川之江のひなびたホテルを出て、
再度、ノスタルジックなアーケードに。
路地には古い建物がある。
Japonismというものは、まさに「カオス」であり、
そこには人間の造られた「美」は存在しないが、
その時々の「機能」を重視した「局在」が存在する。
造られた「全体性」は存在しないが、
逆に「こころ(人間)」のネットワークは、
こういう古い商店街の人たちには存在しているのだろう。

複合ビルに入る店とは違い、
そこには生活が入り込んでいるために、
長屋的なこうしたアーケードには人としてのやさしさが存在しているであろう。
しかしながら、逆に「競争原理」というものが入らなかったことから、
日本全国のこうしたアーケードはドーナツ化現象に陥っている。
ここには難しい問題があるが、
日本人のこころの変化が大きく影響している。
「同じ」を求める「安心」を求める、その志向性である。
「イオン」が爆発的に発展しているのも、
車での移動だの、駐車場だのの問題というよりは、
そうした「こころ」の影響が大きいのかもしれない。
朝の特急「しおかぜ」に乗り、
新幹線を乗り継ぎ、環状線に飛び乗り、
近鉄のホームへ走り、
大学へ。
学科会議、大学院研究科委員会、大学院の授業を連続して終えた。
その間、ある私の「もやもや」が吹き飛び、
その瞬間「すがすがしい気分」となる。
橋本初代高知医療学院学院長のことば「すがすがしい気分でありたい」である。

いろんなことで、知名度がUPしたがゆえの心の問題を抱えていたが、
それも吹っ切れた。
自分自身が自分自身の人生を操作できない状態であったが、
今は、フリーを感じている。
私の人生は私で決める、この感覚は実にすばらしい。
「リハビリテーションのための脳・神経科学入門」のあとがきで書いた、
「目標設定などにおいて、患者さんは自分の人生を自分自身で決めることができない」
その感覚を自らの体験をもって感じ取ることができた。
大学院の講義は「美しく生きるための健康科学総合特論」
この美しさというものは、目に見える美しさというのではない。
目に見えない、自らの脳(こころ)で感じる自己意識のことを言っている。
徳をのばす、知をみがく、それもとっても大事だが、
最終的には、自己をつくる(美をつくる)ということが、
人間としての究極の目標なのだと思う。
俄然、執筆意欲に沸いてきた。
今日は岡山で講義です。