古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

膝栗毛19 良寛和尚の書

2016-07-29 15:13:50 | 膝栗毛初編

 本日、東海道中膝栗毛初編を読了しました。1月に読み合わせを開始してよりまるまる半年が経過しました。初めの頃は3ページ~4ページしか進まなかったものが、いまでは6ページを楽にこなせるまでになっています。このことは皆様の熱意と努力の賜であり同時に、変体カナ習得もいよいよ卒業期に近づいていることを示しています。

 弥次郎兵衛・喜多八とともに伊勢参宮を果たすころには変体カナも皆様の身に付いていること間違いありません。

平井さんのヤフーオークション購入品 今回は良寛和尚の書でした。

          良寛和尚の書は贋作が多いそうですが、これは間違いなく本物である、と平井さんは言われました。

この書は良寛が編み出した独特の書体で書いてあります。お家流の書体とは全然違っていて私などには読むことが出来ません。奥付に楷書の釋文がありましたのでそれを掲載しておきます。

 釋 文

生涯懶立身 騰々任天真 嚢中三升米 爐邊一束薪 

(生涯身ヲ立ツルニ懶し 騰々トシテ天真ニ任ス 嚢中三升ノ米 爐邊一束ノ薪 )

誰問迷悟跡 何知名利塵 夜雨草庵裏 雙脚等間伸 

(誰カ問ハン迷悟ノ跡 何ソ知ラン名利ノ塵 夜雨草庵ノ裏 雙脚等間ニ伸ブ) ※五言絶句

 

安散都久比 無閑比能遠可耳 左遠志可當天里 閑美奈鬥幾

(あさつくひ むかひのをかに さをしかたてり かみなつき)

之久礼能安女爾 奴礼都々堂天理

(しくれのあめに ぬれつつたてり)  ※万葉仮名による和歌

        沙門良寛書

良寛の書に見入る皆様

 


膝栗毛18 さし銭と天保銭

2016-07-14 21:45:16 | 膝栗毛初編

 膝栗毛初編の読み合わせ会も残り1回となり、今月中には終了します。会員の皆様の熱意に少し押され気味ですが、期待に応えるべく講師も頑張らねばとおもいます。

 中川さんは担当箇所をしっかり読むために膝栗毛の活字本を買って予習したと言われました。中川さんの変体カナ習得も卒業期に入ったようですね。

 平井さんは、またまた銭を持参されました。今回はさし銭と天保銭(1枚で100文)でした。

 平井さんにはこのブログにアップしている「書翰用文鑑」をお借りしていましたが翻刻が終了したので、本日お返ししたのですが、イヤイヤこのような文書は講師に持っていただいて後々やくだてて欲しいと受け取りを固辞されますので、そのお志を尊重してわたしが所持することになりました。平井さんはそういうお人です。

 世話人の今村さんから、今回の地震で被災された詫間さんについて、メールをやっても返事が来ないとの報告がありました。会に出るのを毎回楽しみにしておられた人なので消息をさぐって励ましてあげたいものです、と言われました。折りをみて世話人と講師で訪ねることにしたいと思います。

さし銭と天保銭

平井さんの説明に聞き入る皆さん。

 


膝栗毛17 一文銭の通用期間

2016-06-25 01:18:34 | 膝栗毛初編

6月23日(木) 読み合わせ会

 会を重ねる毎に読む力がついて速度も上がってきました。初めのうちたどたどしかった読みっぷりが、この頃は随分スムーズになってきました。あと2回ほどで初編は読了できます。

 今日は会員の平井さんが一文銭を人数分持参され、私も1個いただきましたました。「膝栗毛」にはやたらと銭勘定tが出てきます。茶店で餅を食えば5文、馬に乗れば100文、駕篭に乗れば200文というふうです。ですから銭と円の比較論が絶えず出されるのですが、これにはなかなか答えられません。

 そんなことに触発されてか平井さんが、例のヤフーオークションで一文銭を買ってこられました。皆さんには初めて見る銭でした。文というのは例えば一文無し、早起きは三文の得というような慣用句で知ってはいるので、これがあの一文銭かというある種の感慨に打たれましたが、ヤフオクでは一文150円程度だそうです。

 「この一文銭明治維新後いつ頃まで流通したと思いますか・・?」意表を衝く平井さんの問いに誰も正解を出せませんでした。驚くなかれナント昭和28年まで遣えたそうです。そう言えば私のこどものころ10銭、50銭のコインがあったことを憶えています。その当時1文は1厘という最小の通貨だったそうです。イヤー勉強になりました。

 

 

 

 

 


神奈川宿台町の疑問解ける 膝栗毛初編16

2016-06-08 07:26:43 | 膝栗毛初編

 膝栗毛初編13で広重の絵の右側に家はなかったのか?・・という疑問を呈しておきましたが読者の方からお答えを戴きました。

 上の錦絵がその解答です。画面右側の坂道に人々の往来が書き込まれていますね、ここが神奈川宿台町です。ちゃんと右側にも家並みがあります。台町は片側町ではなかったということです。

 汽笛一声新橋を・・の蒸気車が横浜方面から走ってきました。人々は振り返って見物したことでしょう。そしてある感慨に打たれたはずです。最早将軍様の世に戻ることはない・・・と。


5月最後の読み合わせ会 膝栗毛初編15

2016-05-26 20:48:14 | 膝栗毛初編

平井さんのヤフオク購入品

会員の平井さんがヤフーのオークションで買ったと言って持参されました。浮世絵のトランプと手習のテキスト。桝添都知事が美術品を購入したあのヤフオクです。

東海道53次(浮世絵)をあしらったトランプ。日本橋から箱根までを並べました。

江戸時代の手習い用テキスト

慶応四戊辰年 書翰用文鑑 蘭月吉祥   ※ 蘭月は陰暦7月の異称(この年の9月8日に明治と改元)

これは近田綾子さんが購入された新刊本

崩し字は「左様御承知可被下候(左様御承知下さるべく候)」と読みます。近田さんは前会入会されたばかりですが、なかなか熱心です。


しらみうせ紐 膝栗毛初編14

2016-05-25 15:36:50 | 膝栗毛初編

しらみうせ紐の看板

 弥次・喜多の初日の泊まりは戸塚宿でしたが、2日目宿を発って街道に出ると乞食坊主に出会い銭をせびられます。その遣り取りがおもしろいので以下に引用します。

むこうよりちょんがれぼうず、やぶれたあふぎにて手をたたきながら、

坊主「ヒヤア御はんじょうの旦那方一文やつて下しやいませ」、

弥次「つくな つくな」、

坊主「とことことこよいとこな」、

喜多「コレ、つくなといふに、銭ハねえへ」、

坊主「ナニ、ないことがござりやしよ 道中なさるおかたにはなくて叶わぬぜにと金、またも杖・笠・蓑・桐油なんぼ しまつな旦那でも、足一本でハあるかれぬ。その上 田町反魂丹、コリヤさつてやのしらミ紐、ゑつちうふどしのかけがえもなくてハならぬ。そのかハり古いやつハ手ぬぐひにおつかひなさるが御徳用」、

弥次「エエやかましい、ソレやろう」

と、はヤミちより一文ほふりだす。坊主「コリヤ四文銭(なミセん)とハありがたい。」

弥次「ヤ四文ぜにか、なむさんぼう、三文つりをよこせ」

坊主「ハゝゝゝゝゝゝ」

弥次「いめへましい」

 上のやりとりで面白いのは乞食坊主のセリフの中に旅の携行品目がでてくるところです。ぜに金、杖、蓑、笠まではわかりますが、桐油とは・・?これは紙製の合羽のこと。雨具、防寒兼用です。桐の実から製した油を塗ってあります。

 反魂丹、俗に越中富山の反魂丹と呼ばれる腹薬のこと。ここでは芝田町境屋のものを言っているようです。

 さつてやのしらみ紐というのは挿絵を載せました。小伝馬町に  さつてや という店があったようです。

春よ江戸かゆいところへ手がとどく  椎下堂 活麿

 正確な名称は「しらみうせ紐」といい、腰紐様の紐に水銀を混合した薬品をぬり襦袢の下に付けておくとしらみ除けに効があったそうです。近代になってからも軍隊の中で重宝がられ大陸へ行く兵隊はこれを携行したそうです。

 旅の乞食坊主が、いきなり銭の無心をしますが、弥次・喜多はそれに応じます。その態度に少しも不自然さがなく、江戸時代というのはそういう社会だったのですね。「反魂丹」、「越中ふんどし」等もっと解説をしたいのですが、それは別の機会に・・。


神奈川宿 台町とは・・? 膝栗毛初編13

2016-05-18 14:33:16 | 膝栗毛初編

~~はや神奈川のぼうばなへつく。それよりふたりとも馬をおりてたどり行くほどに神奈川の台に来る。ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下桟(かけはし)などわたして、浪うちぎワの景色いたってよし。~~

 弥次・喜多は川崎宿で大名行列を見物したあと、勧められるままに200文を払って2里半の道のりを馬に乗って神奈川宿に来ました。200文というのは2匹の馬を並べてとありますから、1人100文ということになります。

 「ぼうはな」というのは「これより神奈川宿」と記した棒杭のこと、もしくはそれが建っている地点を指し、「神奈川の台に来る」というのは台町に着いたということで、広重の絵でも分かるとおり、ここは少し登り坂になっています。台町は宿の中心なのでしようが、道の右側に建物はないのでしようか、広重はそこを描きこんでいないし、一九の文章もそこには触れていません。台町は片側町だったのか、気になりますがご存知の方教えてください。

 広重の浮世絵 神奈川宿

 ~~ちゃヤのおんなかどに立ちて「おやすミないやァせ、あったかな冷飯もございやァす。煮たての肴のさめたのもございやァす。そばのふといのをあがりやァせ。うどんのおつきなのもございやァす。お休みなさいやァせ。」~~

 おもしろい呼び声ですね。 「・・・やァせ、・・・やァす」というのは考証がありますが、「あったかな冷飯、煮たての肴のさめたもの・・」以下の呼び声は一九の創作のようです。

 茶屋のむすめ「お休みなされやアせ、奥がひろふございやす」、喜多八「おくがひろいはずだ、安房・上総までつづいている。」

 広重の絵を見ていただきたいのですが、海の向こうの島影は正に安房・上総なのです。広重はこの絵を描くときに一九の文章を参考にしたのではないか。膝栗毛は享和2年(1802)の上梓、広重の絵は天保4年(1833)31年後のことですが、文章と絵があまりにぴったりとはまっています。


往来手形 膝栗毛初編12

2016-05-06 09:53:17 | 膝栗毛初編

~旦那寺の仏餉袋をやわらかにつめたれバ外に百銅地腹をきつて往来の切手をもらい、大屋へ古借をすましたかわり、御関所の手形をうけとり・・~

 上記の文章から往来切手というものは2種類用意したことが窺えます。つまり百銅(百文)の自腹を切って貰った手形は諸国寺院向けでこれは旦那寺からもらい、関所向けは大家に頼んだということです。では実際の書付けがどんなものであったか、江戸飯倉町一乗寺発給の手形を見てみましょう。

【例1】

   一   札

一 拙寺檀家江戸京橋古着店三右衛門母とみ儀心願に付今般千ケ寺参詣に罷出候、以御慈悲諸国

   御関所無相違御通可被下候。為後日往来一札仍而如件

                   江戸芝飯倉町

文政十一戊子年            一乗寺 印

諸 国

御関所

御番衆中 

【例2】

   一   札

一 拙寺檀家江戸京橋古着店三右衛門母とみ儀心願に付今般千ケ寺参詣に罷出候、

一返之御首題奉希候、若行暮候はゞ一宿被仰付可被下候、万一病死仕候はゞ、以御慈悲其所に御取置被下、幸便之節為御知可被下候、為後日往来一札仍而如件

                   江戸芝飯倉町

文政十一年戊子年           一乗寺 印

諸 国

  御寺院中

 弥次・喜多が貰った手形がどのようなものだったか作品に記載がないので分かりませんが、それは上記2例のようであったろうと思われます。手形文言中の「誰それ母とみ儀」というところを「江戸神田町何々店弥次郎兵衛及び食客喜多八儀」と書き換えればよいのです。

 例1は諸国関所、番所宛てのものです。仏餉袋(ぶっしょうぶくろ)にやわらかにつめたればとあるのは、寺の法要(彼岸、盂蘭盆会、施餓鬼等)の時檀家は仏餉袋に米を詰めて持参するのですが、しみったれの弥次・喜多はそれをやわらかに詰める、つまり3合のところは2合5勺、1合のところは8勺とケチッて納めていたので、寺のウケが悪く、手形をもらう段になって自腹を切らされたというのです。

 また例2は諸国寺院宛てのもので、旅行中病死をしたようなときは当寺へ知らせて欲しいと書かれています。この手形は大家に頼んで発給者へ申請するのでしようが、店賃が溜まったままでは頼めないので店賃をすっきり清算したということです。

 江戸芝飯倉町 一乗寺というのは港区麻布台に現在も存在する日蓮宗の寺院です。「一返之御首題」というのはお題目「南無玅法蓮華経」の功徳を授かることで日蓮宗に特有の文言のようです。

 また別の文書に、「今般心願ニ付甲州身延山並諸国霊場参詣ニ罷出候処一返ノ御首題御受ケ下サレ度候・・」という文言が見えこれも日蓮宗寺院発給の手形と思われます。

 さて、上記2例の文書は古文書を翻刻したもので、古文書のサイトとしては古文書そのものを載せたいのですが、それは所有者の著作権に触れる事になり無断ではできません。 やむを得ず翻刻文を掲載しているのですが、それも読みつらいので読み下し文にしてくれという要望があります。便宜のために本文のみ読み下し文を掲載します。

一 拙寺檀家 江戸京橋 古着店 三右衛門母とみ儀 心願に付今般 千ケ寺参詣に罷出(まかりいで)候、御関所相違なく御通し下さる可く候。後日のため往来一札よってくだんのごとし。

一返之御首題希い奉り候、若(もし)行暮候はゞ、一宿仰せ付けられ下さる可く候、万一病死仕候はゞ、御慈悲を以て其所に御取置下され、幸便之節 御知らせなし下さる可く候、後日のため往来一札よってくだんのごとし。


富貴自在冥加あれとや 膝栗毛初編11

2016-04-29 21:39:42 | 膝栗毛初編

今日(4/28)から初編にはいりました。

 14日と16日に地震があり水前寺公園は参道の鳥居が落ち、池の水が涸れるという大変動が起き、健康ふれあい広場も閉まったままでしたが、今日から開館しました。

 出席⒋人、欠席3人でした。欠席3人のうち女性の詫間さんは地震絡みです。自宅が被災して避難所生活だそうで、当分の間予定が立たないということです。まことにお気の毒で、心からお見舞いを申し上げます。詫間さんと対照的な幸運者は平井さんで、地震で一冊の本も落ちず、その夜はすることもないので朝までぐっすりと寝てしまったと言われました。こんな幸運もあるのですね。

 さて、「富貴自在冥加あれとや」の意味が分からないと質問がでました。富貴とはお金や名誉のこと、それを自在にできるような神様のご加護があれば良いのになあ・・と言うほどの意味でしょうか。

 直訳はそうですが、ここは一篇の書き出し部であり作者がもっとも工夫を凝らすところです。発端では「武蔵野の尾花が末にかかる白雲」という古歌を引用して江戸の殷賑ぶりを描出しましたが、ここでは琴歌の本文を取っていると三田村鳶魚は言っています。本文の文句に 「菜蕗(ふき)といふも草の名、茗荷といふも草の名、富貴自在、徳ありて、冥加あらせたまへや」とあるそうです。

 意表に出る才と教養があったということですね。琴歌よりもこちらが本家のようになりました。一九の力の籠もった文章の冒頭部を書き出しておきます。

富貴自在冥加あれとや、営み立てし門の松風、琴に通ふ春の日の麗らかさ、げにや大道ハ髪のごとしと毛すじ程もゆるがぬ御代のためしにハ、鳥が鳴く吾妻錦絵に鎧武者の美名を残し、弓も木太刀も額にして、千早振る神の広前におさまれる豊津國のいさほしは、堯舜のいにしへ延喜のむかしもまのあたり見る心地になん。