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一 寛政四五年之比魯西亞人ラッリスマン蝦夷地
ニ来内願申立候節此所ハ外国取扱之地ニあらず
願申旨あらば長崎江至へしとて長崎江至ため之
信牌を賜しかハ彼等既願筋叶たる事と存
込其後数年を経而文化元年九月使節
レサノフ国書を奉じ長崎江入津通信通商
を請ふ此時我国之厳禁を以及御断貢
献物も一切御受取無之ニ付使節ハ同二年
三月中無夷義帰帆致候然る所辱君命候を
残念ニ存且ハ欧羅巴諸国江面目も無之迚
未到国都途中ニ而自尽致候由其後
又数年を経て文化八年之比同国甲比丹
ゴロウイン蝦夷海測量之為渡来之所彼国
賊オホシトフ乱暴後之事ニ而彼等を怨居候
折柄彼地詰之役人計策を以ゴロウイン等七
八人を召捕松前迄引連参り四年之間牢舎
為致置候所彼此之縁故ニ而漸事実明白ニ成
本国江御差返ニ相成候此両度之御仕向方如何
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にも無御餘義訳ニハ候へとも彼国ニ而ハ定而不平
ニ存居可申夫を甘心致何事も手出し不
仕ハ大量とも可申歟然る所萬一米利幹江
交易御許之事も候而ハ彼国より表向使節を
立如何様之難題申来候も不可測其節ハ
如何御返答可有之哉ト誠以痛心仕候
ケ様認置候内果して長崎江渡来之内
彼国之敏速誠ニ可驚事ニ御座候ただし魯西
亞御取扱之義ハ兼而愚考仕置候義も有之
右国書御請取ニ相成候上ハ必一策を奉献度
私願ニ御座候
一 強盛ニ相成候英吉利ハ慶長五年
泉州堺江来交易願申上願之如く免許被仰付
御朱印被下置年々肥前平戸ニ而交易致候所
利潤少シとて元和中彼より辞して不来其後
三拾餘年を経て漢文十三年再び渡来
交易願候へとも御許容無之永く渡海御停止ニ
相成候然る所慶長之御朱印今以彼国ニ所持
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致居候より兎角交易願之志無已時動す
れハ彼役人共評議ニ申出候由三四年前
阿蘭陀風説書ニも相見へ候是も他之国江交
易之道開候を承り候ハヾ必黙して止申間敷候
一 阿蘭陀ハ慶長十四年交易願叶候より弐百
餘年連綿と通商致第一風説書御用
相勤其外海外夷変之義何ニよらず御注進
申上既十年前ウイルレム第二世阿蘭陀王より
熊々使節船を立御忠告申上候處其節御
返翰ハ不被遣閣老より之書翰ニ此度ハ国
書御請取ニ相成候へ共此末ハ堅く御断之趣
被仰遣候由承り候義も御座候然る所此度米
利幹書翰浦賀ニ而御請取ニ相成候義承り候ハゞ
必快くハ存申間敷右三国之引合彼此考
合候へハ米利幹江交易御許之義ハ実ニ容易
ならざる御義と深く恐怖仕候斗ニ御座候
一 此度之成行先之先までも考詰候へば通商
御断も一応二応てハ済申間敷愈双方より募
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互に承知不相成果ハ戦争ニも至可申尤其節
ハ此方義気も十分ニ満候而必一戦を遂可
申候へとも彼ニハ神機利鋭之飛道具有之兵卒も
能調練致居候由夫江敵対致候而十分勝利
を得へし共不被存因より近世清国郡県之
大敗之如にハ至申間敷候へとも何を申も二百年来
太平遊惰之士俄に軍事に臨候義最初者
鋭気ニ有之候とも三戦四戦之後ハ人ニ精力も
尽候而遂ニハ和議之一條ニ至候も難斗其節
彼よりとし歳幣を被要候事も候ハゞ国勢人心も
如何変化仕候者ニ候哉殆ント愚意之所及ニあらず候
一 抑時に機会と申が御座候此機会ニ乗じ黙然と
事を為時ハ如何なる大事も成就と申事ハ無
御座候愚生竊ニ当今之時勢を察するに我
神武之国遠夷之米利幹ニ被取付候社好越会
なれ此機会を不失萬代不易国家永久之道
を開かずんばあるべからず其永久之道希ハ三
百年来之旧製を一変して新に実地実
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用之兵備を整候候事ニ而其目三ツ御座候城郭
之製と船艦之作と銃砲之造と此三ツ之者ニ御座候
伏而願くハ政府諸明公此所ニ於而千古之活眼
を開き其法則を所対然と彼製ニ
改革し給わん事を
我国軍艦之製ハ姑く置城郭之作銃砲
之造ハ皆其昔正しく南蛮に倣ひ而作りたる
所なり然るに年久敷見慣れたる故往古より之
邦製と心得候而兎角外国ニ倣ひ候を恥辱之
様ニ存し違候者も間々有之哉ニ候へとも畢竟城塁
等ニ限らず惣而外国之長取て我国之不足
を補ふ事ハ従来之御国体ニ而聊可恠事ニハ
無御座候因而先蘭書之図説ニ依り来船之
蘭人ニ問ひ又蒭蕘ニ詢と申事も候へば彼漂流
人万次郎等実物親見之者ニも御問合追々ハ彼
より築城学者船匠砲工等迄御呼寄ニ相成益
其精術を尽し遂ニハ旧来之面目を一新
して城ハ八稜形船ハ三本檣銃砲ハ軽便自在之
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活動軍と相成候ハゞ十数年を不待して
兵備堅固之強盛国ニ成候事質之鬼神不
可疑候若果して愚生之言を信せずんば
西史中都児格魯西亞之條を見て其明拠
的證ある事を知り給ふへし
一 尚又当今之急務を申上候へば内和人心之一事ニ
御座候此度之義ハ乍恐
朝廷を奉初弐百六十諸候より士庶民ニ至迄
和平親睦惣而如一家ニ無之而ハ大艦巨砲
之外寇ハ被防不申候依之先達被仰出候西丸
御普請御手伝之義大小諸候一同御免ニ被仰
付候様仕度奉存候尤此夷国船渡来ニ付新
規御固メ被仰附け向ハ既ニ御免ニ相成候由夫江ハ少シ
階級を御付被成早速御免之御沙汰被仰出候ハゞ
天下一統御仁慈之
御大恩を奉戴愈武備を励み兵具等之
用意も夫々行届
御国家之■屛益堅固厳密ニ相成候御義と奉存候
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何分為
神国御鎮護之非常之御仁政被相行候義此
接別而専要之御事と乍憚奉存候 以上
嘉永六年癸丑八月十一日
仙台微臣 大槻平次 白
明治二十七年一月十一日東京濱町ナル山内香渓ヲ訪フ
主人此冊ヲ出シテ日頃者先人ノ古簏中ヨリ得タリ
蓋シ故磐渓先生ガ先人ニ示サレシモマカ是レ君ガ
家ニ存スベキモノ永ク蔵セラレヨト云乃チ驚喜受ケ
テ装綴ス
不肖文彦記
※ 大槻 磐渓(おおつき ばんけい)、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年6月13日)、名は清崇、江戸時代後期から幕末かけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。
仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。
父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭、大槻平泉がいる。