森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

明日の世界の存在

2007年07月19日 00時14分40秒 | 過去ログ
赤信号みんなでわたれば怖くない、そんなキャッチフレーズが流行したのは自分が小学生のときだった。

しかし、小学生のときに、赤信号を渡るっていうのは、ちょいと勇気がいったものだ。

それは規則を破るっていうのだけではなく、それをする自分が自分の脳のなかには存在しなかったのだろう。

つまり、その世界がないのである。
だから、予期できず、まったくもって不安なのである。

こういうことはよくあることなのだが(例えば実習へ出る)。
しかしながら、自分が見ている世界が明日存在しないとは追い込まれない。
だから、結局は自分に負けてしまうのだろう。
試験勉強をしないっていうのもそうだし、僕に置き換えれば、原稿を書かないっていうのもそれだ。

それをしなかったとしても、明日の自分が存在(自分が見ている世界)しないなんて思わないからだ。

ここ最近の地震から、阪神大震災が記憶によみがえる。そのとき、それを体験したひとのこころには、いつも見ている(感じている)世界がいっぺんにして存在しなくなったという世界観なんだろう。


先ほど、小児科医の番組を見て、小児がんと戦う子どもたちの「こころ」を考えたとき、明日、その見ている、感じている自分の世界はなくなるっていう感じ(予期)を子どもたちが抱いたとき、私に何ができるかと考えた。

結局は自らの無力さを感じ、そして、少なからずとも医療者の端くれとして、なんとかしたいという気持ちになったが・・・ 一人称としての私が見ている世界が明日は存在しないなんては思わないという気持ちが、こころの片隅(潜在的)存在している以上・・・

「なんとかなる」という自分がいるのだろう。
こればかりは生物学的にいたしかたないのかもしれない。

印象深かったのは、子どもに先立たれた親は、自分が死ぬとき、子どもと一緒に死ぬというものである。子どもは2度なくなることになるが、親の脳に息づいているのだろう。それだけ、目をつぶると、子どもの記憶が鮮明によみがえってくるのだろう。この鮮明さは、先日の写真じゃないがブレていない、すなわち、親と子が完全に同調(シンクロ)しているのだろう。



自分自身が振り返り、ある程度頑張ってきたのは、明日、存在しないというのではなく、5年後存在しないかもしれない、という気持ちであった。

マズローの自己実現とは到底届かないが、そういう所属の欲求も、自らのこころの促進や抑制に大いに影響する。

ブレーキをかえることも大事だし、アクセルを踏むことも大事。

人生いろいろだが、明日、存在しないと思えば、促進させるし、抑制もきかすことができる。

それを制御という。

そのコントロールタワーがシステムとしての脳だし、感じるのがシステムとしての身体であろう。


今日は学生がいっぱい研究室に来てくれて楽しかったよ。
サロン化していた。

今日はテストなどの作成だったので、それもよし。

みんなと話すと、それはこころが動く。

風邪でのどが痛いが、それも我慢できる。

原稿書きで本当においこまれているときは、誰も近寄せない目つきをしているから・・・


静けさのなかの不安

2007年07月17日 19時11分18秒 | 過去ログ

名古屋では天候に恵まれ(夜中に台風が通過し)、まずまずの2日間を過ごさせてもらった。

さすがに、夜中の台風は滅入ったが、それでも3次会、4次会へとはしごしようとする自分の「元気さ」は、どこからくるのだろう。

高校時代、朝までの5次会など、平気な自分によって鍛えられたのか、この際、未成年問題は伏せておこう。

名古屋で全般的に学んだことは、やはり、謙虚なこころと、他者(他の土俵)を知るということであろうか。

他流試合、相撲部屋でいう、他の部屋で出稽古に行き、そして、自らの身体とこころを誤差修正、あるいは改革する、そんなことも必要じゃないだろうか。

 

 井のなかの蛙にならないように。

 

しかし、一流であれば、そのような他流試合は必要ない。

学問としての突き抜け感と、創造性、そして、当たり前のことは当たり前の事実として、歴史として知っているからだ。

突き抜ける人材(学術、文化、常識、非常識など、すべてにおいて)が求められる。

1400名の会員がいるが、そういう人材は、当たり前の「教育」では生まれないし、誰かに教わって「わかる」「できる」ものでもない。

senseとcreationの両方を持ちえている人材。

右脳と左脳、両方が優れている人材(バランスでない)。

前頭葉と頭頂葉の両方がその時々で使い分けれる人材。

言語と感性を持ちえて、ある状況で使い分けれる人材。

大脳皮質の創造性と、大脳辺縁系の情感性と、脳幹の自動性、このすべてがメタを効かせて、働く人材。

 

そんな人材があふれ出れば良いが。 それが僕の今の夢かな。

こればっかりは、誰かの後ろをついてばかりじゃ生まれないし、反逆児でも生まれない。

少々、学会に行って、そんなことを感じた。

言ってみれば、「予期」「予想」「予測」「予知」「創造」「想像」「期待」「推論」「推測」、こんなことが、自らの脳でぐるぐる循環し、あふれ出している人間かな。

結局は、相手のこころを読むっていうのもそれに相当するし、「学会」を読み、「学会」によって自らの使い分ける、そういうメタ認知もそこから生まれる。

雑誌によって、自分の文章を使い分け、最終的には、その雑誌(学会)と決別してもよし。それが一貫性をもたらせるのなら。

そこまでくるには時間が必要だが、こればっかしは、感性に由来する部分が多い。

 

10年一昔、それがまだ新しいとなると、臨床もまだまだ。

しかし、いつも新しいと感じ、それがズレていないという世界観の製作は難しい。

アーティストのアルバム作成も2作目までは勢いでいけるが、その後は実力になるから大変だ。 次回の東京では「楽園」をテーマにしたらと馬鹿げたアイデアを女性陣に言った(学会長・準備委員長ともに女性)。

このいつも新しいと感じることは「よさこい祭り」の踊り、音楽、地方車のアイデア、製作にも通じる。

「らしさ」を失わないように、「新しいもの」を製作する。

そのプロ魂がよさこいの製作者にはあると思う。

「宮田塾」の塾長(博くん)に、いつも感心させられるし、その人柄、リーダーシップにも。

研究者(創造性)と教育者(安定感)の両方を持ちえているのかな。

 大事な時期に踊り子を学会に連れ出してごめんね。

 

名古屋では、宮本さんはさすがに「安定感」があると思った。

ブレが生じないと、それは写真の鮮明さのように、彼のこころの微動だに揺れないその精神の表れだと思う。

この安定感は、私の意識にとっての安定感であり、おそらく、長い間の付き合いなので、同期化している部分が多いのだろう。

 

しかし、「文化」的に思考する(感じるでない)には、学童期、青年期にどうすごして、どのように感じたか、そして、そのときから歴史に触れているかに相当に影響を受ける。

 成人していれば、その捉えかたは、一人称になろうとしてもなかなかなれるものでない。

それが、結局は成人後のセンスとなる。

 

人文科学と自然科学、その分かれ方は、オックスフォードとケンブリッジに代表されるように、全世界でその分割化が起こっているが・・・がである。

一流のひとは、その両方に勝る。

日本の神経生理学者である酒田先生や岩村先生、神経心理学者の大東先生らは、自分の立場をわきまえた上で、発言しているし、フランス哲学、フランスの身体論、意識の哲学を解読しようと試みているが、自らは自然科学にいることから、現役学者バリバリのときは、そのような発言はしていない。

あくまでも、神経を追いかける立場で話している。

いずれにしても、用語など、どちらの科学・哲学で語られているのか、それぐらいは知ってもらい、その混同のないように、いろんな報告をセラピストにもしてもらいたい。

 

学会では内藤先生と研究についていろいろ話ができた。

道具と身体、言語の研究はわれわれのラボでもメインのひとつである。

近々、ATRのラボへ見学に行く予定である。

本学院生と共同研究できれば、リハ業界の発展につながるし、院生のなかから、ラボへ行く人材が現れてもいいと思う。セラピストが研究者になる、そういう道がいっぱいあっていいと思う。

 

そういや、MITから坂本さんが帰ってきたようだ。

面識はないが、新人時代によく論文をみた。その当時(神戸大のPT)は、股関節の研究をされていた。MITでは記憶(ハエ)の研究をしていると聞いた。

 

さて、奈良に帰り、授業準備、試験作成、論文修正、論文校正、執筆本校正といつもの時間に戻された。

この静けさが、一気に怒涛の仕事が増えそうで、不安だ。

 

まずは、荻野さんと千鳥さんにご苦労様といいたい。

 

 


畿央大学健康科学部看護医療学科開設記念シンポジウム

2007年07月17日 10時56分12秒 | 過去ログ

畿央大学健康科学部看護医療学科開設記念シンポジウム

「心の処方箋~輝くいのちのために~」  

超高齢化が進み高度化する医療現場で必要とされる知識や技術力を備え、かつ人を幸せに導ける人材の育成をめざす畿央大学。 本シンポジウムでは、60年以上もの長きにわたり医療現場の最前線をはじめ、多方面で今もご活躍中の日野原重明氏をお迎えし、すべての人が輝いて生きるための心のあり方を探ります。

日時: 2007年8月2日(木)開場12:30  開会13:00  終了15:15(予定)

会場: 畿央大学 冬木記念ホール

基調講演: 日野原 重明 氏(聖路加病院理事長)

座談会: 日野原 重明 氏(聖路加病院理事長)

            冬木 智子 氏(畿央大学学長)

            伊藤 明子 氏(畿央大学健康科学部 看護医療学科長就任予定)

 


日本のこころ、いや魂か・・

2007年07月13日 08時35分39秒 | 過去ログ

一昨日は北海道学会の抄録を終え、健康科学研究所のパンフレットの紹介文など、その後、印刷にてこずりながら(ほとんど福本先生にお願いし)、授業資料を終えた。

昨日は発達系の授業で上肢機能の発達を取り上げ、その見方を話した。

Arbibの理論は役に立つ。上肢と下肢の違いを行為の点から考察した教科書があってもいいと思う。筋骨格系で解説した運動学では不十分だ。

みんなからのお褒めのことばありがとう。

その中で面白いものが、「迷路のような話だが、これが本質だと思う」のようなニュアンスのコメントがあった。人間は難しい。今自分が話していることが10年先には違うっていう世の中になってもらいたいのも事実。全部じゃないけどね。

プレゼン主体だったが、主体性が生まれたかな。イチローも言っていたように、ヒットが出た、ではなく、ヒットを(自らが)出した、というように主体性、能動性で環境に働きかけないといけない。

午後はほぼ会議。

夜、評議員会の資料を作成し、研究倫理の指針に手を入れる。

そういや、一昨日、BSの番組に奥田民生が出ていた。彼のサウンドはThe Beatlesの影響が色濃く出ているが、彼のワールドの一貫性があり、それは聞いていて安定感がある。

人の精神には、その国の文化が出る。

イギリスとフランスは全然違うし、フランスとイタリアも違う。ましてや、アメリカなんて程遠い。

英語でペーパーを書くことが、世界的には常識化されているが、アメリカ・イギリス・オーストラリアの色が出てしまうのも当然である。

しかし、国民の精神は違う。

精神が違うということは脳が違うし、可塑的変化ももちろん変わるはずである。

脳は同じでない。

それは神経ネットワークをみれば一目瞭然であり、その科学のエビデンスは相当に高い。

だとすれば、紋切り型な今の医療で言われているEBM(good practice)とは、何なのか?

俺はアメリカ人とも違うし、イタリア人でもない。

松本ではなくが、日本人だし、この精神(血)には日本の文化・思想が息づいている。

そんなことを、奥田の演奏を聞きながら思った。

さて、台風のなか、出発するとするか。

 

 


他者のnegative problemだけでなく、positiveにも目を向けよう

2007年07月11日 07時10分32秒 | 過去ログ
昨日は1回生の「リハ概論」のフィニッシュ。
やり残したことがまだあるが、最初はその程度が良いのだろう。
難易の問題が付きまとうので。

その後、健康科学研究所の開所シンポジウムなどの原稿書きをして、3回生の「神経系」のフィニッシュ。
3回生なので、自由記載にお褒めのことばがチラホラ。
相当にうれしいものもあった。
ただ、難易度は相当なものだったらしい。
しかし、ある面、最終学年なので、そこに手は抜けない。
「神経生理学」や「神経心理学」という科目が2回生にほしいし、生理学の教員の専門分野に大きく影響される。動物性生理学がこの学年は少なかったかな。

19時40分より2時間ほど院生の研究計画のプレゼンを聞く。
今日は、USN、cognitive task、Apraxiaに関する内容だった。
少しずつレベルUPしているし、みんなの質問内容も良くなった。
チームとして、お互いに切磋琢磨して批判的吟味を加えてください。
院生にはそれができます。
学部生はその前に幼い感情が出てしまいますから・・・

お互いに良い面を伸ばしていきましょう。

悪い面だけ整理する「リハビリ」の問題点っていうやつにはならないように。
良い面を伸ばし、悪い面を制御する。
そういう「注意」のシステムを使いましょう。
院生にはこの意味がわかると思う。

結局、昨日締め切りの北海道理学療法士学会の講演抄録は書けなかった。
今から相当なスピードで書く。



お母さん ぼくが生まれてごめんなさい

2007年07月10日 23時03分14秒 | 過去ログ

 

お母さん ぼくが生まれてごめんなさい

ドラマ化

著者は奈良県で障害児に対するお仕事をされていた。

 

いずれにして、この十数年、子ども(脳性まひ児)の運動障害に対するリハビリテーションは進歩したのか? 奇跡を求めているのではない。ただ、少しの前進かもしれないが、数歩でも良いから進歩している、と胸を張っていいたい。

脳卒中で見られる回復は、見かけかもしれない。

脳性まひの運動障害の回復が、現状のリハビリテーションの介入の無力さを露呈しているし、脳卒中の運動障害の回復は見かけであることを間接的に証明している。

何が欠けているのか? その解決の糸口を、脳のリハビリテーションを研究しているものは考え続けなければならないと思う。

成人と小児は違うと言って、成人中枢神経疾患に対峙しているセラピストは逃げてはならない。それは、「運動障害」にはお手上げだといっていることになる。

そのような厳しい状況に置くかが、セラピストの思考力を上げることになるし、研究者の創造力を上げる事になる。

リハビリテーション科学者たるもの、その運動障害に焦点を置いて研究するべきだと思う。

臨床のセラピストでも出来る研究テーマをわざわざ大学の研究者・科学者が選択する理由はない。絶え間ない、仮説を創設し、その検証作業に生涯を捧げる。そういう理学療法学(理学療法を研究しているのでない)を研究している者を早く、多く生産するべきである。

誰かの焼き直しの研究はもういらない。

 


第8回日本認知運動療法研究会学術集会

2007年07月10日 18時30分56秒 | 過去ログ

第8回日本認知運動療法研究会学術集会

テーマ:La palestra nel cervello" 脳の中の訓練室 ―臨床の夢に架ける橋―

日時:平成19年7月14日(土)~15日(日)

会場 名古屋市公会堂(〒466-0064 名古屋市昭和区鶴舞1丁目1番3号)


会長 荻野 敏(国府病院)


準備委員長 千鳥司浩 (中部学院大学)

 

荻野先生、千鳥先生、準備万端!? どのようなイメージが生成されているでしょうか? 大脳皮質の賦活の極みだと思いますが、奈良からエールをおくります。

 

僕は、特別講演2「ヒトの身体像の脳内再現と身体運動制御」

内藤栄一先生(情報通信研究機構 未来ICT研究センターATR脳情報研究所

の司会でお手伝いします。

 

 

 


脳は銀灰色

2007年07月09日 23時49分36秒 | 過去ログ
昨日は久し振りの休みで、少し買い物に出かけるが、さすがに久し振りなので逆に身体の「痛み」が全身に。忙しさの「意識」で、そのような「意識」を潜在化していたために、それが顕在化して、頸から腰にかけ、動けない状態になる。

さすがに今日のデスクワークは大変で、注意機能が作動せず、AMはたまっていた書類、そして健康科学研究所開所記念シンポジウム「健やかに暮らすために~脳とこころの科学からの新たな挑戦~」の案内の原稿を書く。メールもたまりにたまっていたので、その返信に昼休み追われる。

開所記念シンポジウムは伊藤正男先生、金子章道先生(本学研究科長)、山本隆先生(本学客員教授)、と脳研究の世界的権威が揃う予定。

畿央大学の挑戦が始まる。


午後は腰痛の悪化とともに、仕事がぶれるぶれる。
明日の講義資料をネットにUPするが、さっき神経系の資料をUPし忘れたことを発見。さらには、明日までの締め切り原稿の存在を忘れていたことが発覚。

明日は講義が4つあるが、原稿はいつに書くか・・・ 時間配分のワーキングメモリが稼動することを祈る。

あまりの腰痛の激しさに18時に帰り休む。

迷宮美術館を見て、コローの風景画に酔いしれる。
小学校のころ、県展(こども)で特選や、推薦をいただいたときは、もっぱら風景画だった。山を描くのが好きだったが、工場を描いたとき、灰色の建物が朱色に見え、そのまま全部朱色のグラデーションで描いた学童期が懐かしい。側頭葉のイメージで書いたと思うが、そう見えたのだからしかたない。多少、創造、予測も働いたが・・・煩悩なので。

コローの緑は、自然界の緑のように、同じではない。
自然界に存在する緑、よくよく観察してみると、その色の違いに気づく。
言語をもつということは整理するということだが、時としてそれは盲目になる。
リハビリの問題点抽出や目標設定なんぞも、その盲目さが浮き出る。

週末の学会は、その緑の意識の多様性を感じたい。
それが私のQOLだから。

コローは60歳まで評価が得られなかった。
自分が感動したものを信じる、その信念に感銘を受け、現代社会の郷に入れば郷に従うという、創造性のないひとたちを感じると、それは単なる人の評価を気にしているのではないかと思う。

一流は信念を貫くことから、すぐには評価はされない。
時代の先を読んでいるからだ。
未来はひとのためにある。

自分の信念とは何か、それを語れるセラピストに数多くであいたい。
それが一流というものである。
一流の逆が停滞である。
10年一昔と今、その己を比較照合してみると、昔話ばかりしている意識に出会わないだろうか。
この業界も「同一化」がはかられ、「面白さ」にかける。
「自由」を感じないのだ。
「自由」を奪われると「想像」は必要ない。
アウシュビッツ的リハビリテーションにお別れを。


しかし、コローの絵は「湿度」を感じる。
視覚から体性感覚への情報変換が起こり、共感覚が生じるのだ。


コローを見終わり、久しぶりにRed Warriorsの96年の復活ライブを見た。

Yukai、Shakeの体型を見ると、この3年で、おれの体型の変化はいかがなものかと思い、ステージ栄えしなくなった体をみて、少し生活を考えようと思った。

高校時代、Kiyoshiの重いベース音に憧れ、弦の末端に近い部分で弾くスタイルを真似たことがよみがえり、さびた弦を張り替えようと思った。

俺にとっての音楽は生活の一部だし、健康のエキスだし、そして、それ自体が脳と身体そんものなんだ。


今日、ラジオに杉山清貴が出ていて、T-REXなどのグラムをコピーしていたことを知った。人間の歴史は、今の見た目だけで判断してはいけない。

肝心なものは目に見えない。

そのひとの歴史を感じる、それがセラピストの評価にも必要だと思う。

どのように生きていたか、それに答えがあるかもしれない。



いつもの時間とその身体

2007年07月06日 06時36分36秒 | 過去ログ
一昨日は大津日赤志賀に、学生も石原先生の治療、そしてその直向な挑戦にinspireされているようだ。肝心なのは、現象の捉え方のレベルの高さと、やはり、患者が変わっていく、そのプロセスを学生として体感していることだ。

1期目とな違うことを、相当に体感している。

和邇駅から100円バスで病院まで行くルートは日本の原風景だ。
基山から朝倉健生へ行く、ローカル線もそうだ。
そういや、月曜日、あまりにも気持ちよかったのか、疲労困憊か、どうかしらないが、基山駅についても、ずっと熟睡で、電車の運転手に起こされた。
人生初めてである。

昨日は、1コマ目の授業のために奈良に帰り、授業を行い、今度は京都へ。
武田病院でも学生はno problem、人が変われば、人は変わる。
その典型だ。
環境としての人間がいかに重要か。
2期はみなさん、早く過ぎ去っているようだ。
その私の体感する時間性は、人によって違う。
意識の問題だし、注意機構でもあるし、なによりも情動が大きい。
その時々の身体と連関する。

どう動けばよいかの予測、イメージの発生の有無が時間の変容に影響する。
これはシミュレーション問題であるが、脳の大部分はコミュニケーションにその活動がとられるため、人のこころが見えるか、見えないかで、時間の長短が変わる。

京都から新幹線で、小倉へ。
前期初めて、17時代についた。
いつもは、23時40分到着の新幹線であった。
N700系は新車のにおいがした。


19時より、北九州にみなさんと少し懇親。
0時にホテルに帰りついたが、日本酒、、そして40度の焼酎にやられた。

さて、小倉3時間、岡山3時間の講義の旅に出る。

しかし、頭が痛い。