この「御内意之覚」は矢嶋忠左衛門が永年の忠勤を認められて唐物(とうぶつ)抜荷改方横目役に抜擢されたときの文書です。忠左衛門は文政元年(1818)初めて沼山津手永蚕桑見締として召し出されているので、この文書の発給された天保9年(1838)まで20年を経過しています。その間郡代手附横目、上益城井樋方助役、郡代手附横目本席などへ昇進しています。
御内意之覚
上益城一領一疋ニ而矢嶋卯内
養子沼山津手永河原村
居住当時御郡代手附横目
助勤
矢嶋忠左衛門
三十三歳
右者筆算達者ニ而才筆も有之往々御用
存立可申者と見及申候間今度渡辺当左衛門跡
唐物抜荷改方御横目被仰付在勤中諸役人
段ニ被仰付被下候様左候ハハ津口陸口見締役
御郡代手附横目をも兼帯可申付と奉存候
尤横目等申立之書付御達仕候節は両三人
名前御達仕候様被仰付置候得共御家へ会所
役人等之内外ニ見込之者も無御座其上右
忠左衛門儀は先役已来手附横目役助勤
申付置候而相減申候処往々御用ニ相立可申
相見申候間旁外之名前御達不仕候間
可然様被成御参談可被下候 以上
十二月 永田金左衛門
御郡方
御奉行衆中
忠左衛門儀達之通外ニ相応之人
物無之由御郡御目附御横目
見聞之趣も同様御座候間唐
物抜荷改方横目欠跡被
仰付在勤中諸役人段可被
仰付哉
右付札之通五月十七日達
※ 永田金左衛門は上益城郡代
覚
沼山津手永河原村居住一領一疋
矢嶋卯内養子
矢嶋忠左衛門
三十三歳
右者別紙申置之趣ニ付見聞仕候處壮健ニ有之
実体なる人物ニ而気働も有之筆算等宜敷当時
役方心地能出精相勤候様子ニ相聞行状など異候唱
承不申候委細本紙之通外ニ御郡代手附横目可相勤
人物差寄承込不申候忠左衛門別紙書面之通
被仰付候而も役前相応可仕人物ニ見聞仕候此段
御達申上候以上
戌 二月 野田常助 印
戌 五月十七日達
※ 野田常助は郡代手附横目