今日はAMが勝負と思い、「身体運動学」の「運動学習」の章を書き始めた。
今日の目標原稿用紙50枚と思い、書き始めたが、
どうも、旧来の「運動学習理論」、とくに、「古典的行動心理学」に基づく、
連合説の説明、そしてその限界点について論理的解釈を進めるにあたり、
その説明のところで止まってしまった。
別にそのまま書けばよいのだが、
どうも、情動が喚起されない。
これも、学習の過程であるなと思い、課題というものに、
人に情動は左右されると思い、
内側前頭皮質の仕事がnegativeにいっているな、と自分自身をモニターした。
明日の「発達脳科学」の「顔の認知と表情認知」の授業資料を30分ほどで仕上げ、
午後から毎週のごとく、3コマ連続授業。
リハビリテーション概論は国際障害分類をあたりまえに話す。
自動化された授業であるが、
本当は、さまざまな視点を与える必要があるが、
まだ、「ひよこ」、情報を与えすぎで、「情動」が喚起され、
「関心」を抱かなくなると、今後に影響するので、
その難関な視点はさけた。
しかし、今日の東大生や京大生も、こうした自動化された、
暗記するだけのものが「うれしいのだろうか」
それでは、creativeではないな。
いっそうのこと、完全チューターにして、
個々が個々を精神から鍛えるほうがよいかなと思う。
時代が時代なので、「自由」だといったい何をしたらよいかわからない、
「若者」が増えているからだ。
その後、2回生の「発達系理学療法学」
今日は、4、5ヶ月の運動・認知発達であった。
報告の仕方が、徐々にUP Dateされつつある。
人の振り見てわが振りなおせ。
人に教えることを通じて、学ぶとはどういうことかを
感じ取ってもらいたい。
ここにも「注意」や「情報化」の操作がいる。
3回生の講義に行く最中に、
本学は、円回廊になっている場所があり、
金子研究科長は左に、僕は右に同時に動いた。
それまで一緒に話していたが、分かれたのである。
すかさず、その現象に金子先生がつっこんだ。
視覚生理学者からか・・・
なんとなく、潜在的空間意識というものを考えた。
空間障害に対する創造が生まれるかもしれない。
16時20分からの3回生の「神経系理学療法学」では、
身体イメージの障害、体軸傾斜症候群、失語症をさらっと話し、
ゼミ配属のための、森岡研究室の案内をした。
研究室のゼミ生を募集します。
できるだけ、同じ目線で研究しましょう。
研究室に18時ごろ戻り、少し書き進めたが、結局は2000字程度に。
10分の1の成果に・・・思わず、自身に閉口してしまう。
京都回生病院の講演依頼、アール医療福祉専門学校の同窓会講演依頼に、
OKメールを書いた。
これでいよいよ、ふさがった。
院生の中野君が20時ごろ来室し、
これからの研究を確認、軌道修正し、
結局は明日の群馬大学の講義準備をした。
そして、肉体的に、「ヘロヘロ」状態になり、
廊下を揺れながら、歩いていたら、守衛さんに「大丈夫ですか」と
心配され、もう帰るべきだな、と思い、22時には帰ってきた。
明日は、5時間かけて、群馬大学に向かう。
浅川先生には、昔「血液透析患者に対する理学療法」に関して、
教えていただいた。
「近森リハビリテーション病院」在職中は、主な研究テーマが、
「代謝疾患の運動負荷」であった。
人の人生や志向性はどこでどうなるかわからない。
認知症研究で有名な山口先生には、
「脳を学ぶ」を教科書していただいたようだ。
この場をかりて感謝いたします。
JEROが歌っている「氷雨」に胸キュンするのは、
そのような「哀愁」がわかるようになった年なのか?
それとも若いころの記憶なのか・・・
そんなことを考えつつ、このブログをうった。
茂木さんのブログの「そうだ、これから海に行こう」で、
ゼミ生の論文紹介が面白かった。
ゼミ生が黒板に板書しながら、
説明するのには「論理的」でないとできないし、
何よりも、スライドと違って、温かみがある。
以前、MITのゼミをみたときも「模造紙」に書き込むスタイルだった。
以前にもいったように、「スライド」はカンニング的なものがあり、
ひとつやふたつの論文を紹介するのに、
それは必要ない、要約もいらない。
ダイレクトに読みながら、説明する。
それが、自身の論理トレーニングであり、
それこそが、認知が身体化される瞬間である。