古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

「町在」竹崎律次郎等探索の評価

2019-04-08 00:01:08 | 町在竹崎律次郎

「いづれも思惟を凝シ或いは形を替へ探索筋格別相働き」と本文中にあるとおり「スパイ」というのは生易しい仕事ではないようです。「危急存亡之境ニも差臨候処、稍々隠れ忍び辛うじて虎口を遁レ候儀も有之たる哉ニ而」とあるように映画・小説まがいの場面に遭遇したこともあったようです。

 長い文章になりますが、勉強中の方には参考になると思います。画像はパソコンに落と
   すと拡大できます。


熊本県立図書館蔵

 

僉 議
去八月御奉行手ニ被差添
小倉江被差越候竹崎律次郎
列 左之五人 探索御用等
格別相働 骨折仕候ニ付 急ニ
御賞美被 仰付度由 本帋並
御郡代書達 別帋之通ニ御座候
方今之御時体 別而
御出京御引続
宮内様御出京 小倉


御出張其外御供御人数 所々
被差越候付而は 其筋ニ係り候
御役人は申迄も無之 役外臨
時之御用ニ 被召仕候面々も不
少(すくなからず)儀ニ御座候処 右律次郎列
被賞候而は 一統ニ相響キ類
推ニも至り如何可有之哉と
しらべ見合せ至候得共右之
面々は兼而禄給等 被下置 

 


熊本県立図書館蔵

候儀ニ而も無之所数ケ月之
間 家事をも差置 他国江
差出 被置 度々敵地へ入り探索
御用等 格別相働一稜御弁利ニ
相成候は 御賞美及延引候而は
以往之御倡ニも係り可申候間
急々 被賞度由 猶口達之趣
有之候間熟考仕候処律次郎ハ
在勤中諸役人段竹崎新次郎
 
父ニ而役儀等 相勤居候者ニ而も
無之 龜右衛門義は下地馬口
労ニ而有之候処駒子仕立方
御用懸ニ付在勤中御郡代
直触被 仰付置 甚右衛門も同様
馬口労ニ而有之候処 此節
小倉へ被差越律次郎へ 被差添
候付 右出張中苗字刀 被成
御免 信右衛門は 民籍小前之者

 


熊本県立図書館蔵

宇兵衛は五町手永建部
村仮人数入御免ニ相成候迄之
者ニ而何レも普通の儀ニ候得共
日数ニ応相応々々御心附 被下
置候而も可然哉ニ相見候得共律
次郎列 働之次第は委細
書面之通ニ而いづれも思惟を
凝シ 或は形チを替へ探索筋
格別相働既ニ龜右衛門 信右衛門

儀は危急存亡之境ニも差
臨候処 稍々隠れ忍び辛う
じて虎口わ遁レ候儀も有之
たる哉ニ而 彼是書面之趣相
違も有之間敷候間別段を以
左之通ニも可被 仰付哉


菅尾手永唐物
抜荷改方御横目
在勤中諸役人段
竹崎新次郎父


熊本県立図書館蔵

竹崎律次郎

右は小倉出張中諸役人段之
振合ニ仰付置 探索御用
合い勤其末士席之振合ニ而
他所応接等被 仰付置 度々
筑前芸州へも被差越 諸藩
応接等昼夜ニ懸致出精 格別
御弁利ニ相候由 書面之通ニ付


作紋紬綿入一 金子弐百疋
程も可被下置哉


坂下手永坂下村
居住駒子仕立在
勤中御郡代直触
 平川龜右衛門


右は前条竹崎実次郎江
被差添置候処 多年馬口労
いたし長防ニも罷越地理熟

※ 律次郎への賞美は紬綿入れの紋付き一揃いと、金子弐百疋とあります。これは二分金
 1枚を貰ったものと思われます。1/2両です。命を的に働いた報奨金がこれでは少ないで     すね。


熊本県立図書館蔵

知之者ニ而彼の之地之模様見繕
として度々罷越既ニ初度罷
越候節は危急之場ニ差臨
乗船之都合悪敷自勘ニ而
多分之出金いたし舟一艘買取
辛うじて罷帰り一稜御弁利ニ
相成候由ニ付 別段を以地士可被
仰付哉


同手永築地村
馬口労
 甚右衛門

右は小倉出張中苗字刀
被成御免竹崎律次郎へ被差添
置前条龜右衛門同様之者ニ而
追々長防之様子聞繕として
彼地へ被差越 且 越前様御頼之
馬小倉へ牽越彼是厳寒
中別而骨折一稜御弁利ニ被成

 


熊本県立図書館蔵

候由ニ付御郡代直触可被
仰付哉

平川龜右衛門連人
 信右衛門

右は龜右衛門初度長防へ
被差越候節連越 両国之地理
委敷地図出来之節抔主ニ成
申談一稜便利ニ相成候由

書面之通ニ付無苗ニ而御惣庄屋
直触可被 仰付哉

五町手永建部村
仮人数
 宇兵衛

右は去冬小倉表へ御人数
出長中 被差越候処同人儀は
若年之砌より為稼中国筋へ
罷越同所において妻帯をも


熊本県立図書館蔵美は難被 

いたし土地之者同様ニ而山口
宮市辺別而知音広 地理
熟知之者ニ付彼之地之模様
聞繕として都合三度 被差越
所々打廻 平川龜右衛門同様一稜
御便利ニ相成候由 委細別紙
之通ニ御座候処同人儀ハ近来
稍ク建部村仮人数入御免ニ相成
候者ニ而此節 身分ニ係り候御賞

 

美は難被 仰付 相見さり迚
無味ニ閣候而は前条龜右衛門列ニ
見合不体にも相成候間御心附
として米三俵程も被下置候而は
如何程ニ可有御座哉
 但本文 平川龜右衛門儀は一領
 一疋 甚右衛門儀は地士 信右衛門は
 苗字御免 御惣庄屋直触
 被 仰付候様申立之通ニは

 


熊本県立図書館蔵

 御座候得共左候而は餘り過分ニ
 相見候 尤此節は非常別段之
 儀ニは御座候得共 一統御賞美
 筋は釣合も有之事ニ付
 少シ斟酌を用申立より一等
 落にして本文之通相しらべ
 申候何程ニ可有御座哉
書紙申立は多人数之儀ニ
御座候得共此節は敵地へ

入込探索筋等格別相働候
竹崎律次郎列 五人迄相調へ
餘は追而之模様ニ応取調へ
可申と先見合せ置申候


右丑十一月廿三日達 


竹崎律次郎長州藩探索を命じられる 慶応元年のこと

2019-04-03 15:10:16 | 町在竹崎律次郎

 竹崎律次郎は以下の文書に見るように第一次長州征伐後の長州藩の国内状況の探索を命じられます。
 この時期の長州藩は元治元年(1864)に起きた禁門の変に敗れ、続く第一次長州征伐によって藩存亡の危機に立たされていました。藩は取りあえず攘夷派を退け恭順派を立てて、ひたすら謝罪を繰り返すことによって辛うじて滅亡を免れている、という状況にありました。しかし攘夷派は殲滅されてしまったわけではなく、藩の内外に潜伏して再起の機会を窺っているのですから藩内は政情不安の極にありました。
 このような時、国境を接している訳でもない熊本藩がスパイを送り込んで長州藩の状況を探らねばならぬ必要がどこにあったのか、甚だ疑問に思うところですが、これにはそれなりの事情があったことでしょう。「町在」にはそこまでの記述はありません。
 竹崎律次郎が敵状探索の責任者に抜擢され、臨時の「士席振れ合」という身分で「敵地(と町在に書いてある。)」へ赴きます。律次郎は万延元年(1860)に家督をすべて養子新次郎に譲り、一領一疋の身分も返上して妻順子とともに横嶋の干拓地に居住して農業に専念していたはずですが、5年後の慶応元年(1865)には再び藩の御用に召し出されたわけです。しかも今度は「探索方」という命がけの仕事です。

 

                            熊本県立図書館蔵

御内意之覚

南郷御郡代手附横目
竹崎新次郎養父小田
手永横嶋村居住

竹崎律次郎

右律次郎儀去秋片山多門小倉出張之節被差添
律次郎江は坂下手永居住平川龜右衛門同手永築地村
甚右衛門を被差添彼表江被差越置滞陣中臨時

御用相勤候内筑前表江御用有之去八月廿八日より
士席之振合ニ而被差立九月二日引取同月八日在陣中
士席振合ニ被 仰付臨時御用並他藩応接相勤
同月十八日より芸州廣嶋ニ而防州岩国迄為探索被差
立其後右同所江両度被差立都合三度ニおよひ十一月
廿一日此砌諸藩之事情等聞繕可申旨被 仰付十二月
廿一日より下関方事情聞繕として被差立敵地帯刀


                                  熊本県立図書館蔵

入込出来兼候ニ付無刀町人之体ニ而罷越事情探索仕
同廿四日引取右之趣追々他郷江被差越探索の次第は
其節々委細御達仕置候写別紙之通ニ而
御滞陣中一稜御用弁筋ニ相成当正月帰陣被
仰付候迄野地ニは度々他郷江被差立他藩応接且
敵地江は姿を替入込彼是不一方辛労いたし誠実
相勤申候間右被対勤労此節重被為賞被下候様有

御座度於私共奉願候則別紙五冊相添御達候
此段御内意仕候条宜敷被成御参談可被下候以上

慶応元年九月  玉名 御郡代

御郡方
御奉行衆中

 


「町在」竹崎律次郎家督を譲る

2019-03-19 22:43:17 | 町在竹崎律次郎

熊本県立図書館蔵

御内意之覚

布田手永布田村居住
一領一疋
竹崎律次郎

右律次郎先祖は阿蘇家浪人ニ而律次郎曾祖
父竹崎太郎兵衛と申者玉名郡内田村ニ居住仕居
申候処宝暦九年十二月御郡代直触ニ被仰付
其後小田手永御惣庄屋並御代官兼帯被仰付

其子竹崎太兵衛右同手永御山支配役被仰付
其養子竹崎次郎八荒尾手永御惣庄屋並
御代官兼帯被仰付置候処文政十二年十二月
病死仕候右次郎八養子律次郎ニ而御座候処天
保元年五月養父跡地士ニ被仰付同九年寸志
之訳ニ而被対一領一疋ニ被仰付其後布田江居住
仕居烏乱者見締村請持並文武芸倡方且
袴野新堤配水方受込被仰付置候処病気

熊本県立図書館蔵

差発難相勤御座候由ニ而右御役々並一領一疋
之御奉公共ニ御断申上度段願出相達候ニ付内
輪之様子承糺申候処相違も無御座様子ニ付
願之通被仰付被下候様

右律次郎養子
竹崎新次郎
三十四歳

右は生質廉直ニ有之筆算等相応ニ仕り
往々御用ニ可相立者ニ而尤芸之儀格別出

精仕所柄相門熟切ニ倡立数々相伝も相済
候棱々左之通
一 体術江口詰左衛門門弟ニ而嘉永六年十二月目録
相伝仕候直ニ所柄代見申付ニ相成居申候
一 剣術横田清馬門弟ニ而嘉永六年九月目録
相伝仕候
一 槍術富田十郎右衛門門弟ニ而安政六年八月目
録相伝仕候

熊本県立図書館蔵

一 炮術財津勝之助門弟ニ而安政六年十月頬付
目録並炮火術目録相伝仕候
一 居合恵良左十郎門弟ニ而安政四年八月目
録相伝仕候
右之通相伝相済体術之儀は在中代見をも
申付ニ相成居相門倡方も手厚行届申付被付
旁ニ被対養父跡無相違一領一疋ニ被仰付
被下候様於私共奉願候此段御内意仕候条

宜敷被成御参談可被下候以上

安政七年二月   南郷 御郡代

御郡方
御奉行衆中

僉議
 律次郎儀達之通ニ付一領一疋可被成御免哉

 新次郎儀達之通五芸目録相伝相済居
 右芸数ニ而は見合せも御座候間親同様

熊本県立図書館蔵

一領壱疋可被召出哉

右僉議之通四月十三日達

熊本県立図書館蔵

  

布田手永布田村居住
一領一疋
竹崎律次郎
五十歳程
右同人養子
竹崎信次郎

右者父子進退別紙之趣ニ付見聞仕候処律次郎儀
病気差起御奉公難相勤由無余儀様子ニ
相聞信次郎儀は手全成人物ニ而筆算
相応ニいたし体術剣術槍術砲術居合

五芸共目録相伝相済居体術は所柄代見
をも申付相成居候由ニ而角場は居屋敷内ニ取立
置右五芸共相門中倡立手厚世話いたし候由
に而行状ニ付異候唱も相聞不申御赦免開は
所持いたし居不申由承申候以上


閏三月    河口源右衛門 印

 

 ※ 初めの方の記述に「病気差発難相勤」とあり、そのために手永の役々及び一領一疋の身分もお断り申し上げ、結果として養子の新次郎に跡目を相続させました。
 わたしは病気については信じがたいと思っています。律次郎の病気は家督を譲るための方便ではなかったかと考えています。律次郎にはその動機が充分にあるのです。というのは律次郎が養子に入った竹崎家には病没した先代の嫡子、新次郎がいました。あまりに幼いのでその養育のために律次郎は養子に入ったのでしたが、よかれとおもって始めた造酒業がうまくいかず、また米相場に手を出して失敗したのが命取りとなって竹崎家は破産します。ために律次郎は行方不明となり、結婚2年目の順子は仕方なく父母のいる中山手永へ帰り夫の復帰を待ちます。
 
律次郎の消息がわかり順子が呼び戻され布田村で再起をはかるのは2年後のことでした。それからの苦節16年。夫婦して懸命に働き再起に成功したのです。この間に新次郎も一廉の人物に成長したので、もうそろそろよくはないかと間合いを測っていたのです。
 新次郎に家督を譲った翌文久元年(1861)律次郎・順子は横島の干拓地へ農業をするために移住しますが、それは伊倉の木下家(律次郎の実家)から来た話でしたが、新次郎に「形をつけた後に」という思いが律次郎にはあったようです。それを果たした上での決断でした。
 
横島での夫婦の働きは、先にアップした「竹崎順子」に書いたとおり実に目覚ましい成功を収めました。
 竹崎律次郎は布田時代に横井小楠の弟子になり、月3回ある講義の日は相撲町の小楠堂まで5里の道を往復していました。熊本の維新は明治3年に来たと言われますが、その時、小楠門下の人材がぞくぞくと登用され律次郎はその中心人物の1人で熊本の近代化に貢献しました。


「町在」竹崎律次郎銭三貫目寸志 天保9年

2019-03-15 17:07:49 | 町在竹崎律次郎


熊本県立図書館蔵

          御内意之覚
                  小田手永地侍
                  竹崎律次郎

    一 銭三貫目

    右者
    二ノ御丸惣御修復等
    御手伝御用ニ付寸志銭差上最早夫々年賦
    上納相済申候間乍恐被賞一領一疋ニ進席
    被 仰付被下候様有御座度奉願候此段宜
    被成御参談可被下候以上

     天保九年十一月

     玉名
      御郡代

     御郡方
      御奉行衆中


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      律次郎儀達之通ニ而寸志高
      見合之規矩ニ相当居申候間
      一領一疋可被 仰付哉

      右之通十二月廿二日及達

竹崎律次郎は文化12年(1812)の生まれだから、この時26歳の青年だった。矢嶋順子 と結婚するは3年後のことである。

一 銭三貫目 は藩札をもってこれに当てたということ。熊本藩の藩札は銭1匁70文で あったから、3貫目は21万文である。これを金貨、両で表せば約52両となる。