森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

セルフモニタリング

2008年05月13日 23時46分57秒 | 過去ログ


火曜日はいつものように、1、2、3回生の講義3連続日。
肉体は経験に基づき、安定化してきたが、
どうも精神に解離が生じ、それが身体化(肉体化)する。

1回生には陳述記憶を求めてもどうも難しいようなので、
手続き記憶を求めて、授業を変えたが、
どうもそれでもいかない。
情動の問題が浮き彫りであり、
その情動は経験によって歪められているようだ。
どうも、聴いても自分の人生変わりなし、という志向を感じる。
高校教育の経験が、そのような情動をつくっている。
これではA10ドーパミンが出現するはずがない。

人生として、その予測を超えるぐらいに「叱る」戦略をとるか、
そうではないことを認知的に説明するか、
いずれにしても、予測の範疇に基づく聴覚的「注意」のみでは、
どうにもならない。
「脳内の記憶」を改変させないといけない。

まあ、根っからの短気なので、
どういう戦略は予測がつく。
なぜなら、まだ彼ら、彼女らは「何者でもない」からである。
私と同じ土俵にはいない。
自らが選んだ道、その土俵にのるかどうかである。
行動主義のように「賞賛」して、気をつかうことはしない。

所詮、オペラント条件付けは、脳の神経回路網を単純化して、
強化させるにすぎない。
その場、その状況には認知行動的に適応しても、
別の文脈になれば、たちまち対応できない脳を育成してしまう。
学生によって「自己組織化」すれば、
それも功を奏すが、
それはあくまでも、「自己組織化」であり、
外部の影響が極めて少ない(はずである)。

2回生には、さらっと講義を行い、
3回生には超難関な「失行」の話をした。
最近接領域が途中で崩れ、方向性を見失う講義であったことを少し反省しつつ、
行為のシミュレーション障害、異種感覚統合障害による病態の捉え方が最先端であることを連呼した。
みんな、情動的反応が出現していた。
行為・行動・言動から、その見えない世界(脳)の病態を考察する。
それが脳科学(神経現象学)である。
そのためには脳科学(神経生理学・神経心理学)を知らないといけない。
目に見える運動器ばかりに視点がいっては、中枢神経障害をとらえることができない。

高次脳機能障害者、あるいはその家族の期待をいつまで裏切り続けるのか。
30年後の未来があるのか。
今こそ、セラピストとしての腕の見せ所である。

デカルトのいうように、
簡単なものは疑ってかかれ(なんでも疑ってかかれ)。

難解なものに、ひょっとすると真実があるのかもしれない。

自分で判断をするためには自己を知り、
状況を理解し分析して、情報を吟味し、
過去の自身の経験に照らし合わせることだ。
そこに、正しいか間違いかという単純な白黒はない。
その判断に責任を持つことが臨床家なのである。




授業を終え、PT学会の講演のスライドを調整するために、
再度、文献を読み、あるいは検索していたら、
なんと、Dr Candy McCabeはRoyal national hospital for Rheumatologyにいた。
Bathである。



11年前、ヨーロッパにまず降り立ち、
自分の留学先にしたのが、Bathであり、Royal national hospital。
1700年代の建物であり、
自分はRheumatology Unitでなく、Neuro Rehabilitaion Unit, Head Injuryにいた。



懐かしいパンフレットを思わずあさった。

語学学校にAM通い、PM病院で脳血管障害のリハビリテーションを研修した。
Bathには2ヶ月いた。
今でもその美しい風景は心像に残っている。
この2年ぐらいは、むしろParisよりも再度暮らしたいと思う町だ。



写真のサークル(円形)の建物内に語学学校があった。
また、隣の扇形のロイヤルクレッセントの先に自宅があった。



Bathはもちろん、バス(浴場・風呂)の語源となった場所。
Bathを拠点に、London、Edinburgh、York、Oxfordの病院に視察にいった。
イギリスはとてもきれいな町であり、
なかでも、Edinburghは自分のなかでは、
Pragueに続いて、美しい町である。

また、McCabeをたずねにいきたいものだ。
USNの燃える家、幻肢の研究で有名なカーディフ大学のHalliganとも共同研究している。
Halliganの研究室はいつか一度行ってみたいと思っている。

さてさて、明日、福岡に発つが、
当日提出しないといけない「原稿」はまったく手付かず。
なんとかなるか・・・

今日、さらに、依頼原稿が来た。

そして、いまだに一字も書いていない書籍の原稿用紙200枚程度が待っている。
すべてを遅らせると、歯車が完全に崩れる。
どこかで無理をしないといけない。

その予測が「ヒト」であるがゆえにたってしまう。

「ヒト」の脳は、時に自分自身を無理させてしまう。

福岡でお茶をしながら、考えることとするか。




足掻いても、モガイテモしかたない。

友人と、先輩と、後輩と、仲間と、話をして、
未来を語ってこようじゃないか。