した本については、詳細なデーターを元に論拠を積み上げられていて、私が充分理解できていないので、出来れば再読しもう一度整理して紹介したい。

コメント