しかし、小学生のときに、赤信号を渡るっていうのは、ちょいと勇気がいったものだ。
それは規則を破るっていうのだけではなく、それをする自分が自分の脳のなかには存在しなかったのだろう。
つまり、その世界がないのである。
だから、予期できず、まったくもって不安なのである。
こういうことはよくあることなのだが(例えば実習へ出る)。
しかしながら、自分が見ている世界が明日存在しないとは追い込まれない。
だから、結局は自分に負けてしまうのだろう。
試験勉強をしないっていうのもそうだし、僕に置き換えれば、原稿を書かないっていうのもそれだ。
それをしなかったとしても、明日の自分が存在(自分が見ている世界)しないなんて思わないからだ。
ここ最近の地震から、阪神大震災が記憶によみがえる。そのとき、それを体験したひとのこころには、いつも見ている(感じている)世界がいっぺんにして存在しなくなったという世界観なんだろう。
先ほど、小児科医の番組を見て、小児がんと戦う子どもたちの「こころ」を考えたとき、明日、その見ている、感じている自分の世界はなくなるっていう感じ(予期)を子どもたちが抱いたとき、私に何ができるかと考えた。
結局は自らの無力さを感じ、そして、少なからずとも医療者の端くれとして、なんとかしたいという気持ちになったが・・・ 一人称としての私が見ている世界が明日は存在しないなんては思わないという気持ちが、こころの片隅(潜在的)存在している以上・・・
「なんとかなる」という自分がいるのだろう。
こればかりは生物学的にいたしかたないのかもしれない。
印象深かったのは、子どもに先立たれた親は、自分が死ぬとき、子どもと一緒に死ぬというものである。子どもは2度なくなることになるが、親の脳に息づいているのだろう。それだけ、目をつぶると、子どもの記憶が鮮明によみがえってくるのだろう。この鮮明さは、先日の写真じゃないがブレていない、すなわち、親と子が完全に同調(シンクロ)しているのだろう。
自分自身が振り返り、ある程度頑張ってきたのは、明日、存在しないというのではなく、5年後存在しないかもしれない、という気持ちであった。
マズローの自己実現とは到底届かないが、そういう所属の欲求も、自らのこころの促進や抑制に大いに影響する。
ブレーキをかえることも大事だし、アクセルを踏むことも大事。
人生いろいろだが、明日、存在しないと思えば、促進させるし、抑制もきかすことができる。
それを制御という。
そのコントロールタワーがシステムとしての脳だし、感じるのがシステムとしての身体であろう。
今日は学生がいっぱい研究室に来てくれて楽しかったよ。
サロン化していた。
今日はテストなどの作成だったので、それもよし。
みんなと話すと、それはこころが動く。
風邪でのどが痛いが、それも我慢できる。
原稿書きで本当においこまれているときは、誰も近寄せない目つきをしているから・・・