春日小前のポスターを回収に行ったついでに退野先生のお墓参りをしました。校庭から少し登った山の中にお墓はありました。学校の事務室に来意を告げると教頭先生が応対され、墓地まで案内していただきました。墓地までの山路はきれいにとまではいきませんが、草刈りなどもされており、市の整備費も少しは付いていることが分かります。
退野先生の「よめのしるべ」をテキストにして読み合わせをしたことがあり、懐かしい先生でもあります。その時の資料を下にコピーしておきます。
大塚退野
延宝5年(1677)12月~寛延3年3月5日。江戸中期の儒者。細川藩儒。名は久成、通称丹左衛門、号は初め蹇斎(けんさい) 、のち孚斎と改め。官職辞任後は玉名郡玉名村(現在の玉名市)に隠居、退野と号す。
現熊本市生まれ、家は代々細川氏に仕え、元禄15年(1702)5代退野のときは、官は番方で禄200石。宝永6年(1709)官を辞し講学に専念。世禄の家系だったので生活には困窮せず学問に没頭したが、地位的には生涯不遇であった。学問は初め陽明学であったが、28歳のとき朝鮮の儒者李退渓の『自省録』を読み朱子学に一変。さらに『朱子書節要』を精研しついに熊本実学派の祖となった。
退野の朱子学は実践躬行、学問深奥を究める点で、当時の官学の林家とは相当異なっていた。その流れは幕末の横井小楠、
元田永孚 らまでも影響し明治の教育に結実したといえる。また女子教育にも独自の見解を『よめのしるべ』に記している。門下に平野深淵ら。熊本市春日町長谷に葬る。 (熊本県大百科事典)
これは「よめのしるべ」の冒頭部分です。「丙午」というのは享保11年(1726)で退野先生49歳の年です。この書き付けはむすめの嫁入り道具のなかにあったのですが、婚家先で写本になり次第に流布したものと思われます。中江藤樹、貝原益軒などの同種の著作にくらべても思想の上で遜色のないものです。
墓地はこんな感じで、よく整備されています。墓石は20個ばかりあり、大塚家代々の墓地のようです。墓に刻まれている年代の最後のものは大正年間でした。いまではご子孫の御参りも絶えているように見受けられました。
墓碑の書き方が変わっています。「退野先生大塚君之墓」とあります。生前は退野先生と呼ばれて周囲に慕われていたことが墓碑銘からも窺えます。何々先生と呼ばれて慕われた人物をあまり知りませんが、たとえば「甘藷先生(青木昆陽)」、「虚子先生(高浜虚子)」などあります。退野先生もそのようなニュアンスで捉えてよいのかも。
古文書の会ポスターの回収をしました。
上にも書きましたが、お墓参りはついでにしたことで、線香も花もなく退野先生には無礼な行為だったかも。退野先生へ、次にゆくときにはちゃんと準備を整えて参上します。今日のところはなにとぞお許しを・・・・。
さて、春日小前、辛島町、花畑町と順に回収。花畑町から市電に乗って交通局前へ、そこからは徒歩で味噌天神前、水前寺駅通り、国府、水前寺公園前、体育館前、熊小前まで、7枚回収。熊商前から動植物園前まで市電。そこからは再び歩いて自宅まで、途中泉ヶ丘小前のポスターを回収。歩いた距離は4キロほどでたいした距離ではないのですが、今日の熊本は日差しが強く最高気温は25度に達していたようで、ちょっときつかったです。
ところで、これだけの事をしてどれほどの得になったのか費用対効果の考察も必要ですね。まず遣った電車賃合計136円(34円×4回サクラカード使用)。回収したポスター8枚の製作費用320円、差し引き184円の得ということになります。 しかしですね、これだけのことをやり遂げた達成感、また街に出て電車に乗ったり歩いたり、運動とともに爽快感も得て命の洗濯ができました。やはり大きなプラスが残ったと思っています。
味噌天神電停前の弁当やさんに行列ができているので、並んでいる高校生に、ここの唐揚げおいしい・・?と聞いたら、とってもおいしいと言うので後ろに並びました。
唐揚げ100グラム、これで190円は安いと思う。水前寺井の外公園のポスターを回収、そこのベンチに座ってこれを食べ昼食としました。味もなかなかのもの、なるほど行列ができるわけだ。
水前寺の電停付近を歩いていたら写真のような看板が目に付きました。「一意専心」をもじったものですが、なかなか面白いですね。店主の人柄が見えるようです。
これは泉ヶ丘小近くのお宅の生け垣に咲いていた椿です。こうしてアップにすると実物の大きさが分かりませんが、ほんとに小さく可愛らしい椿でした。木に咲いている数より落ちている花の数が多いくらいで、熊本の椿も終わりに近づいています。