古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

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盬平勢衰記 1 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:35:48 | 大塩平八郎

盬平勢衰記
大塩平八郎乱妨 之一件

1頁 原 画

天保丁酉年三月十九日大火大変ニ而大坂市中大騒動ニ及ひ候

其根本を尋るに天満川崎四軒屋敷住人東組与力之助

大塩格之助(平八郎養子当時御普請相勤)其父平八郎(当時隠居中齊与号)両

如何成

所存哉内々隠謀之企をなし密々徒党の者をかたらひ已前

より大筒の木筒棒火矢玉薬なと作り当年米価高直

(乱妨前迄二百目大火後二百三十目余)諸人困窮之節を見かけ自分(平八郎)                                     

所持之書物を売払(売高凡四拾貫目余)身分ニ不相応之施行を行(一人を以て

壱朱宛遣し候由)近在の百姓 

 

2頁 原 画 

共の心をなつけ抔 いたし専時節を伺ひ候處西御奉行堀伊

賀守殿着坂ニ付東御奉行跡部山城守殿同道ニ而二月十九日組与力

同心之町々巡検ニ相定られ候事を平八郎聞伝へ十九日両奉行を

飛道具ニ而打んと内々其用意ニ及ふ所柯擔連判之内平山

助次郎(東組同心目附役勤)反忠致し十七日の夜東御奉行跡部山城守殿江

密々大塩父子隠謀之義を訴へニ及ひ候ニ付十九日巡検之義ハ延引

ニ相成平山ハ山城守殿より書状被差添夜中竊ニ江戸表江出立

させられ候得とも未た実否相分り不申故大塩父子召捕も

相ならさる處 又逆徒之内東組同心吉見九郎右衛門変心致し

大塩父子隠謀之趣を委ク認メ同人倅莫太郎 同心河井

 

郷右衛門倅八十重郎両人を以テ訴へニ及ひ候故弥平八郎父子

謀反之趣决西東御奉行内寄御相談御評議之うへ

十八日泊り番東組与力瀬田済之助与力小泉渕次郎

両人とも平八郎ニ一味合体いたし候事明白ニ付実否御糺

之前小泉ハ返答に差つまり迯出し候を山城守殿近

習一条一与申仁追かけて遠国役所ニ而手打ニいたし

候處渕次郎ハ即死ニ及ひ済之助ハ迯のひ御役所之鎮

守之祠江掛上り塀を乗越迯行候(十九日之朝七ツ時比)是よつて

御役所ニハ大塩召捕之御評議まちまちニ而先大納与五

郎(東組与力平八郎伯父)を召連大塩屋敷へ参り罪之次第申聞せ切

 

3頁 原 画 

腹致させ候へし違背ニ及ひ候ハゞ差違ても仕留候様命せ

られ候ニ付興五郎ご役所より立出候故定メ而平八郎方江

参り可申与存之外平八郎之武芸ニ怖れ候にや途中より

不快之由申立罷不越迯失申候是ニ依而又々評議之上

東組与力萩野勘左衛門 西組与力吉田勝右衛門両人江

大塩父子召捕可来様命せられ候処萩野勘右衛門申候ハ未

た虚実も聢と相分らす其上飛道具ニてふせき可申用

意等仕候上ハ容易ニ捕方差向加田清申ニ付又々

評義有之候内大塩屋敷にハ済之助迯帰り隠謀露

顕有之由注進ニおよひ候と申ニ付平八郎初其他一味之 

 

者とも寄集り銘々甲冑或者小具足に身をかため

兼而手筈をいたし置候にや未明より河内在之百姓共

大勢寄集り候を一手ニなし酒宴等催し鉄炮之

筒ためし致し候其音夥敷近隣の屋敷町家は

其騒動の根元を存せさる事故何事にやと不審ニ思

ひ候内平八郎方人数追々馳せ加り辰上刻自分居宅

並土蔵まて大筒を以テ放火いたし東手の塀を切

崩し人数を繰出し大筒ハ車ニ乗て引かせ尤五挺

ほら貝鉦太鼓等を打立陣列を定メ備へを立(三陣ニ立る)

出火見舞ニ来り候もの共を一々に白刃を差つけ此度

 

4頁 原 画 

我等窮民を救ひの為大事を思ひ立候汝等も加勢致

へし若違背ニ及び候得ハ切害いたすへし抔とおと

し候故其勢ひニ恐れ無拠加勢随身の者夥敷相成

其者共に抜身之刀等をもたせ或ハ車を曳かせ鳶口

をもたせなといたし先一番ニ朝岡助之丞之屋敷

の東手土塀を切崩し大筒を打込焼立申候  

  因ニ右朝岡氏ハ(東組与力)御奉行御巡見之節御案内之家  

  柄にて前書の通当十九日西御奉行堀伊賀守殿与力  

  同心町巡見之定日と相定り昼飯ニハ東西御奉行共  

  朝岡屋敷にて遊し候由平八郎兼て其折を伺ひ
   
  

  西御奉行共失ひ申存心之處前夜訴人有て露顕  

  におよひ無是非今朝事を発候由風聞ス

扨朝岡屋敷を焼立次に工藤西田何れも大筒を打

込放火し夫より東へ押行川崎与力町一軒も不残

焼立猶逆威ニほこり恐多くも川崎 御宮江も大

筒をうち込焼立纉々天満橋筋の町家へも打込不

残放火し西与力町北同心町迄皆々大筒を以焼立

東寺町より十町目筋江出勿体なくも天満宮へも

大筒打込焼立天神橋北詰め江押行候所早橋を切落し

 

5頁 原 画

候故渡る事不叶又南詰ニハ御公儀方御役人中厳

重に守護なり西筋と浜をこゝろさし行々放火し

難波橋を南へ押渡り今橋通鴻池善右衛門宅江大

筒を打込是も蔵々の戸前を開き火箭打込候事

ゆへ大勢次第に燃上り庄兵衛宅ハ不及申土蔵壱ケ所

も不残焼失す夫より二手にわかれ一手ハ今橋通を東

一手ハ高麗橋通を東江押行三ツ井呉服店岩城呉服

店 恵比須屋呉服店平野屋五兵衛宅何れも土蔵へ

大筒をうち込焼立る  

   但し平野屋五兵衛宅は凶変を早く告しらせ候者  

 

   有之土蔵はしめ目塗をいたせし事ゆへ壱ケ所も土  

   蔵焼失せす元来平五は平日ゐんとくある家ゆへ  

   ケ様之大変を早く告る者ありて土蔵を焼れさる  

   ハ積善之家にて必ず余慶ありとの古語のことし  

   と皆人称しあへり

扨悪徒ものハ高麗橋を東江渡り南へ行内平野町

米屋平右衛門 同長兵衛宅をも大筒を打込此時大

道ニ而東江向て大筒を放し候 是ハ東より役人来る

と告しもの有し故 なり次ニ大手筋住友甚次郎

宅まて放火し夫より思案橋を西へ渡り談路町

 

6頁 原 画

通を西江焼立候折節南風強く吹出し火勢す

さましく燃上り市中の老若男女途を失ひ放火

せられし家々ハ金銀家財を取のける暇もなく

着のミ着のまゝにて老たるを扶け幼きを抱き女童

ハ素足にて泣叫ひ迯さまひてハ親を見失ひ

子をはくらかし周章狼狽する有様目もあてられ

す遠き町々安治川の末まてを今もや世界大乱ニ及

ふへしと家財を持運ひ妻子を他所の知音或は

寺院なしへ落しやる其騒動大坂中かなへの沸

か如し勿論常の出火と事替り知音縁類の者と

 

ても銘々迯仕度のミ出火の手伝に来る者一人もな

けれ鉄炮の流玉にあたり疵をかふむり命を落す者

も少からず哀といふも疎なり斯て悪徒ハ段々

西江横行し談路町通堺筋辺追行候處東御奉行

跡部山城守殿御馬印見え候故悪徒より鉄炮数十挺

はけしく放したり御奉行方よりも同じく鉄炮

を妨し其音俄ニ夥しく此時玉造口江御加番遠藤但 

馬守殿組与力坂出弦之助と云人(年二十四五才)衆に抽て先に進ミ

紙荷物之陰より鉄炮ニ而悪徒の大筒方の浪人体之者(桜田源右衛門

なり後ニ知る)をねらひ候處大塩方より一人の男(名苗字しれず)固く鉄炮

                                            

7頁 原 画

をかまへ坂本をねらひけり坂本氏は一心に大筒方の者

に目を付候故是をしらす遙後より坂本氏油断候ゆへ

悪徒方より筒口さしむけ候そとよハわり候へとも両方の

物音に紛れ坂本氏の耳に不入猶も大筒方の者をねら

ひ居けり其時悪徒火蓋を切て放せしに坂本氏の幸運

にや其玉着たる陣笠をかすりつゝ後へそれたり其侭に

弦之助火蓋を切て放せしに過す大筒方の胸板をうち

ぬきけり是に依て悪徒のもの共驚き騒ぎ鉄炮武器

を投捨一同ニ散候を坂本弦之助並山城守殿家来松浦竹

次郎と申仁と両人先ニ進て刀にてまつ大筒の者を二刀

 

さし猶も力を閃し追散し松浦氏も悪徒の頭立者(名しれず

角力也)壱人切倒し候ニ付敵ハますます狼狽迯散候遠藤但馬守

との組与力石川彦兵衛と申仁も衆ニ先立て悪徒を追払ハれ

し斯て公儀方の銘々ハ悪徒の捨たる大筒(但し木也)並ニ車鉄炮

槍刀等多く分取し中にも彼切倒されし者の首を切

鎗の先につらぬき方々持行悪徒の頭立候者を討取候

間安堵可致旨被仰急々火を防ぎ候へと呼わり候故諸人

少し心を安し候是より大筒鉄炮を打候ものとも一人もな

く常体之火事ニ相成火消人足の者共追々掛付精々消防

候へ共風増々はけしく天満舟場上町三所の火の手

 

8頁 原 画

強く中々人力にハ防かたく相見へ候也船場ハ南安土町西は

中橋北ハ大川東ハ東横堀上町ハ南本町ハ南ハ本町北ハ大川西ハ東

堀東ハ御奉行御役所西隣代官屋敷まて御役所ハ東

西とも無別条牢屋敷ハ焼失す扨天満ハ北ハ女夫池にしハ

森町東ハ川崎南ハ大川まて不残焼失ス十九日辰の上刻

より焼出し廿一日暁方に漸々鎮火申候誠ニ大坂御陣以来

の凶大変に焼失し金銀珍宝幾億万両共かそへかたし

悪徒の者共掠取金銀もまた夥し歎てもなおまりあ

る大騒動なり

  右大変ニ付かけ付之大名衆にハ
 
  

  泉州岸和田城主

    岡部美濃守殿  八百余人

  和州郡山城主

    松平甲斐守殿  七百余人

  攝州尼ケ崎城主

    松平遠江守殿  八百余人  

  日佐田陣屋

    永井肥前守殿  三百余人

右何れも美々敷大手口京橋口ニ陣を構へられ候

 因ニ曰攝州高槻城主も十九日ニ軍粧して御出馬あり

 

9頁 原 画

   けれ共御城代土井大炊頭殿より早使を以御差止ニ相成候

  是ニ仍て途中ニ備へを立られ候是ハ悪徒所持之鉄炮

  之中ニ高槻公之印有鉄炮有之候ニ依る御疑ひ之趣を以御 

   差止と風聞す   

   御城中守  ニ者当時御城代

       土井大炊頭殿   七百余人

  其外西東御奉行ハ諸蔵屋敷より掛附備へを立られ

   候あれも廿一日之未ノ上刻ニ各御引取ニ相成申候

扨火鎮り候而後悪徒之行衛厳敷御吟味有之候得共大塩

父子初メ一味之者とも一円行衛相知れす東之御堂之

 

水道より鉄炮一挺引上ケた四ツ橋辺の川より刀四五腰引

上又死骸一ツ引上る

 但し此死骸ハ悪徒の中にハ不有由風聞ス

其余焼場之井戸よりも鉄炮刀兜金銀檄文も引上ケ候由

扨無難之町家ハ夫々私宅江立帰り候得ともまた悪徒之起り

候事も有之哉与危踏家財を納メたる蔵戸前を開かす候

故業体も相休ミ十九日より廿三日頃迄ハ表を〆切見合セ居候

處追々 御公儀様より御触渡有之候故漸々廿三日比より

店を開き業体相初申候扨類焼之難渋人の分ハ

御公儀様より格別之御仁恵之御触有之道頓堀芝居江罷 

 

10頁 原 画

越候へとの御事故我も我もと芝居江参り候處則御役人衆より

御痛り有之親椀ニ堅く詰たる大握飯を壱人前一ツ宛勿論

日三度つゝ被下候此御救米入高一日ニ十石余と云斯て三月

上旬ニ相成候御救小屋成就いたし候ニ付類焼難渋人夫々に

行移候旨被仰渡候則處ハ

  北組ハ天満橋南詰   天満組ハ天満橋北詰

    南組ハ天王寺御蔵跡

右何れも組々の小屋ニ御救之印幟を立られ候小家住之

者ハ御救飯を頂戴ス銘々朝より挊ニ出手元銭たまり候

迄御養ひ被下候との仰渡されにて候誠ニ莫大之御慈悲也

 

右手元残挊ニきため小屋を出借宅江引移り候者江ハ白

米一斗ト銭弐貫文宛被下候又病人之分ハ近辺之明家

に而保養を加へさせ医師御附配剤させられ候且又

御公儀より有福之町人中へ施行銭差出し可申旨御下

知有之依而思々に差出候鳥目惣高二万三百五拾貫文なり

此銭相場九匁替ニ而銀高二百四拾貫九百弐拾五匁なり右

銭を此度之類焼人壱軒前壱貫文宛被下類焼せさる者迚

別ニ四百文ツゝ被下候其後又 御公儀様より

御救米として現米二千石(尤白米也)三郷借家人共江御施行有

之候壱軒分弐升八合究也元来昨年米不作ニ付当年ニ至

 


盬平勢衰記 2 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:35:15 | 大塩平八郎

11頁 原 画

米価追々高直ニ相成市中難渋云斗なく折々米屋を

こほちなと致し候事も有之酒ハ三分一造被仰渡壱升

之価並酒ニ而三百文如斯諸色高直なれハ困窮の者ハ

ニ落ふれ路頭に餓死する者又数をしらす大凶之上大塩父子

之乱妨ニ而世上益困窮し米価俄ニ高く相成一石ニ付

(白米壱升二百七拾文)誠ニ貧乏人朝夕の煙立かるれニ至る事大塩奸賊の

所行故と慣らさる者ハなし

 籏之図

   東照大権現

  天照皇太神宮
 木造大筒の図
   春日太明神
  但シ火口ウシロニ アリ
  

 南無妙法蓮華経

 

    湯武両聖王
此所江棒火矢
  天照皇太神宮
サシコム    八幡大菩薩

 

12頁 原 画

救民                      先手の印幟
鉄大筒全図車ニ載用ユ
筒長サ四尺余台モ五尺余ニ見ユ
此外七十目筒銀象車輪ノ紋
小筒品々 長刀 刀 火貝等アリ

大筒玉薬入
木筒ノ図
火矢 胴 竹中 木蓋 木惣長サ壱尺余リ木綿ニ而五重巻ク
以下略します。

 

13頁 原 画

行列附之次第先手之分

桐紋籏(鎗人足同同)庄司儀左衛門 拾五匁筒      人足三人

救民幟 木大筒人足大塩格之助金助 拾目筒

文字籏 (鎗人足同同)   大井庄二良 拾目筒      人足三人


同中陣備之分
鎗 白井孝右衛門        同 深尾治平
同 茨田郡次            同 志村周次
同 杦山三平            同 上田孝次良         鎗 阿部長助
                                               同 蘇我岩蔵
  大塩平八郎                                  同 同 忠五郎
                                               同 西村利三郎
鎗 橋本忠兵衛          同 高橋九右衛門        同 同 喜八
同 梶岡源右衛門        同 堀井儀右衛門         同 吉助
同  同伝七              同 安井図書

 

14頁 原 画 

後備之列


鎗 渡辺良左右衛門   
            小筒拾挺

                                        具足
瀬田済之助              大筒人足三人  長持   人足百三拾人斗
                                        葛籠
                        小筒拾挺

 


右悪徒之者其日の出立ハ大塩初メ重立候ものハ甲冑を

帯し或ハ小道具或ハ面を包ミ加勢之ものハ陣笠後鉢巻

等ニて何れも抜身の鎗刀木刀竹槍を持もあり小筒を

かまへ大筒に引添陣立致し候

大筒ハ木以造る図之如く木の中を彫抜筒ニ竹の輪を

入候物なり小筒と申ハ常体の鉄炮なり木筒と申ハ尼ケ崎

高槻ニて火術ニ用ひ候打上の同様の筒なり外に棒火

箭又鉄造の大筒も有之候よし前の図の如し

  檄文之写   落し文なり

 

15頁 原 画

四海困窮いたし只々 天録永く絶へ小人に国家を治めし

めは災害並至ると昔の聖人深く天下後世の人の君人

の臣たる者を御誡被置候故東照神君にも鰥寡孤独

に於て尤憐ミ加ふへきハ是仁政之基と被仰置候然

るに此二百五十年太平之間ニ追々上たる人々驕奢とて

おこりを極メ大切の政事ニ携り候役人共も賄賂を

公に授受とて贈貰いたし奥向女中の内縁をもつて

道徳仁義等もなき拙き身分ニ而立身し重き役柄

に経上り一人一家を起し候上のミに智術を運し其領分

知行所の百姓共江過分之用金等申付是迄より年貢諸

 

役に甚敷苦しむ上江右之通無体之儀を申渡し追々入用

かさみ候故四海之困窮と相成候故人々上を怨ミさる者

なきやうに成行候得共江戸表より諸国一統右之風義に落

入 天子ハ足利已来別而御隠居同様ニ而賞罰之柄を御

失ひニ付下民の怨気天ニ適し地震火災山も崩れ水も

漫るよう外ニ色々様々の天災流行し終に五穀飢饉に相

成候ハ皆天より深く御誡之難有御告ニ候得は一向上たる人

々心をも附す猶小人奸智之輩大切之政を執行ひ只

下を悩し金米を取立る手段斗ニ打かかり実以小前之

百姓共の難義を我等如者の草の陰より常に察し

 

16頁 原 画

怨ミ候得とも湯王武王勢位なく孔子孟子の道徳も

なけれハ徒蟄居致し候處此節米価いよいよ高直ニ

相成大坂奉行並役人共萬物一体の仁を忘れ得手勝

手之政道を以いたし江戸江廻米いたし天子御在所の

京都江ハ廻米之世話等も不致のみならす五升一斗

位の米を買ニ下り候者共を召捕なといたし実に昔葛

伯といふ大名其農人の弁当を持運ひ候小児を殺し

候も同様言語道断何れも人民ハ徳川家御支配之者ニ

相違なきを隔を付候ハ全奉行等の不仁にて其うへ

勝手我儘之触書等を度々差出し大坂市中遊民

 

斗を大切ニ心得候者前ニも申通り道徳仁義を存せさる拙

き身故ニ而甚以あつかましく不届之至且三都之内大坂之

金持とも年来諸大名江貸附候利徳之金銀扶持米等

を莫大ニかすめ取未曾有之有徳ニ暮し町人の身を以

大名之家老用人格ニ取用られまたハ自己之田畑等を

夥敷所持いたし何ニ不足なく暮し此節の天災天罰

を見なから恐も不致餓死之貧仁乞食をも敢而不救其

身は膏粱之味とて結構之物を喰ひ妾宅等へ入込

或ハ揚屋茶屋江大名之家来を誘ひ参り高価之酒を

湯水の如く麁抹ニいたし此難義の時節に絹服を

 

17頁 原 画

まとひ候河原ものを妓女と共に迎えへ平生同様ニ遊楽に

耽り候ハ何等の事武紂王長夜の酒宴も同し事

其所の奉行諸役人手に握り居候政を以右の者共を

取しめ下民を救ひ候義も難出来日々堂嶋の米相

場をいちり廻し実に禄盗ニ而決而天道聖人の御心に

叶ひかたく候救なき事蟄居の我等最早堪忍難成

湯武行勢ひ孔孟の徳はなけれとも無拠天下の

為と存し血族の災を犯し此處有志之者と申合

下民を悩し苦しめ候諸役人を先誅伐いたし引続奢

ニ長し居候大坂市中之金持之町人共を誅戮に及ひ

 

可申候間右之者とも穴蔵ニ貯置候金銀銭並諸蔵屋鋪

之内隠し置候俵米等夫々に配当いたし遣し候間

攝河泉播之内田畠所持不致者たとひ所持いたし

候共父母妻子家内之養方出来かたく程之難渋之者

とも右着金米とらせ遣し候間何にても大坂市中騒動

起り候と聞伝へ候ハゞ里数をいとはす一刻も早く大坂江

向可駈参候其面々江右米銭を分遣し可申候鈴橋鹿台

之金粟を下民江被与候遺意とて当時飢饉難儀を相

救ひ遣し度若又其内器量才力有之者ハ夫々取立無道

之者を征伐いたす軍役ニも遣ひ可申候必一揆蜂起之企

 

18頁 原 画

とは違ひ追々年貢諸役等ニ至るまて軽く致し都て

中興神武帝之御政道之通寛仁大度之取扱ニいたし

遣し年来驕奢淫逸之風俗を一統相改質素ニ立戻り

四海萬民何れも天恩を難有存し父母妻子をすくひ死

後の極楽成仏を眼前ニ見せ遣し堯舜天照太神

之時代ニ而復ししかたくとも中興の気縁ニ快復とて立戻り

可申候此書附村々江一々しらせ度候へとも数多事故最寄

之人家多候大村之神殿江張付置候間大坂より廻し

物之番人より見付大坂四ヶ所之奸人共江注進いたし候

様子ニ候ハゝ遠慮なく銘々申合番人を不残打殺し可申候

 

若騒動を承りなから疑惑致し駈参不申またハ及遅参

候ハゝ金持之米金皆火中之灰に相成天下之宝をとり

失ひ可申候間跡にて必我等を恨み寶を捨ね無道もの

と蔭言不致様可致候為其一同ニ触しらせ候尤是まて地

頭村方ニ有年貢等にかゝりし諸記録帳類はすへて引

破り焼捨可申候是往々深き慮有事ニて人民を困窮

致させ申間敷積り候乍去此度之一挙当期平将門明智

光秀漢土之劉膳朱忠等之謀反之類ニ無之又我等心中

天下国家を貪盗致し候慾より起り候事ニは更に

無之日月星辰の神讃ニある事ニ而詰る處ハ湯武漢

 

19頁 原 画

高祖明之太祖明を吊ひ君を誅し天罰を執行候誠以のミに

而候君疑敷覚候ハゝ我等所之終る處を汲等銘々開て見よ

  此書附小前之もの江ハ道端坊主或ハ医師等より尋よ

    よミ聞せ可申候若庄屋年寄眼前之灾を恐れ己ニ隠し

    候ハゝ追而急度其罰課行候

奉天命致天誅候

  天保八丁酉年月日

    攝河泉播村々

     庄屋年寄百姓並小前百姓共江

    右黄色之結ニ袋ニ入上書に

   

  天より被下候村々小前之者ニ至る迄

右之落し文読路町増筋辺にて悪徒離散之後諸

武器と共ニ井戸より取上候を写し取候なり尤本書に

よミかたき字多あり大体推量之上写し取候事故

誤字脱文も有之へきか

        因みに曰天保七丙申年九月上旬ニ高麗橋三町目

        横町ニ夜中ニ張紙有之候故番人之者見附

        町中立会之上まくり取 御公儀江訴出候何者之

        所為共相分不申大塩乱妨之後思ひ合し候へ者

        是も悪徒之所為か成やと諸人風聞す仍而其

 

20頁 原 画

        文を茲に写ス

近年引続候而天災地変五穀不熟にて諸民必死難渋致困

窮絶体絶命ニ至り全江戸之政道不正にて偏頗私曲

之沙汰ニ相成公儀と称し候儀迚更ニ無之此通ニ而ハ不達

天下之万民なく残所致餓死候ニ付此度天道様より政

事命令被為有候其訳候豊臣秀頼父秀吉之志を

継諸大名を師ひ海内を治る事不能を察し其暗弱ニ

乗し源家康太閤秀吉年項之恩義を不省ひそかに

隠謀を構へ豊臣之天下を奪ひ四海之政務を司り天下

之権柄を握り上ハ安撫せるニより代々将軍と相成候處

 

近代ニ至り江戸之気運追々おとろへ当時は人臣の極官ニ

登り官禄ニ盛成ニより威光日々ニ増長し人道の大乱を

廃し又下民之疑をいとハず栄中之奢強く諸民を芥の

如く軽んし手侭ニ成候小身者ハ厳科ニ處し少し手侭

に致し難は三逆の大罪も刑を軽くし且将軍之一

族金枝玉葉  迚も三卿之衆ハ国家之政務ニ不携然

るに高官を汚し剰大身ニして武功之家柄之大

名ニ者前々より松平の称号あたへ格別之国主

夫々日陰之身ニ而私之通行ニも目障と申而天下之大

名表向通行之駅場ニ相建候関札を理不尽ニその


盬平勢衰記 3 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:34:32 | 大塩平八郎

21頁 原 画

囲を蹂倒し殊更帝王より賜り候官名並ニ称号相

記し候関札を土足に懸り次第不法之至り言語道断

無拠罪科相糺ニ至るハ主君を大切に存候而之始末抔与

となへ如何と軽輩之者迚も一命に於ハ同敷事なるを然るニ

供方之者の罪ニ皈し大罪に行ひ尚又大国を領し国主

と祝し候大名も先祖以来称し来り候家之称号乍

有士之数ニも不入軽輩之土足ニ迄懸汚せし称号を

指戻しも不得致同列之国主迄も一言も不申出とハよ

くもよくも腰を抜し候事ニ而日本国之勇気斯まてニ

衰へ候ハ残念之至浅間敷次第ニ付此度天道様より

 

新ニ天命罷下り天下の諸民武士ハ不及申百姓町人沙門

之身ニ而も天道様江の奉公と存し急々ニ大儀を可思立候

尚又天道様之御目鏡を以て智勇兼備之者を撰

出し大将ニ可被成候右之趣改革之天命ニ付京大坂初

諸国津々浦々迄可触知者也

申九月

提紙ニ而

来ル十月朔日之夜中より左之處江腰弁当ニ而可被

集候但シ老人ハ東西本願寺堂江可集候

  集会評議所

 

22頁 原 画

西ハ天保山東ハうふ湯稲荷

  此事附遠目を付置候故誰ニ而も取のけ候方へさし

  火被致候

天保八酉二月十九日暁七ッ時前東組同心之内吉見九良

右衛門より倅莫太郎並河合善太夫孫八十治郎両人

を以西御奉行御役所へ差出し候内訴之写

 乍恐

公儀御一大事之義奉意訴候

                            東組同心

                                吉見九郎右衛門

 

近来転変地変打続民心不安ニ付私晩学之師与相頼候東組

与力大塩格之助父隠居ニ而儒業に罷有候大塩平八郎儀

倅格之助丁打稽古其外之事ニ託し旧冬より火薬

之拵致し居候處実は世を憂ひ候心堪難ニ付孔孟之

徳もなく湯武勢位無之候得とも民を吊ひ候大義を

唱可申と恐多くも不顧

公儀奉警五道ニ帰し候様致し度旨門人之内同組与

力瀬田済之助小泉渕次郎同心之内渡辺良左衛門河合

郷右衛門近藤梶五郎平山助次郎庄司儀左衞門私共

に河内守口村質屋白井幸右衛門同州般若寺村橋本

 

23頁 原 画

忠兵衛等江追々同者ニ申勧候引付私ハ勿論誰迚も驚き

実々恐怖不致者無之趣元来平八郎気分高く剛

偒勝ハ生質ニ付平生門人之教厳敷長幼之無差別

折々大技等を度々以其一念之不正を懲戒候ニ付要を改

善ニ遷候様相成師弟之交り誠実を尽し候ニ付皆思

ニ感じ恭敬厚く致し候故申聞候も了簡ニ違ひ候義

有之候而も言之論談致し候者も素より右密談請候

者共学術未熟無術之者ニ而私義ハ猶更以弁へそ道を不知

候ニ付答方無之誠ニ大胆成致附と怖敷候處漢高祖

明太祖等三功業なとを解得為致候故実以不同意勿論

 

左様之義仮令学力有之候共隠退之与力ニ而出来可申様

無之義ニ付其場を錺り尤之様之言葉を合し申答其

余之者共も大体同意ニ相聞候処全ク人を掛候為之虚

言ニも無之火薬分外ニ拵へ弥密談ニ力を入候ニ付猶々

恐怖之念弥増長方畏縮いたし候者ハ身分を賤しめ

悪言大技等を度々以打擲右ニ付外をも懲誡強制致ニ候ニ付

弥一言半句も不被申様ニ相成皆々嘆息いたし候得

とも致方無之無拠付合致労心候義ニ御座候尤民を

吊ひ候義ハ拒橋鹿台之粟を民ニ与られし遺意

ニ候迚大坂市中豪家之町人共利倍を以貯居候金銀

 

24頁 原 画

銭並ニ大名方屋敷有米を与候間何時市中ニ出火

と承り候ハゞ貧民駆付可申右金米配当致し可遣旨檄文を

作り摂河泉播江相廻し候積遺言ニ違ひ候義も難斗

何とも歎ケ敷次第ニ而私身ハ賤き御奉公致候得とも先

祖より恐多くも君上之御恩沢を以て父母妻子を育何

不足なく相勤候段誠ニ以冥加至極難有仕合奉存候

ニ付右体之企実心決而同意不仕無勿体義ニ付何卒相

避申度存不快差支ニ托し成丈平八郎方不罷越様致

術迎年遇寒邪之上宿疾発し勤労後出勤も難

仕併し都而幸々相成旁以病気養生引込之御届

 

申上候ニ付不携様相成候得とも何卒右企為相止度

良左衛門並ニ其余之者江諌方之義度々及内談候処


何れも尤与同意ニ候得とも中々一朝一夕之事ニ而ハ

難参良左衛門郷左衛門等より風諌致し候得とも止る気

色も無之却而憤り口を閉候ニ付此上者誠意を尽し

自分与心付相止候様致度与良左衛門申聞其余之者

共風諌時も出来不申既郷左衛門義ハ避候心得候哉不斗

家出致し候旨を申様子相構候得共頓着不致趣ニ付

尚又良左衛門江面会之上私義兼而多病之義ハ平八郎

事存罷在候義其上当時病症労症之上疝痛一

 

25頁 原 画

時ニ相発し心労弥増候ニ付中々以密談之一條難出来

候間自殺を以相断候外無之旨追而及■談之所色々

申宥左候者外ニ申談取斗方不有候哉折角相察

居候段申聞候義ニ而右之趣平八郎及承候ハゞ心付相止

候儀ニも至可申哉と存居候處一両日相立良左衛門罷越

平八郎江私病中ニ付右一条過急に発立候積候ハゞ迚も難

出来申聞候處尤之儀左候ハゞ緩々保養専一之旨申居候

間其心得を以事発着之節ニ立退可申旨良左衛門申

聞候へとも実は如何之示合ニ候哉同人義ハ難遁義有之

故哉猶私病気寛養之儀見舞旁格之助并儀左衛門

 

等を以て申越候全く私差向違変之儀有之候而者御不審

ニ而一儀露顕を危踏候故の儀与相察候将又平八郎義ハ

聊無私心を以て人勧め又檄文を廻し且所持之書籍

等を以て施行の義も民心寄伏之義与相察申候以前

の有間敷悴江可娶積之養娘を竊ニ自分妾ニ致し

男子出産ニ付殊之外相歓此上ニ而弥一儀決心之旨相咄シ

■間敷与申聞候俗人にも相劣候義不埓之義且後来

之望有之義顕然ニ而最初より反謀之企を以人を勧

め候ハゞ承知不仕義を存し無欲天道を以事を謀候義

名前立愚昧之者共をたふらかし同者ニ入檄文中

 

26頁 原 画

殊ニ明白ニ認識有之実ニ天下御為を存候ハゝ如何様

共自力之及び候き御忠節之奉尽方も可有御座哉

誠ニ以言語道断奉恐入候次第ニ而私義病気を以相避

候得とも斯御一大事之儀不奉言上候ハゝ 御高恩

何を以奉報之候哉且不届之罪難遁候ニ付此段奉内訴

訴右ニ付第一奉申上訴ハ 御城並両御役所其外組屋敷

等火攻謀ニ付右ニ乗し市中人家江火を懸可申左候

ハゝ乱妨ニ而数万人之命ニ拘り候義与相成兼而御武備も

御座候得とも火急ニ事起り候義も難斗時を考候間

中々御油断難相成 御危難之時節ニ御座候間乍

 

恐密々急速ニ御手当之上御取鎮之御深慮奉願上候故

之趣意ニ奉言上度昼夜心を労しめ罷有候へとも病悩

難堪一向執筆不相斗山城守様江可申言次可申談者無

御座候ニ付色々配痛士無拠渇所見斗託訴を以遅々

ニ及ひ候得共奉言上候間其段御赦免可被下候尤平八郎

義大体火術之不一通候御深慮被思召候様奉仰候其

余前書名前者是非御召捕ニ相成候ハゝ私義も同様御取

斗可被下候無左候而者私より密訴之義相相知訴てハ全く

卑怯ニ而一旦之義理忍候様ニ相当り候も口惜敷何れ

死ハ決着仕罷在候得共私相果候ハゝ御不審之内火急事

 

27頁 原 画

発覚可仕候左候時ハ大乱ニ相成急訴も空敷次第ニ付

御召捕迄ニ■ニ■之自滅可仕も難斗御座候間右寸志を

以て御赦免可被下候様奉願上候病躰も六ケ敷候ニ付

万一御憐愍被下何ニ御留置又ハ御預り相成候共忽ち

落命ニ至り可申義必定之儀ニ付此段御憐察之上御

許容被成下候様奉願上候将又至而若年之倅莫太郎

与申者学問為修行先達而より平八郎方江寄宿為

致置候処全く人質之積ニ候哉差帰不申仕義ニ忰

之存亡ニ掛り候得共御一大事ニ者難換万々一落命も

不仕候ハゞ其余血族之者とも一同御仁憐之程奉願上

 

候何卒右密訴之義ハ暫時御内含外より達御聞

之様被成下後々之御裁判奉願上候

 但西御組与力見習勤内山彦次郎ハ兼而大塩平八郎心ニ

 合不申由ニ候處彦次郎義此度遠方江御用ニ

  参り候哉ニ沙汰も承り候間遁れ不申候而手始ニ被

 掛候義も難斗候間出立御差延し御賢慮被

 思召候様奉仰候

     天保八酉年二月 吉見九郎右衛門

 

28頁 原 画

御城代樣

御定番樣

両御頭樣

東西御奉行所より御城代江御書上之写

 

去ル十九日奸賊共市中乱妨之儀奉申上候

 

二月十七日夜山城守組同心平山助次郎山城守手元江

罷越密々申聞候者同組与力大塩格之助父隠居平

八郎義同組同心吉見九郞右衛門渡辺良左衛門遠藤梶

五郎庄司儀左衛門先達而出奔仕候元組同心河合郷

左衛門右助次郎申合大胆成儀を企棒火矢其外

吉見用意致し置近在百姓共人数不相知申合去ル十

九日市中其外焼払可申旨不容易悪斗仕右之

者とも百姓共連判仕候處只今ニ至り何共恐入候次第

ト相心得候段助次郎申聞候間虚実之程難斗内聞

 

29頁 原 画

申付十八日御用日立会之節伊賀守江右之始末申聞

及相談候右企相違無之哉相聞候間両組相交早速捕

方相響可申候も難斗伊賀守御用日立会相仕舞

次第帰宅後右捕方之義山城守ニ者組与力茨野勘

左衛門申聞候者未虚実も旋之不相分殊ニ火器等用

意之儀ニ付容易ニ捕方難差向穏便之捕方ニ致度申

聞候間伊賀守江其段申談し山城守万ニ而種々評

儀之處翌十九日暁七ツ時前堂組同心九郞右衛門倅

莫太郎郷左衛門倅八十治郎右九郞右衛門兼而認メ

置候書附並判摺之紙面相添伊賀守御役宅江

 

同様之趣申置ニ付早速山城守江家来を以内

密申越候處此上者一時難捨置打合せ置候通

捕方早速差出申手配工合仕候處然ルニ右連判

之者之内瀬田済之助小泉渕次郎泊り番ニ而山

城守御役宅当番所ニ罷在候間同人ニ一通り相

尋候処一事ニ露顕与相心得候哉両人共迯出し候

間淵次郎者打果し済之助ハ塀を乗越迯去申

候右之次第ニ而伊賀守早速御役所江相越候様

申遣し候則罷越候其已然平八郎ニ切腹為致

候儀不承知ニ候ハゞ差違候様同人伯父同組与力大西

 

30頁 原 画

与五郎江山城守より申付候処途中より不快ニ而不罷

越迯去候済之助より告しらセ候哉天満辺大筒小筒相

候音相聞へ夫より組屋敷焼立廻り候ニ付近辺殊之

外騒立追々天満辺江鉄炮打掛何れも白刃携候

者多人数罷在最早穏便之取斗仕兼候ニ付両組与

力同心とも被申付御鉄炮組同心打交鉄炮を以可相

払旨差図仕候得とも手たり兼候間遠藤但馬守

江掛合御定番与力同心呼集種々手当仕候内弥以

及増長候ニ付御手前様御人数をも御加江相成天満

橋向西之方江焼立船場辺相廻り候ニ付米倉丹

 

後守組其外召連伊賀守義罷越候處内平野町

辺ニ徒党之者凡四百人斗相見へ候ニ付打払候處

早速東堀川向之方江迯去尤場所火勢強燃

立申候山城守義も玉造口与力同心其外召連

引続同様ニ罷在候内骨屋町ニ而面会申合両手ニ

相分同人義思案橋相渡り船場辺談路町

江相向ひ道筋見掛次第ニ相払可申候處堺筋

辻合ニ而山城守馬印目当ニ励敷鉄炮打掛候

間此方よりも一同ニ打払候但馬守組与力板本

弦之助場合近く相進ミ大筒支配仕居候名前不

 


盬平勢衰記 4 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:33:49 | 大塩平八郎

31頁 原 画

知浪人体之者を打留其外雑人打留乱散

仕候間場所ニ捨置候大筒其外武器類相調別

紙之通取上申候伊賀守義前書申上候通骨屋町

より本町橋相渡り進ミ行候處難波橋筋ニ而

奸賊共罷在候間但馬守組与力石川彦兵衛先き

立雑人相払路筋ニ捨置候鎗長刀等取上追行

候處堺筋ニ而山城守ニ出会猶申合火中奸賊共

行衛深く相尋候得とも一円相見へ不申依て所々

に相囲御手前御人数江ハ引取御城辺相囲居候

様山城守差図仕候京橋辺江夫々警固人数差

 

配仕候伊賀守義ハ東横堀川筋本町筋相囲夫々

人数差配両人申合市中人気相鎮り申候様取斗

召捕方専要之手配申付直様消除差図ニ取掛

候得共右之騒動ニ而人足相集り兼追々呼集消

除仕候處残賊近辺ニ相見へ候旨風聞有之市中

不穏候ニ付為取鎮旁私共所々見廻り等仕翌廿日

同様之沙汰仕候間不穏候ニ付夫ニ付夫々人数当仕無

油断消除仕候得とも牢屋敷焼失仕再ひ火焼

募り候得共御城内無別条両御役所も別条

無之同夜五ツ半時比御弓町ニ而火鎮り申候類焼

 

32頁 原 画

之者共江御救米等被下手当仕ニ付此節之趣ニ而

市中人気追々打合最早諸人掛念仕候模様

無御座候右前書之通坂本弦之助砲術鍛錬之

上格別励敷働仕候石川彦兵衛も認出か程ニ打

留ハ無之候得共励敷働き仕場所を先達仕候其外

何れも非常之働仕候義追而取調可申上候得共

但馬守考者何れも平日之心掛宜敷相見へ申候

巨細之儀者猶追々取調可申上奉存候 已上

         東西御奉行

 二月廿二日        連名

一 町数         百拾二町

      外ニ東堀川上之口新築地天満天神社地同東

   寺町前大鏡寺前同東寺町

一 攝州西成郡川崎村

一 惣家数                三千六百拾九軒

      竈数壱万二千五百七拾八

      内明家千三百六軒

 

33頁 原 画

土蔵          4百拾壱ケ所

穴蔵          百三ケ所

納屋          二百三拾ケ所

一 寺数          十四ケ寺

一 道場          二拾三ケ所

一 天満御堂東本願寺掛所

一 神社          三ケ所

  但シ神主社家屋敷十ケ所

一 武家屋敷       二ケ所

 

一 蔵屋敷        五ケ所

一 用場          二ケ所

一 牢屋敷

一 橋天神橋 高麗橋 今橋 藤屋橋 平野橋   五ケ所

一 銀座秤座天満組惣会所

一 東組与力      二拾九軒

一 同同心居宅     四拾六軒

一 西組与力           二拾九軒

一 同同心居宅     二拾六軒

一 与力同心武芸稽古場    三ケ所

 

34頁 原 画

一 鈴木栄助居宅御彼様奉行也

一 池田岩之烝御役宅代官也

   三所焼地図

 

右騒動一件江戸面江御注進相聞江営中ニ而

御評儀之上丹州亀山候播州姫路候両家江加勢

可有旨御下知有之依而各二月廿六日頃陣立ニ而

出張有之

  播州姫路城主

    酒井家御人数千五百人

      先手西宮二陣ハ兵庫三陣ハ明石迄

 丹州亀山城主

   亀山家御人数六百人

      十三川比辺迄御出陣

 

35頁 原 画

右御出張有之候得共最早騒動鎮り候故即御城代

より御差止之使者を以御申遣し各途中より御引

取ニ相成候両家共軍粧美々敷諸人の目を驚ス

 

  大火後御触書並御口達之写

 

 一  悪党者共所持いたし候飛道具類ハ不残御取上ニ

    相成候間安心致し候様於町々不残様可被達候

       二月廿一日             南組惣年寄

 

    今日只今南組惣会所江三郷町代被召呼惣年寄中被

    仰渡候也

 

一 類焼之者家財広場途中江餅出し自身番致し

   罷在候分掛り町中申付右家財預遣し候間安心

   いたし芝居江罷越御赦受候段其場所江も相

  遣し心得置可申事

 

    月 日

 

36頁 原 画

一 去ル十九日市中及乱妨之者共大火ニ及ひ候ニ付

渡世向相休候者も有之由右ニ付米価高直ニ付時

節t柄類焼之者共別而令難渋候ニ付手寄方無之

者共道頓堀芝居江罷越候 御救米致扶助遣し候

段其節惣年寄共より為相達追々罷越候者共も

可有之候最早及鎮火右乱妨之者も追々召捕猶

類焼之町々ハ勿論市中組々之者廻り方等を申付

置候間銘々渡世向不危踏日用無差支様致売

買可申尤米之儀ハ其節之者江蔵出し等之儀申聞

置候方右売買之者者猶更無違失相心得此段早

 

々不残様可申達候事

    右之通被仰出候間不残様入念可被相触候 以上 

  二月廿一日              惣年寄

 

一 類焼難渋人江御救被下候道頓堀芝居江罷越候者

  共町々より年寄家主又ハ町銘ニ而も調印書附

  相添可差越候右類焼町江可相達候 已上

一 類焼人江為御救鳥目被下候間其段類焼町々

 

37頁 原 画

  江通達可在之候類焼町混雑中ニ付各町々

  より可相渡候尤鳥目之高之儀者追而可相達候

一 町々火元番人之義大火之後之儀ニ付猶更心を

用ひ類焼町々分番人無怠可被申付候番人

居所も及類焼候儀ニ付此間より右町々江被引

渡番之儀ハ其町々伐ちり合せ罷出無怠いた

し候様可申達候

  但し有合ヲ以掛り町より相渡候分ハ運賃御入用を被下候

右之趣類焼之外ニも為相触置相心得置可被下候事

 

       二月廿五日

一 去ル十九日放火及狼藉候者有之ニより女子供ハ別而相恐

今以危踏居候者有之哉ニ相聞へ候右惣党之内

重立候者ハ追々召捕或ハ自殺いたし候者も有之

候得ハ安心いたし諸売買ハ勿論 来三月雛祭之

儀も聊無掛念例年之通相祝取引可致候

   右之趣三郷末々迄不残様可申聞候事

    二月廿九日

 

38頁 原 画

一 今度出火ニ付天満

御宮御神輿生玉八幡社江御取退有之候處明

後五日暁丑ノ上刻還御有之候依之火之元之儀

天満郷之内堀川より東ハ為触知其余ハ右ニ付火

元別而入念候様申達可置候

   右之通三郷中可触知者也

一 去ル十九日天満川崎より及出火類焼ニ逢候者可致

難渋条材木板類其外都而諸色出火已前之直段

ニ可致売買候実々直段引合不申候ハゞ追而可申出候

 

其節可為差図候若注用ニ迷ひ候分之売方致間

敷候尤類焼ニ逢候候者追々店借又は普請等可致候

得とも身軽之者ハ夫迄之取■尚又及難渋ニ■年寄

方無之者ハ御救被遣候程之儀ニ付家持並大工手伝

職惣而普請方ニ携り候職人とも心を用ひ聊利

歎ニ不拘相応之店賃を以貸付又職人共ハ極々賃

銭ニ而相働可申候若難渋を見込手間賃等を引上ケ

貪ケ間敷儀有之候ニ於ハ夫々急度咎ニ可及候此旨

三郷中家持家主支配等へ不残様可申聞置事

     三月廿三日

 

39頁 原 画

一 去月十九日大火ニ付諸材木釘類高直ニ仕間敷並大

工日雇等之者増銀申間敷相触置候處類焼人共

令難渋自分普請方差支之由右ハ材木類問屋より

中買ニ売渡町中江買取候故直段高直ニ相成可申

大工日雇之者人数在り急候義可有之間材木類ハ

中買ニ不拘穴屋より直買可致大工木挽日雇手

伝等ハ当所之者ニ不拘他国より傭候義当年中差

免候

一 土砂船積之儀且又当年中ハ何舟ニ而も勝手次第

 

積立可申候

 右之趣三郷中江可申聞候

   酉三月

一 去月十九日大火類焼ニ及ひ年寄方無之難渋人不取

敢道頓堀芝居ニ於て御救被下候■今度天満橋

北詰南詰め天王寺御蔵跡右三ケ所江御救小家御取

立有之右芝居ニ被差置候者とも今四日より追々

右小屋へ施行之品等差出し度志有之向ハ前以御

救小屋へ罷越掛り町ニ引合之上可差出候

 

40頁 原 画

一 難渋人ニ不拘其郷打込候而差込候得ば御小家之

義ハ取扱郷々相分候間其段可相心得

天満橋南詰ハ東元堺町淀島形御小屋右北組取扱

天満橋御北詰御小家右天満組取扱

天王寺御蔵跡御小家右南組取扱

一 類焼町並掛り町相除残分町々之内毎夜二町宛

順番書附之通丁代並人足壱人ツゝ相詰可申候別

紙ニ順書相渡候

  右三郷共掛り町名前相記候得共略之

       

         酉三月

一 米価追々高直ニ付難渋之者不少趣ニ付猶又其米

二千石御救として此度被下置候難有奉存難

渋之者取調早々最寄之惣年寄共江可書出

候此上ニ而御救御手当有之候間安堵致し渡世

致し心得違無之様篤与可申渡候

     酉三月

一 此度被下候御救米二千石町々調出米次第早々

 

 

 

 

 

 

 

 

 


盬平勢衰記 5 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:33:03 | 大塩平八郎

41頁 原 画

遣し候様被仰出候右ニ付御米掛り町江相渡候節

白米ニいたし夫々遣候積り橋賃雑費銀も被

下候間其旨相心得可被申候名前ニ取調之儀精

く相急き不残様可申出候 以上 

    三月十一日         御救掛り惣年寄

一 米相場昨今引上ケ候ニ付橋米小売屋共已前ニ買

置候米迄も元付直段ニ不拘俄ニ店売直段引上

或ハ戸を〆しめ売等いたし候者も在之趣相聞へ候

以之外不埒之儀ニ候見廻り之者差出し候ニ付此上ニも

 

右体之族於在之ハ召捕可致吟味条心得違無之

様生路之売買可致候

  右之趣三郷町中橋米屋共江不残様早々可申

  聞候已上

     酉三月

一 市中橋米屋共方ニ而米押借致し候もの有之迷

惑いたし候由相聞へ候以ノ外之事ニ候右体之もの

有之候得者口上ニ而早々奉行所江可申出候ハ勿論ニ

候得とも手遠之場所も有之候ニ付左之通町々会

 

42頁 原 画

所江口上ニ而可申出早速組之者為駈付間橋

屋ハ勿論諸商売之者共安心し渡世可致候

    南堀江三町目  上難波町  阿波町

    堂嶋船大工町  雑■場町  南瓦屋町

  右之趣三郷町中江不残様可申聞候事

    三月十五日未上刻

    乱妨之者共人相書之写

 

                            大塩平八郎

年齢四十五歳顔面細ク長ク色白ク目之張り強キ方

眉毛細ク濃キ方額開キ月代薄キ方鼻常態耳常

体其節之着用鍬形之兜黒陣羽織着ス

                         同格之助

年廿七才色黒背低キ方鼻耳常体眉毛濃ク

向歯二本折有之

                         瀬田済之助

 

43頁 原 画

年二拾五才色青ク背高肥肉目丸ク二皮なり月

代薄キ方額付鼻高ク眉毛濃キ方下り在之

                            渡辺良左衛門

年四十一才色青白背低キ方目二皮ニ而大キク出目也

月代鼻耳常体

 

                        庄司儀左衛門

年四十才色黒顔細ク耳剃有之月代常体也

右之者共当地並後領内ニ而見合次第召捕又ハ及

仕儀候ハゞ討チ捨候共不苦候間早々御領内御吟味

有之怪敷者入込候ハゞ大坂町奉行所江早々御廻達

可被下候

因ニ右者蔵屋敷中江之書附を写ス又遠国近国

ニ而札場之張紙も右ニ准スれとも其書附ニハ

 

44頁 原 画

右之者共召捕訴出候者江者為褒美銀百枚可遣

尤人違ニ而も不苦候

前書之通大火後度々  御仁恵之御触書御廻ニ付

市中在々迄安心いたし業体を相勤申候乍併

出火後者米価追々引上諸色とも高料ニ相成

市中之困窮いふ斗なし

小豆壱升 二百三拾文   大豆壱升 百八拾文余

空豆一升 二百三四拾文  米壱升 二百八拾文斗(無程百七拾文ニなる

餅米壱升 三百文斗     油壱升 五百五、六拾文

酒壱升   三百文      塩壱升 五拾文

麦壱升  二百四、五拾文  大■米  二百二、三拾文

右ニ准し味噌豆腐香之物野菜廻りに至るまて

皆高直引上往古より未曾有之責価也

 

御公儀様ニ者乱妨之人々御吟味厳敷大阪出口々々者

不及申其外近国近在ニ者諸大名方より番所を立往

来人を一々御改厳敷近辺之海川池などへも網を入山林

竹林等残方なく草を分て御吟味ニ付悪徒追々

被召捕又者自殺之者も有之候然れ共張本人大塩

 

45頁 原 画

平八郎同格之助両人者一圓ニ行衛不知依而市中之

者不安心ニ而用心深き輩ハ猶蔵之目塗をも不取危

踏居候處摂州摩那山ニ大塩父子隠居候よし風説

有之依之西組与力内山彦次郎初組同心四ケ所浜方

之者大勢召捕ニ被向候得共人違ニ而浪人体之もの召捕

立帰られ候然る處三月下旬油掛町美吉屋五兵衛

(更紗職)方ニ大塩平八郎同格之助隠居候よし訴人

之者有之三月廿六日早朝より諸役人美吉屋之

八方を取囲廿七日早朝ニ内山彦次郎右油掛町江向

ひ美吉屋五兵衛を隣町会所江呼寄糾明有之候

 

同五兵衛宅より出火いたし候故諸人大ニ騒立火役之者

追々駆付内山氏ハ早速美吉屋江踏込裏口ニ行向ハれ

候ニ土蔵之後に別座敷有之通口之戸堅固ニ〆切有

之候得ハ内山氏大音声ニ名乗かけ大塩平八郎父子

立出て尋常ニ勝負致せと呼かけられ候時平八郎

聲ニ而罷出相手ニ成可申と答候得者相待被居候

處其後者猶々音も不致候故内山氏手之者ニ被申付

戸を投し平八郎ハ自害ニ及ひ候故脇差を奪被取候ニ平

八郎早々家中江飛入候勿論火勢強く候故川組火

 

46頁 原 画

役之者ニ火消申付両人之死骸を為引出候ニ早頭髪

面部共焼爛相好相分不申候へとも平八郎父子ニ違ひ

無之由故近辺之医師之古乗物江平八郎死骸を

乗同格之助死骸も駕に乗五兵衛ハ勿論信濃町会

所迄被引取候尤平八郎火薬ニ而座鋪を焼候と相見へ

申候明銅の火鉢者せ彼有之よし申候此内東西町奉行

も出馬被致火者火役共消申候扨内山氏ハ大塩父子之

骸を高原ニ引渡し其所ハ先手役人村之者並火消

三人二行ニ相成其次ニ死骸之乗物を縄にて巻両方

ニ木札を掛大塩平八郎死骸と大文字ニ書て提有之

 

次ニおなしく両方へ木札を下ケ大塩格之助死骸と書

其次ニ美吉屋五郎兵衛(六拾才斗)縄付き之侭駕ニ乗上を縄ニ

て巻舁行其後より内山彦次郎組同心佐川豊左衛門

銅関弥治右衛門 其余人数大勢附添信濃町会所より

本町通を心斎橋南江渡り大寶寺町東江九之助橋

より高原牢屋敷江引渡され候是を見物する者雲

の如く霞之如く寄合乱妨の張本たる大塩自滅を

祝諸人初而安堵の思ひをなしぬ

因ニ曰右美吉屋五郎兵衛妻ハ已前大塩屋敷ニ

奉公いたし候者ニて実ハ平八郎乳母之由其縁ニ而夫婦

 

47頁 原 画

とも大塩方へ出入致し年来恩義を受ると見へ

たり平八郎実子弓太郎(天保七年冬出産)出生之砌にも

初着として陣羽織を贈り候よし且又此度乱妨之

印織旗等も五郎兵衛より染遣し候由云々扨平八

郎父子を二月廿三日比より裏之別座敷ニ人しれず隠

し置折節米炭鰹節醤油等を運び遣し候を

平八郎親子炭火ニ而煮焚し命をつなき潜ニ隠

れ居候を知るもの更になかりし處五郎兵衛方ニ奉公

いたし候下女何とやら夫婦之体を怪敷おもひ三月廿

日比虗病を構へ保養之ため親元へ帰り両親ニ右

 

怪敷様子等咄し候由親里ハ平野郷ニ而当時の御城

代土井大炊頭殿領分の百姓故早速御城代之御家

来衆江注進に及ひ候依之西御奉行堀伊賀守殿

江御通達有之則御手当ニ相成内山召捕ニ向われ候由

風聞有之候 

 

三月廿七日御触書写

一 去月十九日市中放火乱妨ニおよひ候大塩平八郎父子

油掛町三吉屋五郎兵衛方ニ忍ひ居候風説有之

為召捕組々者差向候處両人とも致自殺相果其

 

48頁 原 画

外悪徒之者共追々召捕又ハ自殺いたし申候間其

段令承知無掛念普請等も致し諸商人共無危

踏商売可致候

 三月廿七日酉上刻両御奉行所より御城代江御書

上之写

大塩父子居所相知自殺仕候儀左ニ申上候

跡部山城守

堀  伊賀守

 

今般油掛町美吉屋五郎兵衛方ニ大塩平八郎並

同人倅格之助忍罷在候旨伊賀守組与力内山

彦次郎承込即刻同組同心共江手配申附右五

郎兵衛を他町江誘引出し平八郎父子居所相

糺候處右之者竊ニ囲置候義相違無之旨申聞候折

柄御手前御家来衆も申合五郎兵衛宅江踏込候

處表裏戸〆り堅固ニ付打破押詰候處火を放し

銘々持居候脇差を以自殺仕掛候ニ付平八郎脇差

者取上候得共家中江飛入火勢強寄附兼候ニ付父

子焼死仕候火中より死骸引出申候私共義も

 

49頁 原 画

早速出馬仕死骸見合仕候処惣体焼爛難相分

候得共最初踏込候節乍間遠言葉を掛慥ニ見届候

旨彦次郎其外之者共も申候右もき取候脇差ハ

右之者所柄ニ而南組之者平日見覚罷在候品之由

申聞候平八郎父子死失ニ相違無御座候委細之義ハ

猶追々可申上候 以上 

      三月廿七日

                         跡部山城守

                         堀 伊賀守

     

     乱妨人徒党連名並召捕自殺之写

               当時隠居   大塩平八郎

               東組与力   同格之助

右両人ハ乱妨之張本人也うつほ油掛町三吉屋五郎兵衛

宅ニ忍候處三月廿七日露顕ニ及ひ座敷ニ火を放し

平八郎格之助を手ニ掛火中江なけ込自分も自

殺し火中ニ飛入死ス骸当時塩漬

               東組与力   瀬田済之助

 

50頁 原 画

一旦迯延候得とも御手当厳敷剃髪之風体見

苦敷相成河州恩知村山中ニ而縊死ス骸当時

塩漬

               東組与力   小泉渕次郎

二月十九日暁七ツ時比東御役所ニ而御糾明之節迯

出し候を跡部山城守殿家来一条一と申仁追掛遠

国役所におひて討果され死亡ス骸当時塩漬

               東町与力平八郎伯父  大西与五郎

                          同倅  善之丞

右者平八郎連判ニ不相加候得共親族ト申殊更大

切之使者ニ立なから途中より虚病を構へ私宅ニ

迯帰り剰へ騒動を聞付兵庫迠迯行大小を海

中江投捨迯かくれ後倅善之丞と同時召捕ニ相成

入牢

               同組同心    渡邊良左衛門

右之者も一旦迯延候得とも御手当厳敷處立寄方

無之哉剃髪いたし迯さまよひ終ニ河州

 

 

 

 

  


盬平勢衰記6  大塩平八郎乱妨一件 翻刻版

2017-04-07 00:32:29 | 大塩平八郎

51頁 原 画

樫原ニ而二月廿一日自殺いたし 但シ余人を頼候哉

首切有之 骸当時塩漬

                      同  近藤梶五郎

右も迯延候得共三月九日ニ立戻り自分居宅之焼

跡ニ立帰り雪隠之後之辺ニ而切腹す 殊の外見事

之由 骸当時塩漬

                      同  平山助次郎

二月十七日夜反忠訴人ニより同夜山城守差図ニ而

江戸表江遣ハさる

                      同  吉見九郎右衛門

右反忠内訴之書附を倅莫太郎ニ渡し置出養生

いたし居候か騒動を聞付福嶋五百羅漢近辺迯行

被召捕

                      同  河合郷左衛門

平八郎ニ諷諫致候得ハ大ニ叱られ手こめに逢候而大ひに

恐怖し騒動のおこらさる前二月十日比四才の倅

 

52頁 原 画

を連逐電し当時行衞しれす

                      同  庄司儀左衛門

平八郎鎗術之門弟ニ而当日剛勢相働キ候處

大筒火廻りあしく候故附木ニ而火を付置なから火口を

覗キ過て大傷致し片手不叶様ニ相成其上焔硝

之煙ニ而眼中をそこなひ歩行不自由ニ付右悪徒共

迯去候節邪魔ニ相成候哉途中ニ捨置候を辛くして

南都辺落行候を奈良町奉行寺田丹下組之者召

捕大坂江引渡ニ相成

                      御弓同心  竹上萬太郎

二月十九日朝騒動聞付其侭迯出し方々江立退候

得共御吟味強く中山寺辺ニ而若戎と申茶屋ニ而

召捕られ候其後組頭江家名相談之願書差出シ

候写

      家名相続之儀奉願上候

私義譜代惣恩之義不奉忘却候忠重孝厚志之

立雖不肖不可有心懸然る所此度一儀私当月十一日

師敬知縁之者死之場をすくわんとして却而此謀ニ

53頁 原 画

落入られ不得止事約議仕候雖然小身之謀計

何そ取ニ足らん依之早速不奉申上誠ニ中々急速

とも奉存候處存外之一件不知身上處乱筆不顧

家名相続之義偏ニ奉願上候 恐惶謹言

  天保八年丁酉二月         竹上莫太郎

                        名乗書判

      上五兵衛様

      鈴次左衛門様

 或曰右莫太郎一味血判しながら当日ニ成迯去といひ

 右之如き願書を差上候条臆病未練之白痴漢也

 且願書も甚拙き文体旁以一笑ニ堪たり

              玉造口御組与力   大井庄一郎

右之者ハ玉造口大井伝兵衛倅也先頃より勘当

うけ申候由此庄一郎平八郎ニ一味し乱妨之朝

平八郎差図を受近江彦根之家来(名苗字不分明)の子

息兼而学問之為平八郎方ニ寄宿致し罷在候

を鎗にて突殺し血祭りニ致し候由其後騒動之

 

54頁 原 画

場迯去京都千本道ニ而京都町奉行組之者召捕

大坂江引渡ニ相成入牢

或曰右彦根家中之子息義平八郎一味ニ進込候

得とも不承知申立候故屋鋪内ニ虜同然ニ留置

騒動之暁酒宴之席ニ而一味之儀勧メ候得共

固く辞退し候故平八郎大ニ憤り庄一郎ニ申付

血祭ニ突殺させ候由抑此人は何人そや自分之門弟ニ而

聖経之一巻をも教導せし者なるを情なく殺害ニ

及ぶ事人面獣心とやいふへき可憎云々

               河州吹田神主平八郎伯父

                                        宮腰志摩守

右之者ハ当日乱妨之人数ニ加り其後私宅江迯帰り養

母を切害し自分も切腹いたし候處切損じ服少

し斗切近辺之川江はまり死亡す但し此者倅ニ

助命之願書を残し置しと言

           守口村質屋  向井孝右衛門

右之者ハ当日乱妨之人数ニ不加身上柄宜敷騒動之

日飯を焚悪徒江送候よし其後迯去伏見ニ而御奉

行加納遠江守殿組之召捕大坂江引渡しニ相成

 

55頁 原 画

入牢

          般若寺村庄屋  橋本忠兵衛

右之者ハ騒動之人数ニ加わり後迯去候節平八郎

家内之者ニ行合同道して落行江戸路ニ而

京都之組同心ニ被召捕大坂江引渡しニ相

成入牢

               浪人  梅田源右衛門

右者剛勢之曲者ニ而大塩方之大筒支配と

成先手ニ進町々を放火し後談路町ニ而坂

本弦之助の為ニ鉄炮ニ而討留られ死亡ス当

時塩漬

      天満九丁目住医者  高橋九右衛門

中山辺ニ而御城代御家来ニ被召捕入牢

               カマト三番  茨田郡二郎

御城代御家人召捕

 

56頁 原 画

              勢州山田御師   安田図書

              平八郎家来     西村利三郎

              指内野村       木村主馬之助

御代官根本殿家人召捕入牢

                       上田幸次郎

         信州溝口聖天堂預り  志村周作

                        額田幸五郎

                江戸浪人  深尾治兵衛

                        白井義四郎

                        上田与市右衛門

 

                        堀竹礒治郎

                        同 半十郎

                        曽我長輔

                       河山良助

              平八郎家来  杦山三平

                    同  曽我岩蔵

                    同  西村喜八

                    同  同 七郎

                    同  同 忠五郎

                    同  同 金助

 

57頁 原 画

右之者共所ニ而召捕入牢

                       横山千済

                       梶岡源右衛門

                       同  伝七

右之者共御代官家人召捕入牢

                      猟師  金助

右之者ハ至而鉄炮之名人ニ而平八郎兼而頼ミニ思ひ居候

處当日遅参ニ及ひ途中ニ而被召捕入牢

 

                  平八郎家僕当十四才  松本麟大夫

右ハ松本寛吾と申医師之倅也大塩江学問修行

之為奉公ニ罷越候当日人数ニ加り伏見ニ而召捕ニ相

成此者之白状ニ而徒党之名前又ハ其日之成

行大体相分申候由当時入牢

                      百姓  百五十人斗

皆々召捕ニ相成入牢

               東組与力済之助父

                      瀬田藤四郎

                      同  嫁

                      同 倅四才

 

58頁 原 画

         平八郎実子当二才  今川弓太郎

                   平八郎妾格之助妻

                        同  下女

右之者共皆召捕ニ相成当時拘り家ニ入

                    美吉屋五郎兵衛

                    同 並娘

右ハ初入牢之所妻子ハ宿下ニ而御預ニ相成五郎兵衛者

当時惣会所預ニ相成

版木師市田次郎兵衛

大工  治助

職人  治兵衛

書林河内屋喜兵衛

同  同茂兵衛

同  同吉兵衛

同  同新兵衛

此輩ハ落文之版木を彫又は木筒を拵へ或ハ平八

郎書物を買取なとせし吾咎ニ而当時町内御預ケ

或ハ他参止仰附候

 

59頁 原 画

     於江戸表矢部駿河守殿より御老中江

      進奉之写

昨廿九日夜六ツ時過跡部山城守組同心平山助治郎外

大坂表異変ニ付山城守差図之趣を以同人より

私江之書状致持参候間一読仕候處組与力大塩格

之助父大塩平八郎重立不易容企致候由右助次

郎内察申聞候ニ付即刻御当地江差立候間面談之

上委細承り候様申越候故面会仕候處一体同人者

去年正月中大久保讃岐守大坂奉行之節ハ町

目附者唱候役付申渡有之右ハ都而町奉行之組与力

 

同心共勤方並市中之風聞其外奉行手元隠

密之御用向為取斗候役筋ニ而近親之外同役

等出会も不致出来候ニ付其後者平八郎宅江も

不罷越候處同六月中同人門弟山城守組同

心渡辺良左衛門罷越自然異変等有之節

者忠孝之為ニ者身命を抱候哉之旨申聞不

審之義とハ存候得とも素より入順故右体之節覚

期ハ宜敷哉之旨外門人共代々申条一体平八郎

平常軍論文は政談を専に致し剛気之

者故全煉武之心附とも有之哉と存罷在候處

 

60頁 原 画

当正月六日前書之渡辺良左衛門並同組同心

近藤梶五郎清服ニ而罷越奉書紙ニ認メ候

書附持参致一読之上承知候ハゝ書判可致旨

申聞候得とも漢文ニ而更に読兼候間良左衛門

ニ為読聴致候處治乱を不忘臨時進退懸引

等之儀を認メ候趣ニ而外ニ怪敷儀も無之殊ニ

不同意ニ候ハゝ可討果勢ひニ付任其意書判致シ

候處当月上旬日不覚夜中竊ニ平八郎面談

致し度儀在之候旨申越候ニ付罷越候處火矢を

削其外門人共集り居昨年以来米穀払底ニ付

 

庶民及困窮畢竟御政道不行届之故之儀ニ付御城

代町奉行ニぞ寄有之候間若存立候節者一味可

致旨平八郎申聞如何と者存候得とも於其場容

易ニ異見等申聞候とも可取用様子ニも無之即座

ニ仇を可為勢ニ有之候間素より命を惜候而已ニハ

無之候得とも全く犬死致候より

公儀之御為第一と致覚期其場者程能及挨拶

尤平八郎平常口癖之様ニ御政事向其外御役

人等を種々批判致し不取留儀等申出舌論ニ而

已成行候も心外ニ付得与心色相探実否を顕シ

 

 

 

 

 


盬平勢衰記7  大塩平八郎乱妨一件 翻刻版

2017-04-07 00:32:02 | 大塩平八郎

61頁 原 画

途中病気之節ハ手後ニ可相成と存小者多助

と弥助と申者両人召連俄ニ京地ニ御用向有之候

与申成同夜及深更大坂出立いたし於途中

実ハ御当地江罷下候段咄聞走参候内今切渡

海之砌前書平八郎宅より出火ニおよひ大坂表

及騒動候取沙汰有之不得止事右小者ともへ

同人存立之趣荒増申聞右体之事故猶路之程

さし急候得とも大井川出水ニ而川留有之漸

(此間写行不分よし也)致し着府候由申聞候全御為を心懸苦心

致し候無相違相聞へ既ニ助次郎内通ニより山

 

城守伊賀守巡検を致儀延引候故平八郎之不

落入計趣ニ而者助次郎於心底掛念之心配者

無之候得とも右之通一大事わ致内通候ものも

萬一遺恨を含誰瞞候者有之間敷も難斗此

上身分気遣敷尤揚り屋江差遣ハ相糺不容易

吟味手懸を失ひ候様成行候而者助次郎ハ勿論

山城守心配も水之泡ニ相成殊ニ助次郎並小者共

右体大切之義を弁へ候者之義旁揚り屋にハ難申

付右三人とも大名乃内江御預ケ有之方宜敷可在

御座哉ニ付早々右預之内御差図有之候様仕度奉存

 

62頁 原 画

候以上

三月朔日

江戸御老中水野越前守殿より東御奉行

跡部山城守殿江御感状之写

其方組与力格之助父大塩平八郎義不容易不

届之企をいたし放火乱妨ニ及候節早速出馬

消除並捕方夫々及差図悪徒共速々ニ散乱相

鎮候次第彼是心配之骨折候故之義与一段之事ニ

候不取敢此段可申聞との

御沙汰ニ候

                        水野越前守

    惣 評

抑大塩氏ハ其元阿州蜂須賀家の家中ニ

大塩平助と名乗三百石ニ而馬廻り勤る士あり

其祖流大坂東組与力ニなると謂り平八郎ハ元

 

63頁 原 画

尾州之産ニ而今川義定末葉之由幼少より大塩

氏之養子となると言夫故実子弓太郎ニ今川

を名乗せ乱妨之砌着用せし兜も今川義元之

所持之由其聞へ也此人生得大胆剛腸ニて釼術

鎗術鍛錬し且陽明学に眼をさらし軍学にも

通じ才智衆に秀て出勤中裁評早く賄賂ヺ貪

らず曽て弓削新右衛門之私曲を見て切腹させ四ケ所

之之者責て刑ニ行ひ或ハ僧徒不如法を誡め

或は切支丹之悪徒を罰し不幸の之良民を恵ミなと

し其名四方ニ聞へ当時之明士と称せられたり然共

 

天性短慮殺伐にて人を刑殺する事甚多且自分

文学武芸を自負高慢し人を見る事土芥之如く

又能を嫉の癖もあり一年退役を願ひて隠居之

身と成剃髪して中斎と号養子格之助を出勤

させて其身文武之門人を教導するのミ日を送り

けるに天魔外道所為にや不容易企を存附表ハ無

欲仁義を唱へ

公儀之政事を誹判して荷担之者をあさむき剰

へ倅格之助に娶すへき養子娘を自分之妾とし終ニ

男子出産するに深く寵愛惑溺し先祖の名なり

 

64頁 原 画

とて今川を名乗て弥逆謀之臍を堅メ蟷螂か斧を

もつて立車を打にひとし何の事なく市中を

乱妨して億蔵の人に憂苦をミせ其身ハ火中ニ

死て生前に地獄に堕そも是何之行ひそや夫物

ニ始在さる事なく克終有る事鮮との金言まこと成哉

始メハさしも賢士と称せられ終ハ乱妨奸賊の臭苦を

残す後世の人是を前車の誡として忠孝の道を知

るべし